グラニル♀+ライル♀ ドアが閉まります、なんて律儀で悠長な声が時々嫌だ。特に急いでいる時と機嫌が悪い時。八つ当たりなのはわかってるけど。 腕を組み苛々と爪先で床を叩きながら、おれは乗り込んだエレベーターが階に着くを待つ。気分はどん底、だだ下がりなのに上へ運ばれるのもなんだかおかしなものだ。階に着いたら着いたでお出迎えするのは夜中でも消えない通路の電灯で、明る過ぎて煩わしい。 この世の全てを憎むとかそんな大それた所まではいかないが、己の目に入るもの全てが憎たらしいくらいにはおれは今気分が悪かった。 原因は単純にして超厄介、恋人との喧嘩だ。デートの最中に喧嘩して、激昂するまま言葉を投げつけてきて、こうして勢いのまま帰ってきてしまった。 しかも腹の立つことには、こんな展開は今日が初めてじゃなかった。もし初めての喧嘩だったなら女々しく反省してどう仲直りしようかとかぐるぐる考えてたんだろうが、残念ながら何度目かわからない喧嘩だ。どうしてこう同じことを繰り返すんだとか学んで反省しろよだとかその分余計に腹が立つ。相手にも自分にも。 それにたぶん恐らくきっと、この恋はもう潮時だ。喧嘩するほど仲が良いなんてのんきな言葉はおれ達には当てはまらない。ていうかおれの経験上おれの場合、喧嘩したならほぼ100%関係を悪化させる。言葉選びが悪いのか態度が悪いのか何なのか。 ああもう自己分析に入ってしまいそうだからやめだ。自分からますます暗くなるとか馬鹿らしい。 今日はもう思いっきりシャワーを浴びて酒でも呷って寝てしまいたい。 家のドアを開けただいまと習慣で言う。いやただいまと言いかけてしかしもう寝てるかと口を噤む。 ここはおれ一人の家じゃない。今の所唯一喧嘩しても離れていかない人間、双子の姉と二人暮らしの家だ。 普段おれが帰ったら姉はわざわざ顔を見せておかえりと言ってくるが、さすがに今家の中は真っ暗で、時間的にもたぶん寝てるんだろう。 苛ついているとはいえ姉まで刺激するのはあれだから、おれは音を立てないようゆっくりドアを閉める。閉めた途端、おれの配慮に反してオートロックの音が堂々響いてくれるのだが。 まぁしかし家に入ると馴染んだ空気にほんの少し気分が宥められ、一息吐く。 今日の夕食は魚のスープだったのか、玄関まで少しその匂いがする。女2人の家なのだから入った瞬間芳香剤の花の香りがするとかそんな色気があってもいいようにも思うが、このやけに家庭的な匂いがやはり落ち着くのだった。 味付けがうまくいったのなら明日の朝、残りを食べてもいいかもしれない。 と、そこでおれは家の中から微かに声が聞こえてくるのに気付いた。 勿論姉しかいないんだから姉の声だ。耳を澄ませてみればやはり姉の部屋から聞こえる。よくよく見ればドアも僅かに開いていた。 まだ起きてたのか。 少し意外だが、しかしこんな日もあるだろう。 誰かに電話してるのか、断続的に小さな声は聞こえてくる。 何にせよおれの部屋はその奥にあるから、足音を忍ばせながらおれは廊下を進んだ。 この感じだと姉はきっとおれが帰ったことに気付いていない。一応顔を見せた方がいいかと、おれは通り際何とはなしに中を覗いた。 覗いて、足を止めた。いや、というより、体全体の動きが止まってしまった。 ーーーああしまった。 失敗した。 ものすごい失敗した。 いくら自分の家の中で油断していたとは言え、苛立ちを抱えていたとは言え、おれはもう少し声の具合に気を向けるべきだった。そうすればこんな失敗しなかったはずなのに。 きっと姉はおれが今夜帰って来ないとばかり踏んでいたんだろう。実際喧嘩さえなければ帰ってこないつもりだった。 そして予定でも朝帰りする恋人がおれにいるなら、双子の姉にだってそれはいる。 橙色の明かりが淡く灯る中、姉は金髪の男と一緒にいた。口を開けばいちいち鬱陶しい、おれの嫌いな姉の恋人と、ベッドの上に。 もう恥じらう歳でもウブなたちでもないから明け透けもなく言ってしまえば、ふたりは対面座位でセックスの最中だった。 とんでもない失敗だろう。 ああもうこれはおれの人生バッドタイミングランキングのベスト5には余裕で入る。断言する。 けれどおれは今までそのランキング上位の場面ではずっとしてきたように、見なかったことにしてその場を去るということは、今、できなかった。 おれはただ立ち尽くしてその光景を見ていた。まるで一枚の絵画の前で足を止めた人のように、その光景に吸い込まれるように引き込まれるように、食い入るように。 淡い光に照らされながら姉は男に揺すられる。俯き加減、垂れ下がる髪のせいで表情は窺えない。ただ切なげな声を出し、男の体に縋る。 実の姉妹、それも双子の片割れのそんな姿を見るのは、普通羞恥だったり嫌悪だったりで耐えられなかったりするんだろう。すぐさま記憶から消したいとすら思うのかもしれない。 でもおれは違った。 少なくとも嫌悪は、なかった。 ただ息を忘れるくらい潜めて、瞬きもせず、ふたりを見る。 おれの視線にふたりは気付かない。 いつもおれのことばかり気に掛けている姉が、軍人だからなのかやたら気配に聡い男が、気付かない。 互い以外眼中にない、互いだけに夢中なのだとそれだけでよくわかった。そして突き付けられたその事実に、おれは気付いてくれた方がまだマシだったと思う。 ふたりはすぐ近くにいるのに、どこか別の世界にいるみたいだった。 男はゆっくりと腰を使いながら姉の耳元に顔を寄せ、何事かを囁く。 何を言っているのかは聞き取れない。ただ姉が小さく首を振ったり時折頷いたりする。 それから男の笑った気配がして、次の瞬間、男は姉を押し倒した。 体の繋がったまま男は姉にのし掛かり、姉と唇を合わせる。それは長いようにも短いようにも思えた。なまじ見た目だけはいいせいか男の動作はいちいち幻想的で、現実感覚を曖昧にさせる。 ゆっくりと唇を離すと男は姉の頬を撫で、張り付いた髪を寄せた。 そして囁く。 こればかりははっきりと、聞こえた。 「ニール」 おれがいつからか呼ばなくなった名前で、男は姉を呼ぶ。おれは自分で呼ばないものだから、それは姉のことなのかと、一瞬疑った。 それは姉の名前なんだろうか。 それが姉の名前だっただろうか。 父さんや母さんでさえも、そんな響きで姉を呼ばなかった。だから、おれは、混乱する。 あ、とおれは思わず声を出しそうになって、何とかすんでの所で堪え、自分の口を手で覆った。そしてここで覆っておいて良かった。次の光景にまた声が出そうになってしまったから。 男の広い手が離れた瞬間、初めて姉の顔が露わになった。 姉は潤んだ青い目で男を真っ直ぐに見上げ、長い睫毛に涙を絡ませ、頬を薔薇色に染め、濡れた唇で緩やかに笑っていた。 それは見たこともないくらい綺麗だった。 今まで見たこの世の何より美しかった。 そこにいるのは姉じゃない、「ニール」だった。 瞬間おれの中の何かが激しく震える。思わずおれはしゃくり上げるようなひゅっと乱れた息をした。 ニールは男の首に回していた腕でくっとその厚い体を引き寄せる。男は応えるようにニールを抱き寄せる。 きっとあの男はニールが望むもの全て、当たり前に、一瞬の躊躇いもなくくれるのだろう。 おれがやれなかったものもやらなかったものも、そもそも持っていなかったものも、全て。 そしてニールに躊躇いもなくそれらを望ませることすら、できる。 ふたりは再び体を揺らし始めた。 徐々に動きが早くなるにつれニールの声も大きくなる。 それでもしている行為にかけ離れて、その光景は美しかった。 それに、ああ、信じられないかもしれないけど。 おれはその光景を目の当たりに、なりたいと思っていた。嫉妬にも近い気持ちでなりたいと思っていた。抱かれている同性の姉にではなく、抱いている男の方に。 その眼差しで、その表情で、その声で、姉に触れられ、愛していると言われたいと思った。 けれどそれはどうやってもどう悔いてもどう足掻いても、手に入れられないものだ。 姉がおれにくれる愛してるは違うのだから。 姉は今あの男を誰より愛しているのだから。 ふたりはまるでひとつになったみたいに睦み合う。 元々ひとつだったのはおれの方なのに。 おれはドアを離れ、静かに家を出た。 さっきあれだけ苛々して乗っていたエレベーターに黙って運ばれ、マンションの外にまで出てしまう。 ドアが閉まりますなんてあの悠長な声がやはり悠長に背後から聞こえた。ああそうだなぴったり閉めろよ。 ひんやりと身を包む深夜の空気はおれに優しかった。いや、もう、家の外にあるもの全てが優しい。 外灯の届かぬ所まで歩くと壁に背を預け、おれは煙草に火を点けた。こんな時縋る先がこんな細っこいものだなんて我ながら情けないと思いながら、けれど確かに苦味は馴染む。 心ばかり泣きたくなっているけれど、どうせおれは体では泣けない。わざと噎せれば嘘でも泣けるだろうかと思ったが、そんな気力ももうなかった。 壁に沿ってずるずるしゃがむ。 ああ、そうだ。 過去したどんな失恋より胸が痛かった。 これより痛い失恋も、今後きっとないだろう。 終わりかけの恋もどうでもいいくらいにただ悲しかった。 どうかふたりの夜が長く続くように願いながらもおれは再び帰れる朝を待ち焦がれる。 明日の朝、帰ったら、どんな顔でおはようと言おうか。 それだけをとりあえず今は考えておこうと思う。 [グループ][ナビ] [HPリング] [管理] |