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彼の自宅は、いつ訪ねても殺風景で飾り気がなく、良く言えばシンプルな家だった。
ある物と言えば最低限の家電と少し高そうなソファー、そしてダブルベッド。
それらは自分もしょっちゅうお世話になったから、最早自分の物のような愛着すらあって、ともすれば所有者である彼よりその思いは強い。
シンプルに限られた物であればあるほど、ひとつひとつに寄せる思い入れは強いものだ。だから、彼の自宅の至るところにはその分たくさんの思い出があった。
思い出ばかりがあった。







Just be friends...









彼の寝室の片隅にはシックな黒いタンスがある。
腰ほどの高さのそれをガラ、と下から順繰りに引き出せば、白と黒ばかり詰まっている中やけにカラフルな一段があった。
一目で収まっているのが女物だとわかる。
その中の一着を取り出して、所有者であるニールはふと笑った。

(ここにあったのか、)

オレンジのタンクトップ。
家のどこにもなくてどこに行ったかと思えば、ちゃっかり出張中だったらしい。
久しぶりの再会に少し感動して、ニールはもう一度丁寧に折り畳むと自分の隣にそっと置いた。ぽん、と手を置いてから視線を引き出しの中へと戻すと、そこにはまた再会が待っている。
元々下着を置いたのが始まりで、泊まりに来る(「来させられる」)度、比例していつの間にかこんなになっていた。
自分の怠惰のせいか、それとも。もう苦笑するしかない。
引き出しから服を出すという単純で機械的な作業だが意外と時間がかかるもので、完全に引き出しを空にしたのは30分後だ。
タンクトップやらTシャツやらパーカーやら、種類で分けると何となく達成感が沸き起こる。
うん、とひとりごちるとニールは持ってきたボストンバックの口を思い切り左右に開け、膝の上に置いた。
それからゆっくりと畳んだ山に手を伸ばし、厚手の物から詰め込んでいく。すべて詰め込むには15分もかからなかった。
引き出し一段を空にして、ボストンバックをいっぱいにして。予想以上に重くなったそれを肩にかける。

「重、」

どこか反射的に口に出してみるがそれで重さが変わるわけもなく、ましてや誰かの返事もない。
むしろ返事がないことで室内がますます静かになったような気すらして、逃げるようにニールは寝室を出た。

それから廊下を歩いて、数歩でたどり着くリビング。部屋の中央に置かれたソファーの横にバックを置くと、ニールは微かに息をついた。

ゆっくりぐるりとリビングを見渡す。

(……変なの、)

窓を締め切った部屋で動くものはニールしかいない。カーテンの隙間から射し込む日光はどこか別世界のもののようだ。

(こんなに狭くて、何もなかったとか)

知らなかった。
部屋を見渡して思う。
こうして改めて見ると、その部屋は差し込む光ばかりが鮮やかで、それ以外はまるで粛々としていた。

(こんな部屋だったっけ)

別の、全く別の部屋に来てしまったように感じる。
静寂がうるさい中、ニールは立ち尽くしたままぼうっとすぐ隣のソファーを眺めた。





この家の主である彼と、並んで座っていたのは昨日の夜だった。



並んで座っている、と言ってもお互いの両腕は膝の上やら肘掛けやらに添えられていた。
隣に座る彼との距離は、もう随分遠かった。



「別れよう」



言ったのはどっちだったか。わからない。
お互いにもう終わりだとわかっていたからだ。
だから感じたのは悲しいとか泣きたいとか、はたまた悔しいとかそんなことをじゃなくて、どこか無感動な感じ。

別れてしまった。

それは例えるなら秘密をばらしてしまったようなおかしな感覚。
たった一言で自分達はただの友達、或いは他人になった。その形も重みもないただの言葉が、人の関係を一瞬にして変えるというのを奇妙に思った。感じたことといえば、それくらい。
あとはあまり覚えていない。
かろうじて他に覚えているのは、ただ、彼の静かな声をその時初めて聞いたということ。





さらりとニールは昨日彼が座っていたソファーを撫でる。
ぬくもりが残っているはずもない。
無機質な感触に笑った。
もう彼のぬくもりに触れることはないのだと思うと、余計に手の感触は冷たい。
例えば戯れに繰り返した触れるだけのキス。触れてはすぐ離れるくせに唇はずっと熱いままだった。
例えば強引なくらい強くて、でも優しい抱擁。彼の鼓動に泣きたいくらい安心した。
例えば、なりふり構わず互いを求め合った夜。全身がのぼせてしまいそうなくらいの熱に、溶けて一緒になったような錯覚すら覚えた。
今でも瞬時にそのぬくもりは思い出せるし、同時に彼の匂いが鼻腔に蘇る。
でも思い出せば思い出すほど、その熱と反比例して心は冷めていった。しかも反比例は0にならないからひどい。
原点のOからどんどん離れて、数値は低くなって、でも0にはなってくれなくて。
さっさと0になってくれたらこんなに重たい気持ちから抜け出せるのに。
届かない0が憎たらしい。
5、4、3、2、1、0
そんな風にきっぱり終わってみたいのに。

彼と付き合っていた月日。
長かったのか短かったのか、どうだろう。

わからない。

残響を振り切るようにキッチンに向かう。

冷蔵庫の隣の戸棚をそっと開くと、中からもうだいぶ残り少なくなった紅茶葉を引っ張り出した。
どうせ彼が飲まないなら持って帰った方がいい。

(淹れてやらないと飲まないからな、)

自嘲気味に密かに笑う。
どちらかと言えば彼はコーヒーばかり飲んでいた。紅茶も好きだと言ってはいたが、時間がかかるから結局敬遠するらしい。だから、淹れてやらないと飲まない。裏を返せば彼が淹れた紅茶を飲んでくれたのは、ゆっくりとした時間だったということ。
それは、時間を共有していた印。
そっと棚から持ち上げる。
それから戸を閉めて、おもむろにキッチンを見渡した。
初めて訪れた時は調理器具すらなかったキッチン。それどころか流しの中にまで埃がある始末で、ニールがあまりの惨状に呆れを通り越して笑い出したというのはもう懐かしい記憶だ。
家具の少ない家の中で、調理器具だけは増えた。
料理を作って欲しいとせがまれて、行ってみればそこには真新しい調理器具が揃えられていて、君のために揃えたと言われて。
照れ臭くて嬉しかったのを覚えている。口には出さなかったけれど。
それも懐かしい記憶。
もうその調理器具達を自分が使うことはない。
次に使われるならもっと料理の上手い人に使ってもらえよ、なんて。まるで子犬か子猫を捨てるみたいに思って。
紅茶葉を持ってキッチンを出る。
出るところで、ふと、乾かしたままのグラスが目に止まった。使われた風がないから、ずっとそのままなのだろう。
逆さまに置かれたそれは、いつだったか二人で買ったもの。

(ああ、これ、)

手を伸ばす。持とうとした、その時。

「あ、」

反射的な呟きと共に、ガシャン、と静寂が乱れた。

砕けた。

透明な破片が飛び散る。秩序も規則もなく、ただバラバラに壊れたい放題に。

(何やってんだろ、)

平然と無数のそれを見つめる。不思議と心は焦らなかった。
拾おうと屈み込む。


『ニール、』

すぐに彼は飛んでくる。

『ごめん、割っちまった』
『怪我は、』

彼はさっと屈むなり、拾おうとするおれの手を取った。

『ない、平気』
『よかった』

ふ、と彼は怒るでもなく笑う。



脳内に反響する彼の声。
現実のもの、今のものではない声。だからこそ、残響していく。虚しく響く。

「っ、」

鋭利な感触に反射的に指を引っ込めた。ぷくりと指先から滴る赤い雫。

『怪我した』
あの時、もしそう言っていたなら、彼はどうしたのだろう。
もうわからない。

割れた破片にざまあみろと言われているような気がした。
切った指をくわえて、吸う。
不味い。
何だか笑えた。

掃除機を取りに立ち上がる。
掃除機があるのは廊下のクローゼット。休みの日にこっそり掃除に来ては使った。
正直掃除は面倒くさがりな面もあってあまり好きじゃない。けれどここの掃除は全然面倒じゃなくて、むしろ好きだった。挙げ句自分の部屋より掃除の回数が多いくらいに。
カチリと電源を入れると微かな駆動音と共に掃除機は欠片を食べ始める。無造作に手を前後に動かしながら、ぼんやりとその様子を見た。
綺麗に、掃除機は欠片を片付けていく。あまりに簡単で少し虚しい。

グラスを割るとか、散らかしてしまって。
自分は何をしに来たんだったか。
自問自答。
何しに来たかは、わかってる。

これを終えて荷物を持って部屋を出てしまえば。
自分の存在は、彼の部屋から消える。
さっきまであったグラスが、割れてなくなったように。
形がなくなって。

あったのに、消える。



『ニール』

彼が呼ぶ。

『姫』

そんな変な呼び方する人間、もうきっと彼しかいない。



『好きだ』





声が空気にすんなり消えていくように、その思いも消えた。
忙しい彼が放置したキッチンの食料のように、彼がくれた言葉はもう賞味期限切れ。
掃除機を止めればそこは綺麗に元通りになる。何も起こらなかったかのように。

(気付くかな)

ああでも、気付かなくてもいいやと思う。
グラスが壊れたことに変わりはないのだから。


掃除機を片付けて、ぎゅうぎゅうの鞄に紅茶葉を押し込んだ。先に入っていた物達は仕方ないというように紅茶葉を受け入れる。
服。エプロン。歯ブラシ。それと本を数冊。そして紅茶葉。
こんなものだったか。
強引にチャックを閉じて、重い鞄を持った。

玄関に立つ。
ただいまのない「いってきます」か「お邪魔しました」か。どっちを言うものなのか無駄に考えて、結局無言で家を出る。
ドアはそっと閉めて、鍵はゆっくり差し込んだ。
カチャリと。
それは案外軽く閉まる。なんて簡単なんだろう。
合鍵はポストに入れておく。つけていたお気に入りのキーホルダーを外したら途端に何の鍵だかまったくわからなくなって、おかしかった。鞄のサイドポケットにキーホルダーを落とし込むと、また少し重さが増す。
これで最後だ。何もかも。

さよなら、愛した人。

ドアの取っ手を少し見つめて、背を向けた。
ドアは閉じたのだ。
ここまでだ。

もう振り向かないで歩き出すんだ。











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