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吸血鬼の夜



 私は独りで目を覚ました。
 初めから独りだったのか。其れとも誰か傍に居たのか。どちらにせよ目覚めたとき、私は独りきりだった。
 孤独とは果たして恐ろしいものなのだろうか。本当に恐ろしいのは何なのだろうか。
 強大な力か? 其れともこの世のものとは思えない程美しいものか?
 ふと、何の脈絡も無しにそんなことを考えた。

「……何故私は此処に居る」

 何も思い出せない。記憶が無い。いや、そもそも記憶なんてものは持ち合わせていなかったのか。
 そもそも私は何なのだ?
 頭の中は真っ白だ。いや、真っ黒なのかも知れない。
 真っ黒い闇。周りは月明かりだけで、私は黒いマントを羽織っている。マントが闇に溶け込んで、私の存在までもが消えてしまいそうだった。

「今は夜なのか」

 可笑しい話だ。記憶が無いのに夜は判る、記憶が無いのに言葉は判る……とは。
 だが其れも、私には何ら意味の無いこと。
 どうせ直ぐ忘れてしまうのだと、心の底で判っていた。何故そんなことが判るのかは、やはり理解出来なかったが。

「今宵は満月か――」

 ふと、思った。
 血……血を、吸わねばならない、と。
 其れは私の本能か。其れとも、ただの欲望なのか。
 否、欲望はやはり本能と同じ。もし私が血を欲しがるのならば、其れは三大欲求のひとつ、食欲に当たるのだろう。
 だが、何故か血を吸う生き物が思い出せない。蝙蝠……否、違う。私は先程から己の手を見ているだろう。爪の長い、人間と然程違わぬ、その手を。
 ふと、すっかり伸びきっているその髪に触れた。色は黒銀。月明かりに照らされて僅かに光るその髪は、まるで闇のようだった。

「此処は、何処だ」

 独り言が多いのは悪い癖か。そもそも誰も居ないのだから、何を言っても意味など無い。ならばきっと、私が私を確認するために声を発しているのだろう。今にも消えてしまいそうな、私を。
 私はやはり独りでその場所から出た。外からその場所を確認すると、どうやら廃墟と化したコンクリート状の建物の様だった。
 廃墟。其れはけして美しいものでは無いはずなのに、私には非道く美麗なものに見えた。これほど夜闇に映える建物は無いと思うほどに、私はその建物に魅入られたのだ。

「此処で、私は眠っていたのか」

 その理由が、何となく理解できた気がした。

 私は意味も無く歩を進めた。こんな棄てられた場所で、しかもこんな夜中に、誰かが居るとは思わなかった。居たらきっと私は血を吸うだろう。だが、私は其れが嫌だった。先程まであんなにもヒトの血を欲していたというのに、あの建物を見てからと言うもの、私はすっかりそんな気が失せていた。

「夜はいつ明けるのだろう」

 太陽の下を歩いた記憶は無い。否、そもそも今までの記憶が少しも残っていないのだから、其れは当たり前のことだった。
 だが、夜の闇の中彷徨い続ける私を、何故か私は知っている気がした。私はきっと太陽に照らされてはいけないのだと言うことも、頭の奥底で判っていた。
 そうして暫く歩いていると、何時の間にか目の前には美しい教会が聳え立っていた。

「教会……か。こんな処に」

 私はそう思い、中に足を踏み入れた。途端、身体中に凄まじい衝撃が走る。何だ、何が起こった。
 息が乱れる、呼吸が、続かない――

「大丈夫ですか?」

 女の声だった。
 否、私は女の声など知らない。だからこれは女では無いのかも知れなかった。事実目の前に現れた人間は中性的な顔立ちで、どちらとも取れる雰囲気を身に纏っていた。
 ただ私は、この声の主を女だと、そう直感したのだ。

「……大丈夫だ」

 本当は大丈夫では無い。今にもこの場に崩れ落ちてしまいそうだ。苦しくて堪らない。嗚呼、体温が上がっていくのが判る。火の中に居る様だ。

「大丈夫じゃないです、すごく苦しそうですよ、あなた」

 知ったことか、お前には関係無い……と、言おうとしたのだが、どうにも舌が回らない。本当に私はどうしてしまったのだろう。

「待って下さい。今、人を呼びます」

「――ッ、止めろ!」

 瞬間、怒鳴り声を上げていた。中性的な顔立ちの、私からすれば女であろう人間は途端肩をびくりと震わせて、私を凝視した。怪しんでいるのだろう。

「人は、呼ぶな……」

 私は息苦しさに眉を潜めながら、必死に訴えた。今人が来たら、私はどうなるかわからない。今目の前にこんな人間がいることにも、耐えられるか判らないというのに。

「……判りました」

 人間は渋々頷き、私に向かって言った。

「でも一応診させてください。私此れでも医学については少し詳しいのです」

 私は教会に足を踏み入れてからこうなった、と素直に伝えた。其れが言ってはいけないことなのだとも判らずに。
 人間……やはり女だったのだが、名は教えてもらえなかった。私が名乗れなかったからである。

「貴方の名前がわからないのなら、私も私の名を教えるわけにはいけません」

と、そう言われてしまったのだ。
 そしてその女は、私に「じゃあ教会から出てみましょうか」と言って私を教会から連れ出した。すると私はみるみるうちに元の状態を取り戻し、すっかり調子を取り戻してしまった。

「貴方、何か悪いモノにでも憑かれているのですか?
 教会がヒトを拒むだなんて」

 悪いモノ。
 もしかすると、私自身が【其れ】であるのかもしれない、と、そう思った。

「でも、貴方、とても綺麗――」

 女は、その闇色の瞳で、私を見つめた。私も何気なく、その闇色の瞳を見つめ返した。
 澄んだ瞳だと……そう思った。

「最近出るって聞いたのですが……吸血鬼。もしかして貴方、吸血鬼ですか?」

 最後には少し笑い声が混じっていた。特にそう思っているわけでもないらしい。其れよりも……

「吸血鬼?」

 私はその言葉が、やけに気に掛かった。

「知りませんか? 吸血鬼。ヴァンパイアとも言うんでしょうけれど」

 知らない。否、私は何も知らないのだ。

「ヒトの生き血を吸う魔物です。場合によっては同じモノにされてしまうとも、言い伝えられているけれど」

「同じモノ?」

 私はヒトの生き血を吸うと聞き、瞬時に「私はソレなのだな」と理解した。特に衝撃は無かった。それどころか、思い出せそうで思い出せなかったものが思い出せたと言う、すっきりとした感覚だ。
 そんな感覚を味わうのも、初めての筈なのに。

「吸血鬼」

 女は少し声を弾ませて言った。何が楽しいのだろう。

「私吸血鬼になりたいのです」

 私は己の耳を疑った。

「鏡にも映らない、誰にも認識されない、されたとしても直ぐにヒトの記憶から消し去られる――
 素晴らしいと、思いませんか」

「お前は誰にも認識されたくないのか?」

 私は思わず声を荒げた。何故だろう。本当にこればかりは、後から何度考えても、わからないことだった。

「はい。……私、病気なのですよ。だからどうせ死ぬのならば、皆私のことを最初から知らなかった様に、忘れていてほしいと思うのです」

「何故?」

「私が死んだとき、誰にも泣いて欲しくないから」

 死を目の前にした存在ほど、尊いモノはない。つまり、死を目前にしても尚生に縋り付こうとしない存在は、何より美しいのだ、と、私は思った。
 その証拠に、彼女は綺麗だった。私は彼女にすっかり見惚れてしまっていた。あの廃墟と化した建物、あれは既に「終わったモノ」だ。今の彼女ほど美しいモノは、きっと他には存在しまい。
 先程彼女は私の前で発作を起こし、見事その場に倒れこんでしまった。救おうにも、私はヒトの元へは行けない。其れならばと、せめてあの教会へ連れて行ってやることにした。彼女はクリスチャンであったから。
 だが私はあの空間に耐えられるのだろうか。もう直ぐ夜が明ける。彼女の話によれば、吸血鬼は太陽の光で灰へと姿を変えてしまうそうだった。
 だがこんな空(カラ)の存在、消えてしまっても良いと思った。
 だから私は、彼女を教会に連れて行くと、決めた。




「私は空虚だ。何も持っていない。だからせめて、お前を救いたい」

 そう言って、私は教会へと歩を進めていった。だが、途中でぴたりと足が止まった。待て、彼女は何と言っていた?
 彼女は、吸血鬼になりたいと、言った。
 どうだろう。【場合によってはなれる】ということは、断然死んでしまう確率の方が高いのではないだろうか。そもそも彼女は病気なのだ。少し身体に影響を与えただけでも、死んでしまうだろう。
 私は彼女の首元を見た。透き通る様に綺麗な真珠の肌。
 私は無性に、彼女の血が欲しくなった。此れを、吸血衝動と言うのだろう。

「思い出した――
 私の名は、イオだ」

 正式名称は、思い出せない。ただ、そう呼ばれていたということを思い出した。そしてもうひとつ、彼女は、私のただ一人愛した、女性に似ているのだということも。

「――」

 私は彼女に似た女性の名を呼んだ。
 返事は、無かった。

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 だんだんと日が出始めている。
 私は再びあの教会に足を踏み入れた。だが、先程と同じ様な感覚は訪れない。何故だろう。

「神の加護、と言う奴か」

 この期に及んで。

 私は嘲笑し、彼女の身体を祭壇へと乗せた。まだ彼女は温かい。だがきっと、そのうち体温が抜けてくるはずだ。
 私は其れを思うと、何故だか胸が締め付けられる様に苦しく感じた。
 だから私は同じ様な毎日を、きっと繰返していただけなのだろう。
 嗚呼、ほら、どうだ……私は、私はもう、消滅するのだ。
 日はこんなにも、美しく輝いて――


END



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