※血有り



明日香が違和感を感じたのは些細なことだった。
その日は吐く息は白かったものの、太陽がうっすらとまだ雲の隙間から出ている。
幼い子供が手に小さな花束というにはささやかなそれを持ち、まるでお使いともとれる姿で駆け足で抜けしていく。
ただその男の子は、何故だかこの広い道幅にふつりあいな近距離で明日香の真横を抜けていき、お互いの服をかすめたような気さえした。

夕暮れをむかえ、やがて街灯がぽつりぽつりと光に包まれる中で人々が忙しげに行き交う光景を明日香はただ立ち尽くしてぼんやりと眺めていた。
一面のおおわれた白銀の世界で雪の声がする。
喧騒から抜けたこの通り道はあっという間に静寂にくるまれて、帰路を目指す姿も途絶えた。
ようやく、明日香は受け止めることを理解せざるおえなかった。
街灯の穏やかな橙色の光の下、どこにも自分の歩いた足跡と影がない。前にも後ろにももちろん横にも。あるべきものが見当たらない。
冬空の下ではあり得ない薄手のブラウスを揺るがせて懸命に動いてもなんの不快も感じられぬ温度。
花束から舞った花びらが掌をすり抜けたのも、ふりそそぐ雪を捕まえられないのも気のせいだと思いたかった。
ガラスに映る取り残された自分の虚ろはみることが出来るのに。



実体のない存在になってから何日かたった。
日付を数えることは容易だったけれど、とてもそんな気分にはならない。
誰かに・何かに干渉出来るわけでもないから実際にどうしていいのかがわからない。
天からの迎えを想像して気を張っていたのも時が経つにつれて薄れてゆき、変化のない時間の流れに途方にくれる。
自分がどうしてここに要るのか、生きてるのかあまつさえ死んだのかも記憶にない。
ただ、ずっと朝を待ち続けた。
人の姿を見ているだけで孤独からは逃れられる。
太陽の消えた世界の闇は一層疎外感を募らせるだけだから。
今日も人が多く流れる道の縁にしゃがみこみ、見上げた先には買い物袋を抱えた同じくらいの背格好の少女たちが、温かな装いをお洒落に着こみ談笑ながら離れてゆく。
遠い隔たりを設けられた距離がそこにはあった。
ため息をつくよりも唇を噛み締めた。吐息は白くならない。嫌というほど突きつけられた事実。

胸の空洞化にやがて色彩だけが瞼に映る。
外壁である赤レンガの煤、街路樹の枯草、道端の雪、重厚感のある様々な衣服の色、…それに目の覚める鮮やかな、赤。
明日香はハッとしてそれを無心に追う。視界が再びクリアになる。
立ち上がりかけた足はもつれたが、確かにそれをしっかりととらえることができた。
しかしそれは次の瞬間、まさに瞬きの合間に起きた。
盛大に転んだのだ。明日香が、ではない。
赤は真っ白の道を笑うようにかぶさるとそれが人間だということにようやく意識がいった。
悲痛な嘆きも、何だか呆気にとられるほどで転びかたのわりにはあっけらかんとしている。
すぐに青年に近寄って手を伸ばそうとしたところで我にかえり、止まる。
今、彼の手をとることが出来ない。声すらも届かない。
近くにいても同じことを繰り返すだけ。途端に光が失われていくような気がした。
一体いつまで、いつまで続くのだろう?
たどり着く果ては答えのない問い。
そのたびに痛む胸は人である証なのに、失われた人の証もまた在処を求めていた。

「サンキューな」

青年は少しだけ眉尻を下げて衣服についた雪を払いながら立ち上がる。
罰の悪い顔も苦笑にとけこんで、滑りやすい靴が仇となっただとかこんなに積もるのは予定外だと今度はいつのまにか屈託のない笑顔でもらす。
彼の瞳には確かに明日香が映されていた。
戸惑いながら必死に言葉を探し断片的につむいだ明日香は次第に口を閉ざした。
温かな涙が止めどなくこぼれ、思わず口に手をあてた。
こんなふうに泣いたことなどあったのだろうか。記憶を置いてきた彼女は本能でせきをきらさないようにこらえた。
彼はそうした明日香を目の当たりして、そっと慈しみながら頭を撫でてあやした。
感触のないそれが忘れていた世界に光を灯した。


彼は名を遊城十代といった。
もともと“見える”体質らしく、普段から交流をとることも他愛ないそうだ。
こういった存在を認識したことがなかったために半信半疑だったが、今の自分を否定することと同じであると思いとどまり話の続きに耳を傾けた。
ここまではっきりと見えたのは初めてだといったが、十代にとってはさほど驚愕することでもないようで、むしろ生身の人と間違えたというくらい境界線が曖昧らしい。
様々な話を聞き込むほど明日香は初対面の人間なのに不思議と古くから知る友人のような懐かしさが芽生えた。
自分を認識してくれる存在が現れたからか、はたまた人懐っこい人柄からか、会話に頷いて答えてその当たり前のやり取りに嬉しさが募る。
だが同時にぬぐいきれぬ、地の底によどむ不安がめぐっていたことを頭の隅に追いやった。

それからほどなくして明日香の表情は豊かになっていた。
時折現れる十代との交流が今の彼女の心の支えになっていることが目に見えていたからだ。
このままでいいわけがない。けれど心のどこかで、よりどころができたことに甘え・このままでいいような思いもあった。
だがいつかは、十代はいずれこの町を出ていく。その時がきてしまう。
いくら気丈に振る舞っていても再び訪れる孤独に不安が隠せない。
日に日に膨らむ焦燥と安堵の入り交じりは次第に少女らしい笑みに陰りを見せた。
しかし明日香はひた隠しで常を装った。
そうすることで不安を紛らせたし、なにより彼女の芯が満たされていく。
これ以上弱音をみせたくない意地と頼りすぎない決意の現れが彼女を彩る。
少女の気高くすました葛藤に少なからず気がついた十代はただ何も触れず傍に居た。

時折、十代は少年の笑みをみせ遠くを眺めていた。
哀しくも儚いその瞳を追うように明日香は黙って空を見る。
曇天が騒ぐ。おそらく残された時間は短い。
次にこの大地を白銀にしらしめ月が欠けた時、全ては変わる。
胸騒ぎにざわめくのは空だけでいい。
そう、思った。




相も変わらず雪の降る日だった。
昨夜の急激な温度低下によって地面には薄い氷の膜がはり、凍結したそこは街を反転に映す。
暑い雲に遮られ昼夜の境目もなく、ひっそりと冬の切に惑わされる。
明日香は何故だか胸騒ぎがしていた。
いつもの時間になっても十代は現れない。
常に毎日逢っていたわけではないし、約束をしていたわけでもない。
それなのに“今日”彼を見かけないことにざわめきを隠せないでいる。
記憶のない明日香に影がちらつき始めていた。
思い出したい、その思いで過ごしてきたはずなのに頭に痛みがおきてそれを拒まれる。
困惑に救いの手をのばした時、明日香は自分の前に影が出来ていたことに気がついて顔をあげた。
そこには十代がいた。不安を振り払いながら十代の瞳を見る。
だが優しい眼差しの彼はどこにもいなかった。

「もういいだろ」

左右異なる瞳の色は明日香を見据えるとより深い色身へと染まってゆく。
低く呟いた声に反射的に身を強ばらせると浮かんだ疑問符にうっすらと涙を浮かべた。
高圧にとんだ十代は別人だった。少なくとも初めて逢ったあの時から今までも、昔でさえ見たことがない。
?妙な感覚が明日香を襲う。昔など知らない。それなのに次第に十代は自分と同じ年頃の姿となって被さり幻影が現れる。
何故?耳鳴りが強く締め付けた。
明日香を呼ぶ記憶の声。呼んでいる、十代が“わたし”を。
この場所を知っている。
いつ?8年前、ここで――


「お前は死んだんだ」

十代の背後に幼い男の子と母親が花束を持って現れた。
見覚えがあった。それはいつかすれ違ったあの男の子だった。
男の子はあの時よりも大きな花束を道の端に置くと母親と共に手を合わせて声をかける。
ありがとう。おおきくなったよ。おねえちゃんはげんきですか。
その言葉に母親は肩を震わせ抱き締めしばらく立ち尽くしたのち、二人は去っていった。
よくみるとそこには沢山の花束が置かれていた。一人や二人だけではない。数えきれない量が雪の上に添えられている。
そこだけ色の違う外壁と新しい街灯。
目まぐるしい記憶の光景が逆戻りをする。

その日明日香はずっと待っていた。
約束のない待ち合わせではあったが退屈ではなかった。もうすぐ来てくれる。笑顔を携えて十代は来る。
しかし視界はどんどん悪化し、雪の白さに目眩が起きそうな中でそれは起きた。
急停車を促す馬車と人との間で瞬く間に交差する血飛沫と悲鳴。次々と重なる轟音。その中で迫りくる危険に投げ出された赤子がいる。
咄嗟に足が出た。幸い軽症だったことから震える歩幅でしっかりと泣き叫ぶ赤子抱き締め、滑る道を懸命に回避しようともがいた時・背中を強く押された。
ゆっくりと前に倒れて行く浮遊の中で振り替えると手が見える。その瞬間・衝撃は体を鋭利に貫いた。
かすれゆく意識に映る、十代の顔よりも彼が好んで着てきた赤が網膜に焼きついた。
それは今まで見てきたどんな赤よりも鮮やかで悲しい。
なぜ、なの?もう涙を出せることは出来なかった。


「人…殺し」

信じられない言葉を口にした。
言ってはならない言葉を口にしたと、わかっている。けれど本当はわかってなどいない。
なだらかに受け止めきれない、突き抜けた痛みがそれをつむぐ。
“今の”十代を責め問うことが明日香の理性のギリギリを保っていた。
過去の記憶がおびただしいまでに甦る。
醜い感情が意のままに染まりきる前に、信じたいからこそ否定をもらうことで誤認だと確信にしたかった。
その唇に仄かに十代は笑っていた。
裏切りが絶望におちた。
くるしい。はり裂ける哀しみに涙は止めどなく溢れる。
撹乱した時、信じるという言葉が途端に軽薄で愚かなものになる。
あれほど望んだ記憶は孤独を埋めるにも満たない。全て拒絶が支配する。


その時、明日香は遠巻きに音を捕らえた。
何もかもが遅れてやってくる。
気がついた時にはスリップした馬車がゆっくりとこちらへ向かっていた。
まるであの時のようだとぼんやりとした意識にまどろんでいた。
外界と接触は出来ないとの考えはまわらなかった。再び死に直面することで体は動くことを諦めた。
そして眩しいランプの反射に瞬きした時、十代の体が目の前にあった。
そう、忘れてしまいそうなほど彼とは距離を縮めすぎた。
当たり前に隣にいて並んで歩いて喋って。でも触れることなど出来なかった。認識が鈍く今となって現実を突きつける。
彼がした行動は沈黙となり何も語らない。
無情というにもそれ相応しい。抱き締められた温もりも感触もわからずに再び訪れた孤独の中、明日香は立ちすくみ動けないでいた。
カラカラと音をたてた馬車にもがく馬の蹄の擦れと歩み寄る群集。
無垢なる道を汚す泥と飛び散った真紅。
十代の体はあの時の自分のように真っ赤に染まり、口許には穏やかな笑みが残されていた。





降りしきる雪の中、一つの足跡が続く。
指先は付着したもの乾ききった血と同じ色をしており、吐息は白い。薄手のブラウスが強風ではためいている。
ただどこかへそれは続いていた。

疲弊した体はついにふっと全身の力が抜け、地面に崩れこんだ。
突如のそれに反動で声がこぼれたが、途端に思わず唇を噛み・目を見開いたのは、熱くてたまらないそれが瞬時に消えたからではない。
今度はそこが皮膚をえぐり裂く激痛におき換えられたのだ。
メキメキと血潮を吹かせ白色のブラウスが破れていくと、背から破れ生まれ出る漆黒の塊は薄い透明なる粘膜にくるまれて形を覗かせる。
絶叫に呼応し、ぬるりぬるりと徐々にはい出され、そのたびに抱えた両袖の繊維が爪に食い込み引っ張られる。
それすらも苦痛に悶える衝動だ。
やがてわずかな時間の中で全てが出きると、やむことのなかった声は酸素を渇望するだけの機能に変わり、生理的にこぼれた涙を口にふくんだことでうつむき節操なく垂らしていた唾を飲み込むことがようやくできた。
栗色に光る髪に絡み付いた汗が首を流れ背中に流れたことで、傷口に鈍い痛みが染みる。
まどろむ麻痺をたずさえ恐ろしさにただ歯をカチカチと鳴らした。
脳裏をよぎる予感を精一杯ふり払うという微かな希望にすがって、ゆっくり・ゆっくりと手に力をいれようとする。
だが衰退し脱力しきった手はするりと落ち、それが雪を沈み地面に当たる感触にのろく眼球が下方へといく。
その爪は以前から形よく切り揃えられた薄紅の丸みはなく、分厚い硬さをおりなす黒ずんだ物体にかろうじて姿をとどめていた。
可憐な指先は指の付け根まで黒く染色し、掌から肘までの皮膚は硬く、くすんだ緑青の鱗となって爬虫類のそれと類似する風貌に変わり果てていた。
小刻みに震えながら懇願にすがる思いで頬に触れたそれらは異形の存在と温度を示す。
こめかみ付近から生えた角、獣じみた爪、鱗がはえた手、尖った耳、血を滲ませた背中の黒翼。

雪が血液を吸う。
歩くたび滴り落ちる赤。
厚い雲におおわれて視界を埋め尽くす白。
寒い。もう二度と外界の感触に介入出来ないはずだった。
それでも彼に、十代に重ね触れれば温もりが移るような気さえして明日香は満足だった。
最初で最後の彼の温かな体温は今は冷たく横たわって動かない。
生温かな血液の翼のはためきが凍える心に突き刺さる。
忘れかけた痛みという記憶。
なくしたはずの自分という存在は呼び起こされる。



昔一人のある少年は少女に出会った。
しかしほんの些細な偶然と誤解から少年は少女を目の前で失う。
彼の常に好んだ赤を全身に染め言葉無くした少女を置き去りにして。
深い自責の念に駆られながら過ごした数年後、再び彼の目の前に彼女は現れた。
記憶を無くしあの時のまま・何一つ変わらない姿で。
贖罪と歓喜がどろどろと混ざりあう。
笑うことを思い出した彼の胸中に芽生えたもの。

例え自分が闇に堕ちようとも――
彼女が流した涙をけして知ることはないのだから。





*

25/11/13

ハロウィン絵の明日香。
絵とはかなり裏腹にヘビィだった話。だから手袋してる。
明日香さん最初は幽霊でつまるところ未練があって漂ってたわけなんですが、その未練…つまり十代が背中を押したのが故意なのかそうじゃないのかを知りたかった。
しかし真実を知ってしまった時、彼女の心は闇に堕ちてしまったのです。
本来なら天へといけるはずった。コウモリの羽根ではなく堕ちた天使だから黒い羽根。
十代の意思はまぁ本編なとおりなんですが、これ十代編もかきたいけど長くなるから割合。
タイトルはどちらのこといってるでしょう?




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