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刹マリアラビアンパロ
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「刹那!」

ざり、と地面に降り立つと息を切らして走り寄る人影があった。背後で黒馬が嘶く。煌々とした月明かりが歩調に合わせて乱れる黒髪を照らし、その持ち主である女を照らした。
絶世の美女と謳われるその顔は、安堵と憂いを帯びている。

「刹那、」

肩を上下させながら胸に手を当て、一国の姫は騎士の正面に立った。

「マリナ・イスマイール」
「無事だったのね、」

目元まで上げていたストールを下げ、刹那は小さく頷いた。
昼の暑さが不思議なほど冷えた夜風が、ローブの裾を弄ぶ。いつであろうと乾いたままの大地からは砂が舞った。

「戦況は聞いただろう」
「ええ、でもずっと心配で」

マリナは刹那の顔を見つめる。
西の最前線に向かった刹那は退勢だった戦況を建て直し、士気を上げて戻って来たばかりだ。馬を走らせての移動でも体力を使うというのに、彼は一日中一度もろくに地上に腰を下ろしていない。

「休みましょう刹那、貴方が持たないわ」

一歩、マリナは歩み寄る。しかし、刹那は重心を後ろに傾けて引くような動作をした。

「あまり寄るな。お前が汚れる」

言いながら、すっとローブを寄せる。しかし、さりげなく寄せたローブの端、―――茶け始めた赤い痕跡をマリナは見止めてしまった。思わず息を飲む。
その様子に刹那は目を伏せ、淡々と唇を動かした。

「また行く」
「刹那」

背を向けようとする刹那に咄嗟にマリナは手を伸ばす。
ぎゅっと、腕を掴んだ。それを知った瞬間刹那は僅かに身を仰け反らせたが、マリナは離さない。いくら汚れると言われようと彼の穢れを拒むのはならなかった。

「もう、誰かを死なせないで」
「……マリナ」

懇願する声。
刹那はすっと目を細めた。一度大きく、静かに息を吸う。自分から漂う戦いの臭いと乾いた風のにおいと、微かにマリナの花の匂いがした。心を安らげるような、あまりに甘美で悲しくなるような、柔らかな花の香。
―――彼女の言葉に、無性に泣きたくなる自分がいる。
マリナは、この国の姫は、この国に相応しくないほど純粋だった。まるで水のように清らだった。花を咲かせることのできる水のように。
その澄んだ青い目は。

「それでは、お前は生きていられない」

ゆるゆると刹那は首を振る。

「それでも、」
「あんたは姫だ」

ただ静かに紡いだ。

「あんたが死ぬと、この国の未来は失われる」
「私の代わりなんていくらでもいます」

刹那を引き留めた右手に左手を重ね、マリナは祈るように頭を垂れる。同時に肩からさらりと黒髪が流れた。

「私は、誰かが死んでいくのを見るのが辛い」

冷えた風が二人の髪を揺らし、衣服を揺らし、また去っていく。

「こんなことを繰り返すのは、もう」

嗚咽するかのように声が震えた。
脳裏に蘇るのは焼けた大地。
石造りの建物は原型を留めないほど崩れ、辺りには砂が舞う。乾いた土に染み込むのは無数の涙と夥しい血だ。真っ赤な血だ。作物も草すらも、何も生育しない。
それこそ何もかもが砂になっていくような気がした。
未来を想う心さえ涸れていく。
そんな荒れ果てた地で。

「私は、」
「あんたじゃないと駄目だ」

凛とした声が闇に響く。
流れ落ちようとしていた涙がそれに御された。

「あんたが目指す国が、俺は欲しい」

ゆっくりとマリナは顔を上げる。月明かりに映し出される刹那の瞳は、まっすぐにマリナを見据えていた。

「……私が目指す国、」

この戦闘が始まる前、いつだったか刹那に語った国の理想、未来を、刹那は見つめる。
今は形どころか兆しも見えない未来。

「今は変わらなくても」

刹那はそれを手繰り寄せようとしている。

「これからあんたが、変えればいい」
「……私には、」
「できる」

刹那の瞳はマリナと、その先を捉えて離さない。
琥珀色の瞳。
大地の瞳。
花を咲かせる大地だと、マリナは思った。

「お前がその痛みを覚えている限りは」

ざっと刹那は踵を返す。
マリナの視界に映るのはローブに包まれているとはいえ、線の細い背中。いくら戦士として名を上げていても彼はまだまだ若い。自分と8つも違うのだ。
そんな彼が誰より強く、未来を考え見据え、戦闘の前線で自ら戦っているという事実にマリナは幾度とも知れぬ胸の圧迫を覚えた。
彼の強さに、泣きたくなる。

「あなたの国を滅ぼしたのはアザディスタンです」

叫ぶようにマリナは言った。唐突にも言わねばならないと思った。
或いは、彼が戦場へ去ってしまうのが一秒でも遅れるようにしたかったのかも知れない。

「私の、この国です」

発する声は、彼と比べ物にならないほど弱々しく響く。それでも、言葉を噛み締めながら言った。

「貴方がそこまでこの国に尽くす義理なんてないのです」

足を止めた彼の背が、たった数歩歩いたのに関わらずずっと遠くにあるように見え、マリナはいっそう声を張り上げる。

「痛みはずっとなくならないから」

彼は愛馬の手綱を握った。黒馬は待っていたというように主に鼻先を近付ける。

「なくならないから、私は貴方が傷付いていくのを見たくない」
「俺の国がこの国に滅ぼされたなら」

彼の褐色の手は、労るように黒馬の頭を撫でた。優しさすら垣間見えるその動作を、マリナはどこか神々しいもののように見る。

「俺の国はこの国になっただけだ」

刹那が手を離すと馬はゆっくりと頭を上げ、道という道のない砂漠を見やった。己がこれから切り開き道を作り出す砂漠を。
ざり、と彼は大地を踏む。しっかりと大地に立つ。

「たった一人の、俺の国の姫」

刹那はマリナを見る。煌々とした月を背負って、マリナを見る。そして、その瞳の青に全てを願った。
砂漠に注ぐ清い水を、赤に焼けない高らかな空を。

「あんたを、俺は守る」

ローブを翻し刹那は黒馬に跨がった。翻った拍子に腰に差した剣幅の広い剣が月光を反射し、一瞬の煌めきを作る。血を吸っておきながら磨かれた剣。
それはまるで彼だ。

「刹那!」

戦場へ向かう、彼の名を呼ぶ。

「これだけはお願い」

一歩二歩黒馬が足踏みをし、合わせて体を上下に揺らしながら刹那は視線を合わせる。唇を引き結んだ表情には何の迷いもない。静かにじっと、大地色の瞳がマリナを見つめる。

「あなたを、死なせないで」

水を湛えたその青の瞳を、守りたいと刹那は思う。
無言で刹那はストールを目元まで引き上げた。
引き上げる瞬間、唇が微かに、ふ、と笑みを型どったように見えたのは気のせいだろうか。
砂を巻き上げ彼は行った。





想う
(貴方のその瞳に僕は未来の光を想う)












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