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《瀬を速み・サンプル》


 目を閉じれば、闇に浮かぶのはいつも同じ光景だった。
 馴染んだ北のさらりとした空気とは違う、湿り気の多い、篭もった熱を含んだ西の空気。身にまとわりつく不快さ。それに辟易しながら戦況を見ていたところに、歓声というよりも悲鳴にちかい怒号があがった。
「真田、討ち取ったり――!」
 その瞬間、体は弾かれたように陣から飛びだそうとした。
「お待ちください、殿!」
 それを留めるのは、片倉小十郎だ。幼い頃から側近として仕えた先代の息子、二代目片倉小十郎である。
「止めるな、あれを討った奴の顔を拝んでやる!」
「それをして何になるのです。今の殿は、その者を殺しそうな顔をしておられますぞ! 真田を討ったというのならば、それは徳川軍の者。お味方でございますぞ!」
「知るか!」
「殿!」
 小十郎はしっかと腕、そして肩を掴んで政宗を押さえ込む。
「ただでさえこの戦、同士討ちをした我らは徳川に目を付けられております。今、ここで不要な諍いを起こせばお立場が悪くなるは必定!」
 前日の道明寺の戦いにおいて、大和の神保相茂の軍勢約二七〇名を伊達軍は全滅させている。神保は徳川勢であり、伊達はまさに味方を討ったのだ。
 敗走する神保隊に雪崩れ込まれたことで戦場が混乱してしまい、このまま迫る真田・明石軍からなる大阪勢に攻め込まれた場合壊滅は免れぬ、と判断した為のやむを得ない選択だった――とのちに弁明している。
「関係あるか!」
 だが、今の政宗にそれを説く余裕はなかった。
「あれが好き勝手にされるのを、黙って見てろというのか!」
 討たれた武将は首を斬られ、そして罪人のように晒される。あれほど徳川を苦しめた彼だ、その骸がどうなるか判ったものではない。だが、その亡骸を辱めることだけは許しがたかった。
(ならば)
 せめて丁寧に埋葬してやりたい――静かに眠らせてやりたい。
 政宗は、彼を好ましく思っていた。
 縁は、決して深くはなかった。
 交わし合った言葉もそれほど多くはない。
 だが、何故か心惹かれる男だった。
 ――そうですか、伊達殿と某は、同じ永禄十年の生まれでございましたか
 ほのぼのとした口調で穏やかな笑顔を浮かべた男は、あの徳川家康に死を覚悟させるほどの猛将でもあった。
(――もっと)
 彼のことを知りたかった。
 彼について、そして彼の考えを、もっと言葉を交わして……そうだ、酒が好きだと言っていたから、酒を酌み交わすこともしてみたかった…………
「――――殿。……殿、お休みでいらっしゃいますか」
「…………ぉ、う……」
 呼びかけに、ふと意識が晴れる。
 過去への旅立ちから立ち返れば、そこには心配げに顔を覗き込む小姓の姿があった。
 最近は頻繁に、意識が過去へと飛ぶ。起きているのか眠っているのか、その区別も曖昧になってきた。
 死期が近いのだ――と悟らざるを得ない。
「…………」
 ふう、と政宗は深く息を吐き出した。
 目が覚めていると、体のあちこちに激痛が走る。物が食えなくなってどれくらいになるだろうか。おそらく己の臓腑はもう使い物にならないだろう。ずっと寝たきりの暮らしですっかり四肢も萎えてしまった。
 あの夏からもう二十年――齢七十になり、主だった者も次々と先立っていった。
 徳川将軍も三代の世となり、幕府の基礎も築き上がった。最早、地方大名が天下を奪うことも出来ないだろう。
 己のような、戦いに明け暮れるばかりの戦国武将の時代は過ぎた。これからは平穏と安定を保つ才覚のある者の時代となるだろう。
 ――深く、息を吐く。
 一呼吸ごとに、死へと向かっていくのだと、冷静な頭が知覚していた。
 そこに悲壮感はない。
 老いさらばえたこの体は、それだけ長く生きた。
 伊達という家を大きくして、後世に残るだけのものとした。幕府の中でも大きな存在とした。時の権力者から目を付けられた弱小地方大名が随分な出世だ。
 立身出世、家運繁栄――成し遂げた己は、きっと幸せ者だろう。
 ――深く、息を吐く。
(それでも)
 この胸にずしりと重い、後悔がある。
 二十年前の、あの夏に失われた命。
 結局、自分は何も出来ず、彼の叔父が首実検で本人だと断じるのを絶望感と共に聞くことしかできなかった。彼の遺骸を弔うことも出来ず、せめて、と彼の遺児を匿って、その成長を見守ることしか出来なかった。
 彼の家系は故郷を離れ、この東北で細々と続いていくことだろう。
(――どうか)
 それをあの世の彼が喜んでくれているといい――そして自分が追いついた時に、謝辞を送ってくれるのならば、………
(それ、なら、……)
 このまま――――――
「……殿……?」
 かけられる声が、酷く遠い。
 視界から光が消え失せていく。景色がなくなり、自分が何を見ているのかも判らない。
 来たか、と思った。
(ああ、もう……)
 苦しい息もしなくていい。酷い痛みに耐えることもない。枕元での呼びかけに応える必要もない――
(願わくば……)
 今一度、あの男に会いたかった……と。
 霞み、消えていく意識をそのままに、政宗は一つ、胸をゆっくりと下げて大きく息を吐いた。
 それが、末期の息――
 奥州を平定した鮮やかな戦の手腕と、かぶき者とも風雲児とも呼ばれたその性格と波乱に満ちた生涯故に天下に広くその名を轟かせた独眼竜、伊達政宗の最期だった。

 寛永十三年、五月二四日のことである。

    ◇    ◇    ◇

 ――目を開ければ、くっきりとした天井が目に入った。
(……?)
 あの世というものは、もっと異なる世界のように思っていたが、と政宗はぼんやりと考える。
 仏画に描かれたように錦の雲がかかるとか――もしくは地獄の釜が口開く恐ろしい世だとか。
(随分と……)
 俗世と同じものなのだな、と手をさまよわせば、触れるのはさらさらとした布地だ。敷布と上掛け。まるで普通に寝かされているようではないか。
 しかし、体は軽い。
 病に苦しめられた体は自分の思うままに動かすこともできなくなっていたのに、今はまるで羽毛のよあうだ。
 試しに腕を持ち上げてみる。するとそれはあまりにあえなく上へと上がり、習慣で構えて溜めた呼吸はあっさりと無駄になってしまう。息を、ぷは、と抜けば何やら違和感を覚えた。
「……あー……?」
 息が――声が、軽い。いや、高い。
「ああ?」
 唸ってみるも、覚えのあるしゃがれた声ではなく、軽やかな子供のような声だ。
(いや)
 視界に入った、己の手。
 長い手の甲や節くれた指を薄く張りのない皮が覆い、シミや皺でみすぼらしくなっていた手が、ふくふくと豊かな肉を含み、つるっとして丸みのある手の形は、紛れもなく幼い子供のものだ。
「はあ!?」
 なんだと、と思わず身を起こす。いきおいよくバネ仕掛けのように跳ね起きた体に痛みなど欠片としてなく、ただ溢れるばかりの躍動感に満ちていた。
「な、んだ、これ……」
 声も、手も――体も、全部が全部、自分のものではなくなっていた。
 年老いて死んだ老人の体が、瑞々しい若者――いや、子供になっているではないか。
 思わず右目に手をやる。すると触れたのは肌ではなく布だった。晒しが巻かれている。顔の半分を覆うそれは――遠い記憶にあるもの。
(疱瘡を病んだ時と同じ……?)
 右目を疱瘡によって腫らして腐らせ、失ったあの幼少の頃、確かにこうやって顔を覆って、人を遠ざけ、ただ寝るだけの日々を過ごしていた記憶は、重苦しいものとして今もしっかりと残っている。
 そう言えば、この部屋の感じや調度なども、何やら覚えがあるような気がする――部屋自体に馴染みがある、と言えばいいのか、全く知らない部屋ではなく、ここにいるのが当たり前のような――そう、まるで本当に幼い頃に過ごしていた部屋に戻ってきた、かのような……
(ああ、そうか)
 これは夢なのだ。
 まさか死んでも夢を見るとは思わなかったが、きっとこれは走馬燈のようなものなのだろう。
 どうせならばもっと明るく楽しいものを見たかったが、夢が自在にならぬのは七十年も生きればよく判っている。人の夢はそんなふうに都合良く見られるものではない。
(だが)
 もし、見ることが出来るのなら――彼と今一度逢う夢を……
 ふと物思いに視線が遠くなった時、だった。
「あにうえー!」
 甲高い子供の声と共に、いきおいよく体にぶつかってくる固まり。首っ玉に飛びついてくるその勢いと不意を突かれたのとで吹っ飛ばされてしまい、体はばったりと後ろに倒れてしまった。
「兄上、今日は起きておいでではないですかー!」
 喉元すぐにぐりぐりと頭を押しつけてくる固まりは、自分よりも一回りほど小さな子供だ。甲高い耳障りな声で、熱い体温を押しつけてくる。
 倒れ込んだ拍子に打ち付けた後頭部が痛い。思わず頭を抱え込んでしまい、反応が遅れた。
「……あにうえ、だと?」
 自分を兄だと呼ぶのは――ただ一人。
「……竺丸……?」
「はい?」
 名を思わず呟けば、犬が飼い主に甘えるように胸の上に乗っかって体ごとすりすりと懐いていた子供は、きょとんとした顔をあげる。自分とよく似た面差しの、自分よりも大きな目が特徴のその顔立ちは、見間違えるはずもない弟のもの――
「竺丸!?」
「へ? は、はいっ、兄上!」
 しがみつかれたまま、しかしそれでも驚きが勝って体を起こせば、ずるずると滑り落ちた子供は傍らでちょこんと座ると大きな目をぱちりと瞬いた後に返事を寄越した。



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……続きは本でお楽しみいただけたら嬉しいです!(>_<)/



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