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『LILLIPAT STEP』より書下ろしのお話『SMILES and TEARS』サンプル文







 カキンと小気味いい音が球場の熱気を、そして耳をつんざく。投手の手から離れる前から目を離さなかった白球が、目の前の打者の振るったバットに打たれて青空を奔るのを瞬きもせずに視線で追いかける。
 雲ひとつない、色鮮やかな青を我が物顔で横切る白球が太陽に重なるのは一瞬だ。
(日食)
 瞬きひとつで見逃してしまうようなそれが、なんか好きだった。その一瞬をちゃんと見て、そのまま白球を追いかけるとレフトを守っていた花井が白球を追い走っていた勢いそのままに、こけながらもしっかりと落ちてきたそれを捕った。
(……終わった)
 審判が大きな声で叫ぶ。アウト、ゲームセット。

 その声に目を閉じれば、網膜に焼き付いていたさっき見たばかりの太陽と野球ボールの日食が瞼の裏に浮かんだ。






 汗と泥で汚れた体はざっと濡らしたタオルで拭って、首から上に関しては手洗い場の水道に頭突っ込んで流す。ただの水道水だけど流水は酷く冷たくて気持ちがいい。でも腰をかがめてる状態だから、いまのいままで炎天下の青天の中、全力で動いていた体としては正直しんどい。そんなこと思いながらも馬鹿みたいにしばらく水をかぶっていたら、弱い力で右の脇腹をつつかれた。
「溺れる、よ?」
 蛇口の下から抜け出した俺への第一声に苦笑してしまう。不思議そうに首をかしげながら発せられた言葉は、同じ状況で俺がコイツの立場だったとしても浮かばないような言葉だ。
「水道で溺れたら大惨事だな」
「これから、なのに、ダメだ」
「おう。わかってるよ」
 こいつがいれば、甲子園出場だって夢じゃない。
 そう思った春から三度目の夏がきた。
 ほんの数十分前に手に入れた甲子園出場という権利に、まだ実感はない。まるで夢みたいで、現実味がなくて、どうしたらいいのかわからないというか、落ち着かないというか、とにかく思考はまとまらない。
 周りのやつらはすでに実感があるのか大騒ぎしながら片づけだの帰る準備だのしてたんだけど、俺はその空気がなぜか居心地が悪いものに感じられてトイレに行ってくると言い残して離れた。まあ、実際には試合中にも水分はちゃんと補給してたがそれらはほとんどが汗となって流れたせいでトイレに用はない。離れる口実だ。
 ただなんでもいいから静かなところに行きたくて、そんで、トイレへの途中にあった手洗い場で気分を落ち着かせようと汗を拭うついでに頭から水をかぶってた。
「あと五分、集合、えっと、玄関とこ」
「おう、わかった」
 五分後に集合だとわざわざ俺を呼びに来てくれたらしい。それに頷きながら答えて、水道の上の部分に置いてたタオルで頭を拭いながら歩き始める。俺を呼びに来た三橋も横に並んで、こっちを見ながら口を開く。
「阿部くん、は」
「ん?」
「泣くと、思った」
「……なんか、まだ実感ねーから、泣きようがないっつか」
 野球をやるやつには甲子園出場ってのは夢で、あそこは憧れの地で、テレビ画面の向こうのマウンドに思いを馳せてる奴がほとんどだと思う。俺もその中のひとりだ。
 ガキの頃から野球をやってるからこそ、甲子園は憧れの地で、そこに行きたいって気持ちはでかい。
 甲子園出場は本当に狭き門だ。埼玉では今回は百六十四校が参加してるのに、甲子園出場の権利を手に入れられるのはたったの一校。その一校に、俺たちが、なれた。
(……やっぱ、実感はねーな)
 もうちょっと時間が経ったら実感するんだろうか。時間差で、それこそ帰宅して気が抜けた時に?
 それはそれでどうなんだとも思うけど、現状はやっぱり、実感がわかない。
「そういや、お前も泣かなかったな」
「う、ん。だって、まだ、阿部くんに、投げれる。嬉しい」
 だから泣きようがないと笑う顔に、本当に野球に関しては精神面がタフだと感心してしまう。
「そーだな。まだお前の球捕れるし、俺も嬉しいから泣きようがねーわ」
 予選で負ければ俺たち三年は引退だった。それが勝ち抜いて勝ち抜いて、甲子園でもまだ野球ができるんだ。こんなに嬉しいことはない。好きなことを好きなだけやり続けられるってのはとにかく嬉しいし幸せなことだと思う。
 どんだけ炎天下でも、雨でも、風が強い日でも、野球をやってる間はとにかく楽しくて、これがずっと続けばいいと思ってしまう位には好きだ。
「阿部!三橋!」
 話をしながらまだ大丈夫だろうと歩いて戻っていたら遠くから名前を呼ばれて、そっちを見たら部員全員が整列していた。俺らの名前を呼んだ花井が早く来いと続けていて、すでに監督もシガポも応援に来てくれてた親たちもいるから慌てて走ってその列に俺たちも並んだ。
 俺たちが戻って部員全員が揃ったのを確認した監督から伝えられたのは、今日はもう解散するから家でゆっくり休めってことだった。いつもだったらこのまま学校に戻って次の試合の対策とかになるんだけど、今回はまだ甲子園出場校が揃っていないし、試合の順番も決まってないから対策のしようがない。それと、出場祝いの場を設けるからその準備などがあるらしい。
 その場で簡単に反省会とミーティングはしたが、ほんの二年前まではたった十人しかいなかった俺らもいまじゃ数十人の大所帯だ。場所を占拠するわけにもいかないし、手短に明日しっかりと今日の試合の反省点や改善点など話し合っていくから各自準備をしておけといった内容のことを言われた。
「それじゃあ、解散!」
「あーっした!」
 一斉に監督達に頭を下げて挨拶をしてから、せっかく休みになったんだし俺らも集まれるやつは集まってファミレスあたりでお祝いでもするか、みたいな話題が上がる。阿部も行くだろ、と言われたけど俺はパスさせてもらった。ノリが悪いと文句が飛ぶが、実感は相変わらずわかないままなんだ。行ったところで一緒に盛り上がれそうにもない。
「三橋は?」
「あ、の、ゴメン、俺も、帰って、休む」
「えー、阿部と三橋が来ないんじゃ意味ないよ!」
「もう今日は素直に帰って休もうぜ。ファミレスは今度行けばいいだろ」
「テンション上がっちゃってて家に帰っても休める気がしない!」
「そう言いながら帰って即寝るに五百円」
「俺も」
「俺は千円賭ける」
「賭けになんねーだろ、それ」
 相変わらずアホみたいな言い合いしながら笑ってる初代メンバーは、俺と三橋以外は揃いも揃って目元が赤い。後輩たちも結構、目元が赤い奴らがいて、正直それがなんだか羨ましく見えた。
 夢で、憧れて、いつかは自分もと思っていたのに、いざその権利を手に入れたら実感がないなんて思いもしなかった。


 帰宅してから少しして、三橋から電話がきた。
「あ、の、ごめん、落ち着かない、から、話し相手、なって、欲しい」
 うちに来るかと言おうとしたところで外の暑さと今日の最高気温を思い出して、会うなら俺が三橋のところに行った方がいいだろうと提案した。
「このまま電話で相手をしてもいいけど、どうする?」
「あ、えと、顔、見たい、です」
「わかった。今から行くわ」
 簡単な用件のみの通話を終了させてから財布と携帯、あとチャリの鍵だけ手に持って家を出た。
 外は試合をしていた時間よりは暑さも和らいではいるし、自転車で移動している間は風があって気持ちがいい。けれど、信号待ちで停車した途端にアスファルトにたまった暑さが下からじわじわくる。網の上に乗った焼き肉の気分、ってアホな表現をしてたのは誰だったか。多分田島辺りだけど、あながち間違いではないのかもしれない。
 三橋の家に着いた時にはやっぱり汗をかいてた。俺の顔を見た途端にごめんとありがとうを言う三橋に、気にすんなって返す。エアコンで冷やしてあるからと案内されて入った部屋の中は扇風機まで動いていて、いい感じの涼しい風にほっとした。
「飲むもの、取って、くるね」
「おー、おかまいなく」
 三橋の部屋にひとり残されて、扇風機の前に陣取って風に当たる。汗をさっさと乾かしたい。しばらくぼんやりと風を浴びていたけれど三橋は戻ってこなくて、ふと思い出したのは試合の時に見た日食だ。日食ってのは月が影になって太陽が隠れる現象のことだとは記憶してるけど、ちょっと曖昧だ。
 なんだか気になったので携帯を取り出して検索してみたところ、こんな説明に行きあたった。

 日食とは
 地球、月、太陽がだいたい一直線上に並んだ時、月で太陽が隠される現象を日食と言う。この時に太陽の方が月より大きく見え、太陽が隠れきれずに月の外周にリング状にはみ出しているのを金環日食。太陽が月ですべて隠れた場合は皆既日食になる。地球、月、太陽は時期によって位置関係が近づいたり遠ざかったりがあるのでこういった変化を見ることができる。
 日食の際に話題に上がるコロナやダイヤモンドリングといった現象は皆既日食でしか見ることができない。

(……金環日食、って言うのか)
 青天の試合の時にたまに見る、自分の視点からの白球による日食は金環日食というらしい。日食って現象に近いんだろうってのは授業でやったので記憶してたけど、そうか、地球の上の俺、野球ボール、太陽ででき上がる日食は金環日食になるのか。ダイヤモンドリングやコロナがどういった現象かというのは教科書で見た写真の記憶はあるけど、実際には見たことがない。
 そもそも野球ボールの日食は本当に一瞬だけだから、ダイヤモンドリングなんてもしできたとしても見えやしない、というよりも認識できないんだろう。写真ではなく一度肉眼で見てみたいとは思うが、そもそも日食の日に天気が良くなきゃ見えないもんだし、今後見れる確率は低そうだ。
「なに、見てるん、だ?」
 グラスとポットを手に戻って来た三橋が首をかしげながら俺の横に座る。三橋の方に携帯の画面を見せながら「日食について」と答えてやったら首を傾げられた。
「にっしょ、く?」
「理科でやっただろ。公転の周期で地球と月と太陽が直線状に並んだ時に、地球からは太陽が月で隠れて見えるってやつ」
「……そう、だっけ」
 相変わらず野球と飯で頭がいっぱいらしい。うんうん唸って思い出そうとはしてるみたいだけど、きっと当てはまる項目がないんだろう。
 三橋の机からメモ用紙とペンを借りて、簡単に図を書いて日食を説明してやったら「そういえば、やった、かも?」と三橋はおぼろげな記憶からそれらしいものを見つけたみたいだった。
「天気がいい日の試合でさ、時間とかマウンドの方角とかもあるんだけど、ボールを追いかけてると太陽が視界に入るじゃん。そん時にたまにボールが太陽にかぶるのを見た時に、これって日食と一緒だなって思ったんだよな」
 最初にそれを思ったのはいつだったのか記憶にはない。ただ、やっぱり、実際に肉眼で日食を見てみたいってのが心のどっかにあったのかもしれない。部分日食なら去年もあったけど、あいにくの曇りで日食は見れなかったし。
 できれば皆既日食で、贅沢を言うならダイヤモンドリングとかコロナとか見てみたいけど、次の皆既日食の予定はなんと二十九年後だ。そんな、二十九年後なんて俺らは四十七歳になっちまう。そんなオッサンになっても俺は皆既日食が見たいと思ったままでいるのか、自分のことながらはなはだ疑問だ。
「俺も、見てみたい」
「あ?お前は太陽直接見たりすんなよ?眼球やられるぞ」
「阿部くん、見てるん、だろ」
「あー、そりゃ、球から視線外さないしな……。見ようとして見てるんじゃねーよ。たまたまだ、たまたま。あれだよ、見たきゃ本当の日食のときにちゃんと専用の下敷きみたいなのとかで見ろよ」
 そう言ったら、次の日食はいつなんだと三橋が言うから、部分日食なら十年後にこの辺でも見えるとか調べて教えてやった。
「日食、好きなのか」
「んー……好き、なのかな……。わかんね。ただ、日本だと何十年かに一度しか見れないなら見てみたいとは思うよ。ダイヤモンドリングとかコロナとか、写真でもスゲーよ」
 ほら、と携帯を操作してダイヤモンドリングの写真を見せてやったら三橋はすごいねぇと目をしばたたかせてる。
「それ、は、次、いつ?」
「ん?」
「ダイヤモンドリング、俺も、見たい」
「あー……これ、次に見る機会があるとしたら二十九年後だぞ」
「へっ?」
「しかも天気が曇りだったら見れない」
「そんな、レア、なのか」
「レアだな」
「じゃあ、二十九年後、一緒、に、見よう!」
「おお?」
「約束、だ!」
 うひひと笑う三橋に、四十七歳のオッサンになっても覚えてたらなと言ったら忘れないよと間髪入れずに返ってきた。
「忘れない、し、その日は、晴れる」
「まあ、うん。そうだな。俺も見たいし、じゃあ、二十九年後には一緒に見るか」
 他愛もない約束だ。きっと、一年後にはすっかり思い出さなくなって、運が良ければ二十九年後に皆既日食が見れるとニュースが流れた頃に思い出すんじゃないかって、そんな約束。

 だけど、きっと俺は忘れないんだろうと思う。遠い日に見れるだろう皆既日食をコイツと一緒に見れたらと願うほどには、俺は三橋が好きだったから。












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