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夏の図書館には真剣な顔付きをした学生が多く集う。
程よくクーラーの効いた静寂を約束された空間は、時の流れを直に感じさせなくした。
ブラインドの隙間から入り込む光の、光量の変化だけを何となく感じながらニールはペンを動かし続ける。

高校三年の、夏。

高校生活最後の夏休みと言えば聞こえは良いが、その実八割は講習に消える。
今日も午前の講習を行ったばかりで、昼食を済ませたニールは勉強の為図書館を訪れていた。決まって図書館奥の一角、入り込んだ場所にあるおかげであまり人の来ない席に陣取る。
読書好きとして整然と並ぶ本に手を付けられないのは悔しいが、ここが正念場だ。ただひたすらに静寂の音を聞きながらニールは数式を解く。
数学=文系のニールの足枷という方程式を何とか覆そうとニールは必死だった。
数式と睨み合って時々頬杖をついて、考えて。確かめ確かめしながら答えを導き出す。
誰かの足音をBGMにしながらニールは次のページをめくった。
難問と前置きされた、見るからに疲れそうな問題。
「難問」と書かれているのにそのくせ教師からは絶対解けないと受験は無理だと言われる。皆が皆出来たら難問にならないだろうにと思うのはただの屁理屈か。
とりあえずペンを持つ。
足音はいつの間にか止まっていた。
変わりに、そっと椅子を引く音がする。
微かに空気が動いて、足音の主はニールの左隣に座った。
顔も上げず視線も向けず、ニールはただペンを握る。
文字と数式。
「難問」。
考える。
ペンを意味もなく口元に寄せる。
見つめる。

「教えて」

さっと、ノートを左へスライドさせた。

「……いきなり難問を出されても、」

苦笑混じりの声がして初めてニールは視線を上げる。
上げながら、握っていたペンをタン、とノートの上に乗せた。

「お前ならわかるだろ」
「……姫のご所望とあれば」

ふ、とグラハムは笑う。
それから左手でペンを取った。
大学生の恋人というものは受験に有利かもしれない。そんなアイテムみたいな言い方、失礼だけれど。
3つ上、大学3年生のグラハムはニールの恋人だ。そろそろ付き合って2年になる。そして理系の彼はニールの支えだ。精神的にも実質的にも。
少し問題と向き合ってからグラハムはすらすらとペンを動かし始めた。そして親身に教えてくれる。
図書館故控えめに発せられる彼の低い声は心地良くてつい目を閉じて聞き入ってしまいたくなるが、私欲は切り捨てペン先を目で追う。
相変わらず几帳面で丁寧な筆跡は見ていて気持ちがいい。
うんうんと頷きながらニールは聞いた。
やがて答えに辿り着くと彼は柔らかに笑う。

「どうかな」
「うん」

じっと最後の解を見つめて神妙にニールは頷く。彼の説明は分かりやすいから、考えているのはわざと彼の声を聞くためだけに質問するのかどうかなのだが。

「こんな拙い説明で大丈夫だろうか」
「嫌味に聞こえるぜそれ」

本当に彼は教えるのが上手い。
塾とかでバイトしたら、と以前言ってみたことがあったが、姫に教えるのが楽しいのだと彼は言い、身を立てる芸になるだろうにずっとニールの専属であり続けている。
まあ実際バイトされたら彼は生徒にかなりモテそうだから、本気にしなくて良かったと後から安堵したのは秘密だ。自分で言っといて。
ニールはグラハムが好きだ。
おそらく付き合い始めの頃よりずっと。
高校3年というストイックな学年を迎えたニールは1日かけてのデートなどもっての他と切り捨てたが、グラハムはこんな図書館での「勉強会」でもデートと呼ぶ。
ただニールもいつしか彼が隣にいる「勉強会」が楽しくなってしまったのは事実で、困った時にはグラハムに聞こうと自然と思うようになった。

「これも」

用意していたページをグラハムの前で開く。
さっとスライドさせると空気抵抗でぴらりとノートの端が舞い上がった。
少し笑ってグラハムは紙面に視線をやる。途端に緑の目がちょっと真剣になる。
左利きの彼は書いた文字が右へ書き進める手の下に次々隠れてしまう為、読むには一行書き終えるのを待つ必要があった。
机の上に両手を置いて待ちながらニールはそんな彼に対して根拠のない迷信を引き出し、天才型めと心の中で詰ってみたりする。
手持ちぶさたを良いことにまじまじと彼を眺めた。
真面目な彼の横顔が好きだ。
伏せ気味になった睫毛の長さだとか、顔の輪郭だとかを目で辿る。
ずっとそうしてりゃいいのにな、とは天邪鬼。
そしてあんまり見てると気付かれるので今度は手元を見た。しっかりと文字を紡ぐ指先だとか整えられた爪だとか。
どこを見てもいい目の保養だと思う。決して口にはしないが。

「どうかな」

顔を上げて彼が説明を始める。
数式は彼によって描かれれば何故だかよく理解できる。彼が辿った世界を共有したいとフルに頭が動いているのか。
一言も逃さず聞いてうんと頷いた。

「どうも」

左手から右手にペンを受け取る。
きっと次はできるだなんて言われたから、多分できるはずだと右のページに移る。
真白のページはどこかわくわくして眩しくて、少し寂しい。
彼の優しい眼差しを受けながらペンを走らせる。彼の頭の中ではもう答えが導き出されているはずだ。自分は彼のいる世界に辿り着けるだろうか。

「……なぁ」

ふとニールは声を出した。ペンは止めない。

「何かな」

グラハムもニールの手元を追いながら答えた。

「おれがもし受かったらさ」
「姫なら受かるさ」
「……ん、……でも、そしたらさ、」

改行してイコールを書く。

「会えなくなるな」

ニールが志望している大学はここからずっと遠くだった。もしグラハムの言う通り合格したなら、ニールは今暮らししているアパートを引き払ってそちらへ引っ越す。
この町から、ニールは離れる。

「それは仕方のないことだ」

グラハムはただ進み続けるニールの手を見ていた。

「寧ろ私は姫が私に捕らわれず姫の道を決めてくれたことが嬉しい」

自分の夢を大事にして欲しい。
そう、グラハムは言った。
けれど離れてしまえば会えないし、ニールを囲む環境も変わる。
離れてしまえば、知らない所で何かが変わってしまう気がして。

「――――別れる?」

公式でも暗唱するように淡々とニールは言った。
最初から頭の中に用意していたように。

「断固拒否だ」

グラハムはノートを押さえていたニールの手を握った。クーラーの効いた屋内で心地いい体温だった。
しかし知らないふりをしてニールはペンを動かす。

「姫と別れる気はさらさらない」

聞き分けの悪い子供みたいにグラハムは言った。
ニールは少し眉を下げて笑う。

「遠距離恋愛ってやつ、おれはできないと思うな」

まだ先のことだけれど。
一緒にいれば嘘みたいに楽しいから、離れてしまうとなると冗談みたいに不安だ。

「絶対できない」
「姫は私達の仲が冷めるとでも思っているのか」
「……自信家だなお前は」
「心配性なのだ姫は」
「ロマンチスト過ぎ」
「姫がリアリストなのだろう」
「二兎追うもの一兎も得ずっていうだろ」
「一挙両得、一石二鳥とも言う」

恋愛と生活と。
不安二兎。
遠く離れる彼ばかり思って他のことに気が回らなくなってしまうんじゃないかとか。新しい生活に忙しくしている内に彼とうまくいかなくなってしまうんじゃないかとか。
果たしてバランスよく両方こなせるのだろうか。
脱兎の如く逃げ出してしまいたくなるくらい不安だ。
ニールは悪い方にばかりいつも考える。
予め悪い方悪い方ばかり考えて、実際転んだ時に大した怪我にならないように。
例えば。七転び八起きと言われたなら七転八倒と言う。苦しみに悶えて立ち上がれない。
三度目の正直と言われたなら二度あることは三度あると言う。保証なんてどこにもないんだから。
そんなタイプなんだ。性善説より性悪説を支持してしまう質なんだ。
そもそもそんな風にどっちに転んでもいいよう都合良く言葉が用意されてること自体、現実の厳しさの表れだろう。
とにかく現実は厳しい。
第一合格できるのだろうか。
本当に道はこれでいいのだろうか。断固として決めたはずでも時々揺らぐこの気持ち。人生は一度きりなんて残酷だ。人は二度生まれると言うなら人は二度死ぬと言うなら、その間も二度くらいあったっていいじゃないか。一度きりのくせにやり直しの効かない選択の連続だなんてどんな仕打ちなんだろう。
後悔はしたくない。だから迷う。不安だ。
不安だ不安だ不安だ。不安ばっかりだ。
誰か未来を知る人でもいたなら、聞けたらいいのに。
それともこんなだから現代の若者はなんとかとか言われるのだろうか。評論文の読み疲れで気が滅入る。
とにかく何をやっても不安なんだ。
重苦しくてがんじがらめな気がしてそのうち考えるのが嫌になって、一人の帰り道イヤフォンの音量をどんどん上げる。
倫理の防衛機制に当てはめたらこれが逃避か、なんて。あの分類は心当たりが有りすぎて困る。

「なんかさ」

このままでいたい気がして。
でも新しい所に行きたい気もして。
新しい生活を夢見て。
でも今までのものが失われるのだと思うと寂しい、悲しい。
葛藤、アンビバレンス、二律背反。
これを乗り越えたら大人になれると言うなら子供って存外苦しい。

「お前は大人だからいいよな」

ニールは三次関数のグラフを書き出す。この波打ちは高校生の心の揺れなんじゃないかといつも思う。夢と現実と。
山を書いていたらグラハムは大人だろうかと呟いた。

「社会にも出ていないのに」
「おれからすれば大人だよ」

グラハムはまだニールの左手を握ったままだ。思えば彼の手が大きいのだって、単に性別の違いによるものだけじゃない気がする。

「存外歳を取っても昔と変わらないものだよ」
「うそだ」
「本当だ」

駄々っ子のように言ったら彼は優しく暖かく、包み込むように言った。

「ならば私は『大人』として姫に安心を与えよう」

まるでグラハムは全て見通しているかのように微笑む。

「何年経とうとどう環境が変わろうと、私は君を好きでい続ける」

それがただひとつの真理のようにグラハムは言った。もやもやとしたニールの心に一筋光を灯すように。

「大丈夫だニール。何も不安に思う必要はない」
「………………」

彼は知っているのだ。
不安だらけのニールが欲しいのは励ましや応援の言葉などではなく、揺らぎない絶対の肯定だと。
聞きながらニールは問題を解く手を止めない。
数字とグラハムの言葉が頭の中に同時に流れる。
彼の言葉には具体的な根拠がない。はっきり結論付けるには色々不十分だ。
けれど、ニールにとって、どんな哲学者の言葉よりどんな科学者の証明より受け入れられるのは確かだった。
不安だらけの生活で。
ひとつくらい何か、信じてみようか。
今や常識になってる発明だって事実だって最初は否定されたというから。

「答え、」

ようやく導き出された解の下にニールは線を引いた。
彼が教えた通りに解いたから、きっとこれが本当の答えだと信じる。

「合ってる?」
「合ってるとも」

見つめ合ったグラハムは確かに頷いた。
正解はいつも彼が持っている。





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(夢見る少女に貴方がさせるの)











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