たどれば幾年をさかのぼるであろうか。
塔に囚われた魔女の話。



町とは違いひっそりとした空気を漂わす森の中、木々は青く生い茂り鳥のさえずりも耳に届くなごやかな自然溢れた場所にある一つの奇妙な噂が存在した。
“塔住まう魔女の声を聞いてはならぬ”
しかし森を徘徊する狩人や猟師ですらその塔に関しては無知であり、存在を否定する輩もしばし居たくらいである。
だが子供達は雲を掴むような噂話に本能が煽られ、つい好奇に負けて森へ足を踏み入れた途端に行方が不明という。
噂自体の本質には明確でないものの、実際問題は皆がその噂を口にして以来、森奥深くから誰一人帰らないという事実だった。
それからというもの父母は愛する子供を無くすまいと森の出入りを禁止させた。

ある一人の男が居た。
男は噂を耳にして以来、行方をくらませた友人の少年が今日日戻らないことを心配する仲間内に気づかい、自らが進んで皆が止める森へと足を進めた。
最近はめっきり出入りの減少する森は荒れ果て、探索は困難を極めるものかと覚悟をしたのも束の間。辺りは鳥や兎、鹿程度しか見当たらず、穏やかな気候に揺られ吹く風。
警戒を尽く打ち破る安堵に男は改めて噂として認識しさらなる奥地へと入り込んでいった。
ところが静寂を包む自然の中で男の耳に確かに聞こえたものがある。
眼を堪え木々の葉音、風に混じり微かに聞こえる“歌声”それは小さくもその存在をしっかりと示しており男は慎重に身をはやらせた。
一歩進むごとに捕らえられる声に胸が騒ぐ。足が引き寄せられる、といったほうが正しいのだろう。 響く美しい歌声は裏腹にどこか繊細にもの哀しさを思わせ、次第に視界を覆う霧に速める足を躊躇わせた。
日中は森一帯で霧が出た事はこの数年見た事も聞いた事も無い。 いよいよ本来の噂が具現化されたのか現実味を増す一方で不思議と男の足取りは止まることはなかった。

しばらくするとどこからか甘い芳香が鼻孔を刺激する。ひどく胸やけを誘う甘ったるさに眉を顰めた。
だがそれでも男は前に進んだ。 立ち込める霧を振り払い、ようやく森の開けた場所へと抜けたおかげで視界を遮っていたものがわずかに無くなる。
そこにはひっそりとそびえ立つ高き塔が存在した。
塔は白い壁が老朽化し、ひびと変色にみまわれていたが、どこか気品が滲み出た作りに安っぽさを全く与えない。
さらにはその塔をきわだたせる存在がある。回りを囲う薔薇の花達だ。
数十種の品種に対しどれも深紅を思わせる色合いの薔薇の花園は見事だとたたえるこそ容易であるが、妖しいまでになまめかしい。
いつの間にか途絶えた歌声はこの塔上空からだったのだろうか。男はつられるように近づいた。躊躇いながら歌声の先を見上げ、まるで天に語るように問い掛けた。
塔の頂上は相変わらず濃い霧に遮られひどく曖昧だった。しかしただ薄ぼんやりとした中で唯一確認出来たことが一つ。霧の中でも一瞬鮮やかに反射した深紅。
息をひっそりと殺し深く沈んでしまいそうな空気に溶ける。
男は再び問いをうながした。 誰かいるのだろう、と今度は確信を持って。彼はそれが無駄とは思わなかった。手がかりを前に右往左往するくらいならば相手の出方を伺うのが道理である。

そこからずいぶんと長い、長い沈黙の果てについに答えられた声は女のものだった。刺を含む一言だが男はさほど気にならない。それよりも彼が疑問を浮かべたのは、待機していた間に改めて辺りを確認すべく一周した白きレンガ壁にあるべきものが見当たらないこと。
扉が、無いのだ。壁に窓もない。それでは一体どうやって女は塔に登ったというのだろうか?

男は素性とここへ来た理由を簡潔に述べた。女の張り詰めるほどの警戒心を解かなければ後にも先にも進めないと見た彼は懸命に不器用ながらも言葉をかけ続ける。
そこから男が諦めることなく太陽が傾く時刻まで粘ったもの、兆しが伺えないかと考え始めた時だった。
上空から落下したそれは塔の高さをものともいわず地にかすめた。
怪訝に掴みとると、一見縄と思いこんだそれは三つの束で編み込まれ繊細な際立ちに手切れてしまいそうに柔らかい。赤い――髪の毛束だった。
益々募る疑問符に言葉を探したが催促がとんだことにより、手で強度確認をし男は恐る恐るそれを使い塔の上へ向かい登り始めた。
絹の手触りに似た髪は一本一本は細いが一切の揺らぎもない。 視界を濁らす霧をかいくぐりながら上りつめてゆくとついに頭上に窓枠らしきものを確認出来た。
最後の勢いで窓枠に手を掛け軽々と室内に入り込めば気怠く顔をあげた女が男に視線の先に居た。
長い髪は室内といえど男が侵入した窓からもまだ続き女の頭に繋がっている。 外からもれた太陽光の屈折により美しく輝き鮮やかな色味に光った。

想像よりもずいぶん幼かった。 外界では魔女だなんだと恐れられていた女はまだ大人ともいわぬ、どちらかといえば少女のなりをしており不可思議な気持ちになる。
ここでも噂だけが独り歩きをした結果ともいえるのか、あるいはまとう雰囲気だろうか。 表面の小綺麗さとは裏腹に彼女の表情は疎ましさにひそめる眉根、怪訝をチラつかせる眼。どうやら招かねざる客にまだ疑心は消えない様子。目で問う質問に男は我にかえると再度言葉を探した。
美しい歌声につられここまできたがそれに感傷を感じたと伝えると彼女の翡翠の深い瞳が見開かれる。
刹那・驚くほど声が出された。空気を震わせた彼女の激昂に今度は彼が瞳を大きく開かせた。
彼女は一体何を思いここに存在するのか。
複雑な数奇の糸を手繰り寄せ出会った彼女に秘められた謎、彼は好奇に目を背けられないでいる。





父と母がわからない。
正しくは物心ついた時からここに居たという事実だけでもう思い出すことも遠い。
一切の出入りは無く外の世界を何一つ知らないで育った。知り得たのはせいぜい本やこの塔を行き来する男の話だけ。
男はディヴァインと名乗った。
唯一彼だけが孤独な彼女の心を癒し、また彼女の世界の全てを必然的にディヴァインが支配するようになった。
いつからか窓枠に半身を出し歌を奏でさせられるようになる。
始めは悦びを覚えた。それまで彼女の歌声は小さな鳥籠の中でしか鳴けない鳥と同じだからだ。狭くはあるが開け放たれた窓辺に肘をつき気づけば1日中歌い続けた。この声が誰かに届くのならば、と。
一人、二人、彼女の声は確実に誰かの心を捕らえた。外界との交流はまさに彼女に“希望”を与えた。
だが、幸せは長く続かない。
この声が人々を誘き寄せる単なる道具と成り果てていることを知ったのは愚かにもずいぶんと季節をめぐり、彼の緻密な罠にようやく気がついてしまった時から。
何度口を閉ざすと決心しては破るだろう。止めることは許されない。好色の瞳に選ばれた純粋な子供達は好奇に負け次々とこの塔へと吸い寄せられた。明日の光を閉ざすともわからずに。


今、目の前に居る男はどうだろう。
体は細身、どちらかといえば浅黒さをより含んだ肌。彼もまた好奇に負けた一人のうち。
とはいえ彼は若いが“少年”ではない。無意識の安堵に困惑し、視線から逃げた。
上空と地上のやりとりは目立つ故に引き入れたもののまもなく夕暮れだ。闇がいずれ全てを飲み込む。
彼女は苦渋の選択の末、再三の注意をきつくいいのけて彼を再び野に放った。
この時、彼女は去り行く背中を見ながらゆっくりと目を伏せると血のように赤い太陽を恨み睨んだ。
全てを隠す静寂で孤独な夜が始まる。長い夜が。



しばらく時日を置きアキの翡翠の瞳に動揺が色濃く現れた。
彼が再び足を運んだ。物珍しさから興味を引いてしまったのか、二度と再会はないというほど立ち入りを禁じたはずなのに男は目の前にいる。
理解が出来ず始めこそ口をつぐんでいたが、何気ない一言二言から興味を植えつけられ現実を垣間見つついつの間にか話をした。
けして多くない口数だが外観のありのままの日常に興味を示すと問えば何もかもを丁寧に教えてくれた。
彼の主観でもそれは全てが真新しく思え、羨ましさを感じ光を見た。
失ってしまった地面の感覚はどのようだったか。風の中、走り・歩く、なんて。
『自由』に憧れを魅る。 己の眼で世界を知りたい。 けれどそれを口にしてはいけない。
その葛藤が徐々に強く虚無へと痛感させる。
太陽を浴びれず蕾を開けない花のようにアキは年齢よりも幼いまま成長を遂げてしまった。
巧く思考を表現するすべがないことが歯がゆく胸を痛めた。
それから知ってか知らずか、遊星は決まってディヴァインの居ない時に度々訪れるようになった。その際、必ず外に咲く数多くの中から選んだ一輪の薔薇の花を持って話をしに。
遊星と居る時間が増えた。彼にどんなに虚勢をはっても逆にお構い無しにそこにいる。それはいつしか傍に居るだけでそこが日だまりのような温かさを生んだ。 眩しくて優しい、安心感が在った。
ただ、彼女は彼が帰るとその美しさを網膜に刻み込みながらすぐに薔薇を燃やす。それは残してはならない禁断の花。天に存在することは許されない。
遊星と彼女をつなぐ儚い絆。灰と化してもなお強く残る残像はとてももろく哀しみに消えた。


「アキ。最近機嫌がいいようだね」

だがまやかしは常にそばにいた。
忘れていたわけではない。目を背け逃げていただけで決して逃れられるはずもなかった。
ディヴァインの甘い声色がそっと降り注ぐ。
振り返ると彼は何度でもないように本をめくりながら笑みをこぼす。

「そうそう。この間外の薔薇の花びらが一枚、落ちていてね。どこから入ったんだろうな」

ふわりと笑顔で穏やかに囁く彼の言葉が背筋に冷たい棘を突き刺した。否定の言葉も絞り出すことは無意味だと思い知らされた。
アキに被された心の鉄の仮面が音を出して亀裂を入れる。
ディヴァインが手招きをする。 アキは即座にそれが何かを察した。
頬を撫でる掌の熱に侵されそうだ。

「お前はイイコだね。アキ」

甘く、溶ける言葉は彼女にじくじくと蝕んでゆく。
ぼうっと揺らめいた燭台の灯り。
愚かな喜びにかかる焔は鮮やかに揺らめいた。
嗚呼、もうなにもかもが遅い。





「二度と来ないで」

アキは初めて言葉を交わした時と同じ眼差しでそう吐いた。
仄かな感情の変化も巻き戻されたその瞳には同様に暗い影がかかっている。日だまりを捨て氷に閉じ込められた心は再び何者の侵入を拒んだ。
押し黙り続けた沈黙の中で彼女の思考に次々と蓋が閉まる。戻るのははじまりと同じ水底まで容易く落ちてゆく。
まとわりつく記憶は捨てるすべがわからない。
無邪気を裏切り眠りを誘わせればむせかえる匂いの中で宵闇に響く泣き声。
次の日に必ずある麻袋の隙間からわずかに見えた毛髪。
それを抱え出て行く後ろ姿に目を背ける。
汚されたシーツを新しいものへと換え、歌を奏でる。
繰り返す“日常”に温度も光も要らない。


「恐がらなくていい」

遊星はアキにとって永遠のように長く、また時として短い沈黙を破った。
一歩と距離を縮めると、驚きと困惑をにじますアキは手で払う素振りをして後退した。
他人を傷つけ傷ついたことをあまりにも多くしてしまった。望まぬ負の連鎖を目の当たりにしすぎたせいで他人の拒絶を何より怖れ脅えた。
虚勢をはるだけの意識はとっくに崩れ、挙動不審に目を泳がせ肩を強ばらせる。
遊星の歩みは止まない。それはアキにさらなる焦燥を掻き立てた。
そしてアキは塔の秘密を自ら暴いた。遊星に決別されるにはもうこれしか思いつかなかった。
望んだことではない。けれどそう望まなくてはならない。彼の友人の死の手引きをしてしまった以上、今まで必死に背け逃れていた事実に途方もない罪悪が苛まれた。
呼吸が粗い。酸素を渇望する。
だが、よろりと後退していた体が不意に震え片膝が落ちたかと思えば急に視界を閉ざしたアキは机に手をつく暇なくそのまま床になだれ落ちる。
彼女自身・普段自分が盛っていた薬をまさか自らが受けることなど夢にも思わなかったはずだ。だから意識が再び戻っても理解にかけるのは致し方ない。
沈んでゆく、涙の海をこえてアキの意識は深く埋もれてゆく。
全てを忘れることは出来ないがせめて・今だけ穏やかに苦しみから逃れられたら。
アキはまどろみの中で思い馳せた。この手をとって塔から出られたらどんなに幸せだったのだろう。閉じた瞳から涙をこぼす。
それは細やかな欲望。また遠い希望。

しばらく押し黙ったまま遊星は腰に潜めていたナイフを抜き出した。 ナイフは飢えを印していて今にも食らいつきたい。まるでそう主張している。
指先で刃をなぞれば切れ味に光が影を生む。
そっと、撫でた彼女の肌は陶器のようなめらかに美しかった。





穏やかな太陽の光が地平線の彼方へ吸い込まれてゆく。
影が濃く伸びる地面を足早に歩く。
ディヴァインが違和感を感じたのは塔の辺りを訪れた時ではなかった。
奏でる歌声が聞こえなかったことでもなく、風に揺られ垂れ下がっている髪を登った時でもない。
目の前にいるはずのない青年が待ちわびた姿をとらえたからでもなかった。

「なるほど・お前がアキをそそのかした男か。」

確信だ。いつかこうなることは理解していた。妙な正義感につられた英雄きどりの偽善者が成す救出劇。なんと片腹痛いことか。
部屋の中央で二人の男は対峙する。
それぞれの理由でお互いを認識したかと思えばディヴァインはふっと唇に笑みを浮かべた。

「魔女相手にやるじゃないか、とても器量がいいと思えない面だが一体どんな甘い言葉を囁いたんだ?アキはどこだ」
「さぁな」
「…アキの髪を切ったな。ハッ、無駄なことだ」

ディヴァインは部屋の壁に杭で繋がれた毛束に視線だけやると大袈裟に溜め息を吐き、歪めた唇を戻すこともせずに肩を揺らした。
対する遊星は表情を一切崩すこともなく、無機質な瞳でじっとりとディヴァインを見据えている。

「そもそも逃げようと思えばいつだって逃げれたのにそうはしなかった。罪悪感でもなんでもいい。始めに暗示をすりこませておけば鍵などなくともなんら問題はない。アキ自らの意思で自分自身に枷をつけたというわけさ」

ぬるい風が宵に紛れ、ディヴァインの声をより響かせる。
誘うような甘い香りがここまで漂ってくるようだ。

「アキは実に素直に言うことを聞き、よく働いてくれた。決してわたしの命令に背かない。つまり!アキはわたしがいなければ何も出来ないのだ!なぜ両親の死体を見ていないのに死んだと思いこんでいると思う?わたしが言ったからだよ!!お前の両親はもういない誰もお前を必要としていないわたししかいないとな!だからわたしを支えに生きていけるようにしてやったのさ。結果アキは素晴らしい子になった、…お前さえ現れなければな」

それまで三日月に携えた唇が閉ざされたと思うと眉根を寄せ見下ろすディヴァインの双眸はひどく疎ましさを宿していた。
長年描き築き上げた思想論を悲観ごときで汚した青年が目の前にいるだけで吐き気がする。
理想の陶酔まであと僅か。それを完成させるまでアキは大事なコマとして無くてはならない。
それゆえ順応でありされすれば自我を芽生えさせる必要がない。この青年の存在は害悪だ。
ディヴァインはコートの裏側に隠したナイフを手の甲で確認する。
研ぎ忘れたことで切れ味はさぞかし最悪だろう。一線で終えるとは思えない。
この部屋の美しい白を不浄の紅蓮で汚してしまうのには不服だが、なにより雪辱を果たすことが先決だ。
不要なものを排除するたび恍惚がなお増してゆく。火照る身体を押さえ喜びさえにじむディヴァインは思わず生唾を飲み込んだ。

「俺は何もしていない」
「は?」
「ただ答えてやっただけだ」
「…何だと?」
「お前が、アキに、教えたように」

温度の無くした瞳に抑揚のない声色によどみ気圧される。
怒気をあからさまにだすわけでもない。それなのに奮わす覇気にディヴァインは僅かに目を見開き、のまれた。
同時に遊星にはその変化が鈍く見えた。
静寂を愛した彼からしてみればとても耳障りで嫌悪する、ディヴァインの言い分の方が余程片腹が痛いと感じたのだ。
浅はかな男だと思う。己の欲がために幼い少女を支配することが彼の生きがいに見えた。その上で子供をはべらせて遊戯に勤しむことで彼は満たされる。
嗜好を危惧するつもりはない。ただディヴァインの世界は囚われのアキよりも狭く遊星に映る。
案外・狭い籠の中にいるのは――

「そうよ。心配しないで。お前の存在など消してあげるから」

そこへ遮断された空間にずるりとはびこる声がとどろく。
緩やかでいてはっきりとした言葉はゆっくりと毒をまいた。

「お前…誰だ!?」
「ようやく見つけたわよ。ディヴァイン…」

部屋の奥から表れた女は遊星の横を颯爽と抜けディヴァインの前に現れる。
端麗な容姿を持ち合わせた彼女の艶やかな黒髪が揺れた。
それは実に優雅で美しかった。物腰から声色まで気品に溢れ、とても彼女の瞳に憎しみの炎が揺れ復讐にたぎらせているとは思えない。その華奢な背中から伝わる悪意を遊星は肌で諭す。

「お前だけは許さない…弟を、トビーを忘れたとは言わせない!!」
「!!お前、トビーの…!ミスティか!?」
「あの子は私の全てだった!!多くを望まずたった二人で生きてきたのに…それをお前はあの子を辱しめただけでなく無惨に殺した!!お前だけは絶対に…ッ許さない!!」

激情に荒ぐ彼女の血走る眼差しにディヴァインは反射で目を反らした。
迂闊、だったというのだろうか。打算は勿論、自らを光を浴びぬ宵に任せ細心の注意を払い今までやってきた。
ディヴァインが疑心をいだくのも無理はない。実際、彼の足取りや形跡は驚くほど隠ぺいされている。
その理由の主は獲物を捕らえるため次に繋ぐためでもあるが、また報復から逃れるそれも1つだ。
だが今日日まで保たれてきた均衡がついに崩れたというのならば話は別だ。

「ふ、はははは!!!ならば…わたしを殺すとでもいうのか!?」

圧倒的不利ともいえる現状にディヴァインは横柄にも失笑を沸き立てた。この状況下でもまだ優位に立つ自信は充分にあった。
彼とて人々の目を口だけで欺き続けてきただけではない。ヒトの特性を理解し操り隙をつくのに長け、素手でも造作なく死に至らすことが可能であった。
ただし・人はおごりに富んだ時、必ずといっていい。見逃すのだ。

「誰が殺すといった?」

純なる悪意が正面から揺らぐことなくそそがれた。

「私やトビーが受けた屈辱を一瞬で終わらせるとでも思ってるのかしら」

ミスティの唇が妖しく艶めく。
紡がれる言葉は淡く囁くのに対して重く耳に張りついて離れない。
失うものを全て亡くした時、躊躇いという良心を捨て全てを奪いにくる≪覚悟≫を招く。

「…あなた――10年も手込めにしていたのに彼女の赤い髪、なぜこの時間でも光沢を放っているか気がつかなかったの?」

ディヴァインは脳裏によぎる光景に我にかえる。そう、感じた違和感はここにきて明らかになった。
間もなく初夏を向かえる季節に対して遊星の皮膚は首から上以外全ておおわれていて明らかに不自然だ。
この部屋へ訪れるならば壁を上るその時、アキの髪を必ず掴まなくてはならない。
慌てて掌に視線を落とすと突き刺す痛みが血管を流れ全身に巡り思わず眉をひそめた。
赤くただれた皮膚の熱に次第に額から汗をにじませて異形に変貌していく様に思わず口を開く。

「まずは飼い慣らした少女に噛みつかれる気分はどう?大切に育てたんでしょう。すみずみまで美しく手入れをして着飾り利用させてそこから得た快楽に食い溺れ…魔女という偽りの称号をまとわせて人々を畏怖させる…」
「ぐっ…!」
「ふふ、ふっふふふ」
「何がおかしい!」
「噂に踊らされて誰も本来の魔女の意味を理解していない」
「…どういう、意味だ」
「囲われただけで名ばかりの生易しい少女とは違う。目まぐるしいほど永き時代に渡り迫害され堪え忍んできた本当の魔女の恐ろしさ…お前に思いしらせてあげる!」
「…!!」
「トビーが死んだ世界は何もない。だから快楽を思い出させて頂戴」

人間というのは実に愚かで美しい。捕食者と獲物の絶対的な立場は決まっている。
咎をあがなう事を少しでも持ち合わせていれば変わったのだろうか。
遊星は目の前で苦痛にさいなまれてゆくディヴァインを声をこぼすことなく見つめた。
彼の吐瀉物から放つ悪臭は部屋にまかれた花びらに染み、香りを狂わす。
彼の絶叫の最中、必死におりなすたどたどしい救済もミスティの恍惚を募らせるだけで止まることはない。
彼女はナイフで傷をおわせたと思えば浅く、焼きごてを持てば髪を焼くだけ。頬を撫でたかと思えば爪をたて指を折る。
ミスティには限りなく時がある。絶望に生き永らえさせることも希望に死を運ぶことも全ては彼女が飽くまで、果たしていつか?
長いスカートの中から覗く足には継ぎ目が見えた。
朽ちた足を繋ぎ止める“代え”がそろそろ必要だということを話していたと遊星は思い出す。
そうなった時、彼女はまた死体からではなく生きたまま誰かの足を切断すると微笑むだろう。

「待、て…!!」

遊星が窓に足をかけた刹那、かすれた声が遊星の背中を引いた。
地にはいつくばったディヴァインはそれを屈辱に感じる余裕は当になく絞り出す彼の肩は荒々しい呼吸で揺れていた。

「俺から離れ、アキがどうなると思う!!?はたして上手くいくかな!!」
「さあな。どうだっていいさ」
「…な、お前、わかっているのか!?一人じゃ何も知らない何も出来ない役立たずを…正気か!?一体何をする気だ!!」
「俺もお前と似たムジナだ」

遊星の起伏の乏しいソレが蓋をわずかに開けた。
否・彼はもとから蓋をしたつもりはなかった。触れられなければずっとこのまま、誰にも知られることはないまま過ごすはずだったのだから。
ディヴァインは息が詰まる。痛みをむせ混むことを忘れ、これほど欲望に蝕まれていた男を前にしていたのかと唐突に目眩がした。

「俺は彼女が欲しかった」

真っ直ぐに揺らぐことのない藍色は熱病に侵された濁りを放つ。
読み取れない彼の唯一の暗く重い純なる枯渇。拒絶の心が彼を作り上げている。
彼は救済者でも何でもない。少なくともディヴァインは遊星にそう思わせざるおえなかった。
やがて燭台の灯りから姿を無くすとディヴァインが最初で最後に見た遊星の感情は闇に消えていった。







咲き乱れる薔薇の花園の中から横たわるアキを抱きかかえると遊星は宵の草木を歩みだした。
月明かりのもと風に誘われて花の蜜の香りが背をゆっくりと撫でた。
髪がなくなったまっさらな首筋がさらけ出され、ひんやりとした体が遊星に寄りかかる。投げ出された重みは遊星に心地好い安堵を与えた。
遊星の永らく焦がれた願いはようやく叶えられた。
それは本の些細な偶然が重なり合い、導かれたのだとしたら彼もまた運命だったのかもしれない。
探し求めた美しいひと、それがこの腕の中にいる。
物言わぬ紅い唇に閉ざされた凛とした瞳、鳴りやんだ鼓動。血の通わぬ冷たい肌に遊星は目を細め酔いしれながら唇を緩めた。
すると振動でアキの掌から滑り落ちた硝子小瓶の微々たる中身は真紅の薔薇に吸われた。
それは禁断の果実のようにひどくアキを魅了したに違いない。
先刻・花園で目を覚ました彼女に委ねられた初めての『自由』への選択肢。
そしてアキは自ら“選んだ”のだ。無知は何の躊躇いも疑心もなくし経口すると小さな麻痺はやがて大きな支障となり甘美な毒へと変わる。
ひどく焦がれたアキの願いはこうして叶えられた。
苦しみも寂しさもない、温もりをくれる存在が籠の中からつれ出してくれること。そしてそれは皮肉にも“生”を代償にしなければならなかった。
アキは薔薇に彩られる中、目を覚ますことはない。しかしようやく魔女のしがらみから解放されどこか穏やかな年相応の表情で月光に見守られていた。
これこそが遊星が求めたものだ。
自暴自棄が絶望として黒く喰われた中でしか生きられなかったアキが一筋の希望に囚われすがる時、それは生に執着を見いだし人間らしさを取り戻す。
永きの命を持つ魔女にはない、生への執着心こそが人間本来の代えがたい美しさだ。
アキは戻れなかった。孤独を埋めた希望の蜜味を知ってしまった。どんなにあがこうとも二度と捨てきれずもがき求め続けてしまう。
それ故に遊星も固執した。その刹那をずっと止めておきたいが為、極上の条件を満たしたアキという死体を傍に置くことを。

やがて遊星は深い森の中へと進む。
静寂が肌を刺そうとも振り返らずに前だけを見つめ――。




その後、あの塔へたどり着いた者は誰も居ない。
忌まわしき秘事も明るみに出ることなく人々の記憶から徐々に消えていった。
それからまもなく、新たな噂が囁かれる。
霧のかかる深き森に魔女の毒により美しき少女が眠っている、と。






*

27/5/15




あきゅろす。
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