富豪とも言われる屋敷に住む彼女には親の決めた許婚がいた。
それは属に政略結婚と呼ばれるもので男は不明なことが多く、また知る時間すら与えられないまま二人は共に暮らすことになった。
男が帰ってきたら共に食事をしてたまに夜伽の相手をして、たまの休日外出して。
彼女と男の関係はたったそれだけで、むしろ許婚と呼ぶより同居人という方が相応しい程に軽薄さだった。
彼女が家に居てやることとすれば絶え間なく人間観察やしきたりを覚えること。
男の恥をかかせないのが男の為というより彼女の役目で任務だった。
主に一般の夫人がこなす掃除だとか料理洗濯は彼女がこの家にきてやったことがない。
全て家政婦に仕事をとられ自分の下着すら洗ったためしがなかった。
彼女は掃除だとか料理洗濯が出来ないわけではない、特に料理は得意の分類に入る。
自分が将来嫁いで愛する夫の為に心を込めた料理を作るという夢馳せた思いで上達した腕ももはや宝の持ち腐れ。
ふるう場所も与えられなかったせいかこの家の人間は誰も知らないまま月日だけが過ぎた。

毎日が退屈で寂しくてすっかり心が空になった彼女は前ほど笑わなくなった。
そもそも今となっては楽しさを感じることがない。何に楽しさを見いだせばいいかもわからないのだから。
それ故、部屋から姿を出すことすら無くなることに無理もなかった。
男はそんな彼女に気付きもしない。地位と名誉が何より大切だった性格からか彼女など二の次であり所詮は唯の見栄だった。
愛撫も抱擁も一方的な男に彼女はただ夜が来ることを嫌う。
せめてもの優しさがあればよかったのに、苦痛を促すだけの行為が何より悲しい。
家の為、結婚の為、若くして彼女は生きる糧を失い欠けていた。

ある日、家にて開いた晩餐会に男の友人知人が尋ねてきた。
閉鎖的だった彼女にとっては変えがたい楽しい一時になるだろうと屋敷にいた世話係は誰しもそう思っていた。
彼女自体は怯えるように痣を隠し愛想笑いを浮かべ立ちすくみ、早くこの場を去ることだけを望んだ。
そんな時、ある男と目が合った。何が、とはいえない。ただ彼女に旋律に走った。
彼は大層無口で無表情。この場にいる理由さえ曖昧に見えた。自分と同じように。
その姿にどこか、好奇心が煽られた。
度重なる晩餐会に彼と何度も顔を合わせた。
どうやら男の旧友でお互いが信頼している仲だという。
何度目かして話かけて、何度目かして名前を知り、彼女は少しの警戒心にあてられながらも自分の中に安堵を見つけた。
友人とはいえず他人とは言わぬ、話相手だけとはいえぬ、不思議な関係だった。

程なくして彼女は外へおもむくようになる。
表情が柔らかくなり、時々笑うようになった。ようやく男にも心を開ける、確かにそう思った。
彼女の変化に遅れながら気付いた男は彼女を責めた。
仕事が不調のつまらぬ八つ当たりだった。
彼女の頬は三日間腫れが引かぬまま部屋からも出れず涙を耐える。その日から傷を作ることがさらに増えた。
出歩けるのは大抵傷が完治してからだったが、たまたま男の機嫌がいい週間が続き屋敷付近を散歩していたところ再び彼にあった。
不在の男への預かりものだった。
避けるように傷を隠す彼女に彼の言葉は相変わらず不器用に優しく響く。
ずっと誰かに気に掛けてもらいたかった。言葉にすることも言えることも出来ずにいた弱い自分に気づいてくれた。
彼女の瞳から無性に涙が溢れた。
零れ落ちた寂しさと悲しさ。彼は抱き締めたり甘い言葉は何一つ綴らなかった、それでも一方的だとしても彼女は救われたと思った。

その夜、昼間よりかは涙も途絶えた彼女に男は帰って来るなり罵倒を始めた。昼間の光景を見られたのだ。
高ぶる男の声色に次第に恐怖で足がすくみ今日はただではすまされない、直感は即座に危険信号を出す。
卓上のものは全てまき散らかされ、いよいよ後退りをしたところで隣にそびえた甲冑の持つナイフが男の手に握られていた。
背を向け走りだした数秒、強く捕まれた髪が宙を舞った。
長らく伸ばした深紅の髪が大理石に落ちていく、肩で揺れる髪。首筋をかすめた切っ先。
腰が落ちだらしなく床に座り込んだ。
男は一筋の涙が彼女の瞳から落ちたことを笑った。

「鬼柳、居ないのか」

声が反響した。玄関の方だ。心臓がどくりと鳴りだした。
男は途端に的外れな事を口にして彼女を越えて歩きだす。彼女の瞳に銀色に光るナイフが映った。
咄嗟に男が握り締めたナイフを奪い取ろうと触れた指はひどく冷たく軽かった。

「――――」

次の刹那、深紅が大理石をぼたぼたと染めた。
同時に悲鳴が屋敷中に溢れる。
崩れる体はナイフをただ深く喰う。醜い声をあげ肚から垂れ流れる鮮血を押さえた。溢れた血液が掌を汚してゆく。
柔らかな感触に眩暈がする。
裂けた割れ目はひゅうひゅうと音を生み鈍く意識を乱す。

「この、裏切り、ものがァ、ぁア!」

違う、こんなはずじゃ、なかった。
即座に引き抜いたナイフは肉片をわずかにまとい、肩をかすめ肺を胸を両断する如く切り抉る。
咳き込む唇から血栓が散るさまは花びらのように美しく艶めかしい。
体が重力に負けた。
目の前の黄金の瞳が弱く細まり、のろく堕ちてゆく。
骨と筋までが垣間見え絶命を迎えた男は醜態をさらして血だまりの中に転がった。
彼女の薔薇色のベルベットドレスは黒く濡れ、遅からず異変に駆け寄った彼はむせ返る血臭と惨劇に言葉を無くした。
迫る嘔吐の波に必死に耐え旧友の名をきれぎれに呼ぶ。
満足気に笑む屍と化した男の傍らにいた彼女は虚ろな、涙の詰まった眼球で笑みを唇に宿し唯・彼に呟いた。


「貴方なら、よかったのに」



嗚呼、なり

一枚の花弁が揺れ血を吸った。






*

大正浪漫的なパラレル
鬼→アキ→遊
鬼柳さんは盲目的になるがゆえ証を彼女の体に刻み愛を謳う。
アキちゃんは閉鎖的に焦がれた恋に夢見て愛を閉ざす。
遊星は両の愛を知り光を求め愛を壊す。
スレ違いが生んだ悲劇。

22/5/6






あきゅろす。
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