憐憫のカナタ 俺は独り、その暗闇の中に足を踏み入れていた。意味など無い。俺がすることに、何ら意味は生じないのだから。 そんなことない、と、あいつの声が頭の中で響いた。駄目だ。思い出すべきじゃない。 どうしても、俺は良い形であいつの声を思い出すことが出来ないらしい。声だけじゃなく、姿かたちも、あんなに想っていた笑顔ですらも。 だが、俺はそれでも良かった。寧ろその方が、俺にとって都合の良いことだった。 俺は一歩、足を前へと進めた。ビチャ、と鈍い水音がする。ああ、ここは水があったか。すっかり忘れていた。あとで靴を拭かなくてはならない。 何処からの水かは知らない。だがこの広さの中、少々の水があっても澄んだ空気はどうとも濁ることは無かった。いや、多分水のお陰で余計に澄んだ空気になっているのだろう、どこか空気が冷たい。 いつだったか、あいつに「お前は何故そんなにすぐ泣くのだ」と聞いたことがある。だがどうだ。聞いたことは思い出せても、どうにも答えが浮かばない。すっかり忘れてしまったようだ。 このまま全てを忘れてしまうのだろうか。そんなことは嫌だった。だが仕方がなかった。俺にはどうしようもないことだ。 彼女は俺達を裏切ったんだ。忘れ去られるのは当然のことだ。 裏切った……? あいつが? 本当に? あんなにも、神を慕っていたのに。 あんなにも、幸せそうにしていたのに。 「俺も……いっそ裏切ってしまおうか」 そんなことは許されないのは判っている。だが俺はどうしても、あいつに聞きたいことがあった。 いつかにした質問と、同じ質問。 あいつに関しての記憶が強制的に消されていく中、俺が忘れまいと必死に護っている記憶。 だがそれすらも、答えを忘れてしまった。 俺は何と聞いたんだったか。 「ああ……そうだ」 ――俺と共に、生きてくれるか? END back [グループ][ナビ] [HPリング] [管理] |