夢のあと
雨がぽつり、と額に当たり、ああまずいなぁ、と思って走り出すとほぼ同時に土砂降りになった。
帰り道なのが不幸中の幸いで、しかしおろしたての服がびしょ濡れになるのは些か痛い。特にファーの部分が萎んでしまう。
「あああああ、もう!」
ブーツはスエードだ。防水はしているけれど、ここまで濡れたらおしまいかもしれない。
こんな時に、傘を持ってないなんて! あの眉毛の濃い天気予報士の言うことを信じたのがいけなかったのだ。もう二度と弁護してやるものか!
小さく悪態をつく望美は、前方から傘をさす人影を見て表情を変えた。
「九郎さん!」
ああ望美、と微笑む彼は、薄い桃色の傘を広げようと紐を解いて、しかしすぐそこだからいいか、とまた戻す。
望美は誘われるままに九郎の傘に入り、濡れた髪をしぼった。
「思いっきり濡れたな」
「はいー……迎えにきてくれたんですか?」
「ああ、もう少し早く出れば間に合ったかもしれんが、すまなかったな」
「いいですよ、来てくれただけで。弁慶さんは?」
「今、風呂を沸かしている。帰ったらすぐに入らないとな」
九郎は望美の濡れた前髪を後ろに追いやって、冷えた額に手をあてて苦笑した。
弁慶が車を出せればよかったのだが、得意の「つい」で明け方まで起きていたことに望美が憤慨して「そんな危険な車に乗れません!」と徒歩で飛び出していったのだ。九郎は九郎で仕事があったので、てっきり弁慶が望美の面倒を見ていたのだと思っていたわけだ。
「まったく、あの馬鹿は」
小さくもらした言葉は望美の耳に届いて、くすくすと望美は笑った。
◇
「おかえりなさい」
出迎えた弁慶は、すまなそうに眉を八の字にしてタオルを被せてくれた。
「ただいまー」
それに甘えるようにすり寄って、長い髪をふいてもらう。自らは顔や身体をふいて、水が染み出すブーツに少しだけ顔をしかめた。
「九郎、新聞紙をとってきてください」
「? ああ」
わけがわからないという顔をしつつも、九郎は素直に従った。弁慶は無意味なことはさせないからと考えると、何に使うのかは合点がいく。
「これでいいだろ」
「ええ、どうも」
弁慶はそれを受け取ると、ふきかけの望美の髪を九郎に託して、新聞紙を破って丸めた。
何に使うのかと目で追う望美は、弁慶がそれを濡れたブーツにつっこむのを見て、なるほどと思った。
「乾かして駄目なようなら、新しいのを買い換えましょう」
「わあ、おばあちゃんの知恵袋! ありがとうございます!」
「生活の知恵と言ってください。」
粗方の水分をとりおえて、望美は二人にバスルームに追いやられた。
風邪をひかないうちにあったまってこい、と。
着替えも何も用意してないのに、と口を尖らせたが、きっと入浴中を見計らって弁慶が届けてくれるだろう。九郎は未だにそこの所がうぶなのだ。慣れてしまった自分もなかなか女を捨ててるな、と思うけれども。
◇
晩御飯は和洋折衷。各々が好物ばかりだ。
半月型のカウンターテーブルに、望美を挟んですわる。左手側に九郎、右手側に弁慶が定位置だ。
他愛ない会話。
笑い声。
食後にはみんなで片付けして、コーヒーを入れて。
三人で布団に潜った時に、望美は呟いたのだ。
「なんて平凡なんだろう」
一拍おいて、九郎
「何がだ?」
そのあまりにも普通な、望美にしてはまぬけな声に、少しばかり惜しくなった。
「もっと贅沢でもいいと思うんですよ。こんな狭いマンションじゃなくて、一戸建てとか。ごはんだって、格式張ったフルコースとか、京懐石とか。……それが目的じゃ、ないんだろうけど」
望美の大きな独り言に、二人はきょとんとした目で見つめた。
「だからせめて、手、繋いで寝ましょう。こんな幸せな夢、滅多に見られないだろうし」
望美がそう言うと、二人は手を絡めてぴったりとくっついてきた。
(川の字で寝たかったなんて、我ながら安い夢だなぁ)
それでも、今この時にかんじる温もりは確かだと思うと、幸せに変わりはないのだと感じた。
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