[携帯モード] [URL送信]
《スーベニア・サンプル》


-----




 目が覚めたのは、明け方にはまだ遠く、もっとも冷え込む頃合いだった。
 体にゆるく絡む腕は、そんな寒さから己を守ってくれているようで、自然と口許が綻ぶ。
 そっと顔を上げて周囲を伺えば、部屋の中はまだまだ暗い。障子の向こうが明るいのは月が出ているからだろう。褥の傍らに脱ぎ捨てた着物の合間に覗く金の飾りがその明かりを受けて小さく光っているのにふと笑んだ。あれは鈴だ。体に回された腕の主が揃いにと誂えてくれた、彼からの唯一の贈り物だった。趣味が高い彼の目に叶ったそれはとても涼やかで美しい音を鳴らしてくれる。その響きがとても気に入っているので、常に身につけているのだ。
 相手の表情を伺えば、眠るときだけ外された眼帯のおかげで普段は見ることが出来ない傷跡の瞼が長めの髪ごしに覗くことが出来た。
 醜いと彼が自嘲する右の瞼と、傷一つないきれいな左の瞼。どちらも閉ざされ、覆う長いまつげは震えることもなく、彼が熟睡しているのが判った。
 彼は武将だ。そして一国の主だ。それを自覚し、己への戒めとする彼ほど警戒心が強い者もいないだろう。
 なのに、他国の大将である己を腕に抱き、深い眠りに落ちている。
 それが愛情によるものだと気づけないほど愚かではない。
「…………」
 じんわりと胸を暖める嬉しさと――同時にそれを切り裂かれるようなひやりとした恐れを抱きだしたのは、いったいいつの頃からだっただろう。
 ――なんてこの世の中は理不尽に満ちあふれているのだろう―――
 ふと心に浮かんだ芝居じみた台詞回しに、思わず自嘲めいた笑みを浮かべた。
 交わした情欲のくすぶる熱がまだ体の内で渦巻いている。いや、これは心の内だろうか。消すことの叶わぬ想いを、これまでどれだけ宥めてきただろうか。
 そう、共に居ることなど本来は叶わぬ相手なのだ。
 どれだけ思い慕おうとも、願おうとも、同じ未来を見ることなど叶わぬ相手――敵対する国の主。
 代々続く国主の血脈を。一国内の民草の命を守る定めを背負う人。
(俺では)
 叶えることは到底出来ない、あまりに明らかな事実は、未来での別離を示唆している。
 それは最初から判っていたことだけど――それでも想いを止められず、彼を想い愛し、そして彼の情を受ける身となった僥倖に胸は熱くなるのだけれど。
(結局は)
 事実は覆らない。
 これから待ち構える離別の顎に一度掛かれば、これほどの想いも打ち砕かれてしまうだろう――己には抗う術もないままに。
 外が明るい。どうやら月が出ているらしい。だが、どれほど夜を照らそうとも月はいずれ翳り消えてしまう。それでも月であれば再び満ちるけれども、この想いは一度消されてしまえば再び灯ることも許されない。
(……だから)
 せめて、それまでは――。
 にじむ涙を耐えて、息を詰める。
 噛みしめた唇の苦みを嚥下して、傍らの温もりに、そっと身を寄せた。



( 中略 )


「……あ、れ……?」
 頭に手を当てて――呆然とした。
(思い出せない)
 いつ、どこで、どうして、怪我をしたのか。
 怪我の原因を――そして昨日を思い出そうとして、それがぽっかりと頭の中から抜け落ちていることに目を見開いた。
 いや、昨日ばかりではない。
(おれ、は)
 確か、近く川中島で起こる戦に向けて、鍛錬をしていたのではなかったか。そのはずだ。だが、その記憶はどこか遠く、昨日やそこらのものではない気がする。もっと、もっと間近なものがあるはずだ。
 だがいくら思い出そうとしても、それ以上のこと
が浮かんでこない。
「…………」
 体が小刻みに震える。急に足元や地面がぐらぐらと覚束ないものになったかのような錯覚に、はくり、と乾いた息を飲んだ。
(落ち着け)
 いつの間にかからからに干上がった喉に、ごくりと飲んだ唾を送り込む。それでも足りず、唇を舐めた。唇はかさついていた。
(落ち着け)
 自分に言い聞かせる。
 何のことはない、ただ寝起きで頭がぼんやりとしているだけだ。寝起きは良い方だと思っていたが、そういう日もあるだろう。いや、単に自分が知らなかっただけで「寝惚ける」というのはこういう状態を指すのかもしれない。
(そうだ)
 そうに違いない。そうに決まっている。
(思い出せ、目を覚ませ)
 この寝床から抜け出して、庭に出て朝の空気を胸一杯に吸いこんで鍛錬の棒を振り回せば、きっと頭の中もすっきりと晴れて、こんな焦燥感なんて感じたことすら忘れてしまうにちがいない。
 ――そう思うのに。
 悪寒のように震える体には力が入らず、どろどろとヘドロのようなものが渦巻く感じにも似た嫌な予感が胸の中でざわめいて、冷や汗と共に心臓がばくりばくりと嫌な音を立てる。
 その正体を探る前に――溜まらなくなって、口を開いた。
「さ、佐助……」
 口煩くも頼りになる腹心。彼ならば、きっと。
 縋るように呼んだ名前が空気に溶けてしまうと同時に、障子の向こうに影が映る。何もなかったはずのそこに瞬時に現れた人の気配は馴染んだもので、ほっと吐息をもらすと、音も無く障子が開いた。
「起きたんだね」
 よかった、と、庭からの光を背に受け、濃い陰影に表情を消された忍は、それでも判るほどに表情豊かに笑いかける。
「ああ。……でもなんだか、頭がぼんやりするんだ」
「仕方が無いよ、頭を相当強く打ったんだ。覚えてない? 崖から落ちたんだよ」
 命があっただけめっけもんなんだから、と苦笑する佐助の手にはいつのまにか桶と手拭い、そして綺麗に畳まれた晒しがあった。
「崖から落ちた……?」
「え、なに。マジで覚えてないの?」
 小さく繰り返した呟きを拾い上げた佐助は、一つ目を瞬いた後、足早に枕元に寄ってくると、心配げに顔をのぞき込んできた。
 そんな佐助に一つ頷きを返す。
「じゃあ、この頭の怪我はその時のものなんだな……」
 さっぱり記憶にない怪我の正体に、やはり釈然としないものを感じながら、患部に手を伸ばすと、慌てたようにその手を掴まれた。
「待った大将! 触っちゃ駄目! 独眼竜とやりあった時の傷だってまだ塞がってないってのに、悪化しちゃうでしょ!」
「え……?」
 がしりと己の手を掴んだ佐助が諫めるのは――己だ。つまり、今のは己に向けられた言葉。だが。
「……大将?」
 佐助が『大将』と呼ぶのは、主君・武田信玄のはずだ。
(それに)
「佐助……」
 さっき佐助がしたように、ぱちり、と瞬いて問いかける。
「――独眼竜、とは……なんだ?」
 聞いたこともない言葉に首を傾げると、視線の先で佐助が声をなく大きく目を瞠った。


( 中略 )


「佐助?」
 その綺麗な表貌が近づいてくる。寄せられる顔に目を瞬いて見返していると、くすり、と小さな笑いを零した唇が、ふにり、と頬に押し当てられて、そのまま「強情だねえ」と囁いた。
 頬をくすぐるその感触と吐息――囁く声の甘さと距離の近さに、ばくり、と胸が跳ね、反射的に佐助を押しのけた勢いで後退りした。
「さ、佐助えええ!」
 みっともなく上ずった声で名前を叫ぶと、呼ばれた相手は軽く肩を竦め、そしてぺろり、と唇を舐めた。
 艶めいた仕草には反省の色はなく、苛立ちに顔をしかめると、ふっと佐助の表情が曇った。
「……いやだった?」
 思いの外悲しげな表情に、沸き立ちそうになった感情がひやり、と冷まされる。佐助は表情が豊かだが、それは自分の感情を素直に表に出すということではない。特に、悲嘆や苦痛の類いは綺麗に隠してしまうので、それを見抜けるようになるのに随分とかかったものだ。
 だが、今目の前に晒されたそれは、あからさまなまでの感情で。
「……いや、というか……」
 思いがけぬ振舞で戸惑ったというのが正直なところだ。
 小さく零した呟きで、佐助は悟ったのか、うん、と頷くと、表情に再び苦笑を滲ませた。
「ねえ、旦那……何ともないってことないよね。……覚えてないよね、俺とのこと」
「……え……?」
 向けられるその表情に浮かぶのは――悲しさに加えて寂しさの類い。
(佐助とのこと?)
 佐助は幼い頃からの従者で。養育係で。常に影のように己と共にあり誰よりも頼りとする存在で――
 戸惑いに目を瞬くと、吐息を漏らすようにふっと笑うと、佐助はこちらへと手を伸ばして指の背で、頬から顎にかけての輪郭をそっとなぞった。
「もう少し旦那が落ち着いてからの方がいいかもしれないけれど……後にしたって良いことなさそうだから、言っちゃうね」
 繊細に触れるその感触と、切なげに細められた双眸に、再びどくり、と胸が跳ねた時――佐助の薄い唇が開いた。
「俺様は旦那の忍びだ。――だけどね、俺は旦那の恋人でもあったんだよ」
 囁くように告げられた言葉に、思わずぽかんと口を開く。耳を突き抜けた声は、何度か頭の中をぐるぐると周り、そしてようやく意味のある言葉として認識した時、半開きの口と両目を大きく開いて、声にならない声で悲鳴めいた叫びをあげた。

-----

……続きは本でお楽しみいただけたら嬉しいです!(>_<)/


あきゅろす。
[管理]

無料HPエムペ!