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《  贄・サンプル  》


(前略)


 何度も何度も、「もう駄目だ」と思わされる苦痛の中、いつのまにか姿を消していた青年が枕元にいて、口許に器を押し当ててきたのを、朧気に覚えている。
 器から立ち上るのは薬の匂いで、男が姿を見せなかったのは己を見限ったのではなく新しい薬を探しにいっていたからなのか、と僅かばかりほっとした。
 彼は数少ない、病を得た梵天丸の側に居られる人間の一人だった。その彼がいなくなった時は、少なからず落胆したものだ。
「難しいでしょうが、ほんの少しでもいい、舐めるだけでいいですから、これを飲んでください」
 発疹は口の中にまで出来ていて、口を開けるのも辛かった。
 正直、飲みたくなかった。
 この数日、覚えきれないほど沢山の薬を飲んだ。だがそれは不味く喉を焼くばかりで、全く効かなかったし、効かなかった時の落胆にも堪えていたからだ。
 しかし、それでも口を開いたのは、梵天丸自身、生きたいと願っていたからだ。
 ほんの少しでも治る可能性があるのならば――。
 僅かに開いた口に宛がわれた器が傾く。
 どろり、と黒っぽい凝りが器の中を流れて、器の白い側壁を侵食するかのように広がりながら小さな子供の口を出口と至る。
 唇にべとり、と付着する薬の感触に、顰められる眉ときつく閉じられる目。未知の匂い、味、感触に対して思わず警戒してしまうのは仕方が無いことだろう。それは子供であろうと大人であろうと同じだ。
 開いた唇の隙間から、のろり、と四肢のない生き物のような動きで薬が入り込む。それを見届けた小十郎は、器の傾きをゆっくりと戻した。
 嚥下もままならない今の梵天丸には、指先程度の薬の量もつらいだろう、という配慮だ。
 ――と、梵天丸の両目が突然に開いた。
 それは驚愕を色濃く表わしていた。だが、そこにあるのは純粋な驚きで、薬の不味さといった不快さを示すものではなく、それまで明らかな感情の動きを示すことのなかった梵天丸に、小十郎をも驚かされる。
 はくり、と梵天丸の口が動く。
「梵天丸様?」
 はくり、と再び梵天丸の口が動いた。喉をやられて声をろくに出せない彼が、何か言おうとしているのだ。口の動きを追った小十郎は、やがて、その意味を悟った。
「もう少しお飲みなさるか」
 口は「もっと」と訴えているようだった。小十郎の答えに小さく頷く梵天丸に、小十郎は再び器を宛がう。
 一度流れた跡を追うように、黒ずんだ薬が再びどろり、と動く。
 それは先よりも早い動きで、梵天丸の口へと流れ込むと、梵天丸はそれを口に含んで――そしてごくり、と飲み込んだのだ。
「梵天丸様!?」
 飲み込むこともままならなかった彼の、喉の上下に思わず声をあげる。小十郎の小さな叫びが落ちる中、梵天丸は流れ込む薬をごくり、ごくり、と、ゆっくりと少しずつではあったが、確実に飲み込んでいく。
 傾けられたままの器を除けたのは、腕をあげることなど到底適わなかったはずの梵天丸自身の手。
 それは確かな意志を持って、小十郎の手へと薬を戻すと、溜息のように深々と息を吐いた。
「こじゅうろう……」
 小さな唇が、確かな音を紡ぐ。
 久しく聞くことのなかった、呻き声以外の声。
「梵天丸様……!」
 それは掠れ、拙い音の紡ぎではあったが、長らく声を発することが出来なかった梵天丸の、そして小十郎にとっては珠玉にも勝る音だった。



(中略)


 梵天丸は菓子を手に入れると、まっしぐらに物置小屋へと走って行った。
 病み上がりに走るのは辛い。しかし気が急いて仕方が無かったのだ。今日は人がなかなかいなくならなくて、ずいぶんと遅くなってしまった。きっと待ちくたびれているだろう。
「――弁丸!」
 いつもの通り、竹材の上によじ登って、小さな窓に首を突っ込んで声をかけると、薄暗い小屋の中で蹲っていた子供はパッと勢い良く顔をあげ、窓の梵天丸を見て破顔した。
「ぼんてんまるどの!」
 舌っ足らずな高い声に喜色が浮かんでいて、そのはなやかな声に梵天丸はぽっと胸が温かくなる気がする。だから、彼に名前を呼ばれるのが好きだった。
 子供は、弁丸と名乗った。
 梵天丸は数々の問いかけを彼に投げかけたが、言葉が判らないのか判らないふりをしているのか――梵天丸は後者だと思った――当を得た返事が返ってこない。
 ただ、ここに閉じ込めているのが片倉小十郎の手によるものだ、ということにだけは頷いた。
 梵天丸は「すぐに命じて外に出してやる」と言ったが、それに弁丸は首を横に振った。
「きっとだめだと言われます。そしてそれがしも、今よりもっと見つかりにくいところにかくされてしまうと思います」
 きっと自分の身内が、自分を捜し回っているだろうから、まだ見つかりやすいこの場にいたいのだ、と、幼くも静かに話されると、梵天丸はそれ以上は言えず、「なら他に何か願いはないか」と違う問いかけを差し向けた。
 子供の梵天丸に出来ることなどたかだか知れている。だがそれでも、この子の為に何かしてやりたいと思った。
 すると、弁丸は少し考え込んだ後、僅かに気恥ずかしさを覗かせながら口を開いた。
「だんご」
「え?」
「おだんごが、食べたいでござる」


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……続きは本でお楽しみいただけたら嬉しいです!(>_<)/


あきゅろす。
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