ベフ
地獄ゆき
「失礼しまーす。ベルフェゴール先生、今大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃねえけど、どうした?」
「委員長が卒アルのことで聞きたいことがあるらしいです」
「わかった、すぐ行く」
「お願いします。教室にいますので」
「よおフラン。それで本当は何の用だ?」
「センセイ遅いですよ。この前借りた本、返しますね」
「あー、これか。どうだった?」
「ミーは嫌いじゃないですけど、随分暗いお話じゃないですか。教師が生徒に貸すものとしてはどうかと思いますよ」
「いいだろ別に。好きなんだよ」
「高尚な趣味ですね。では、ミーはこれで帰ります。お仕事中失礼しました」
「待った、見回りついでに送るから。10分後にいつものとこな」
「了解です。…けど、大丈夫ですか?」
「ガキが余計な心配すんな。じゃあ、すぐ行くから」
「わかりました。ではセンセイ、さようなら」
「気を付けて帰れよ」
「10分って言いましたよね、10分て。25分経ってるんですけど」
「センセイは忙しいんだよ。ほらこれで機嫌直せ」
「チョコ菓子の一つや二つでミーの機嫌を取れると思わないでください」
「まあまあ、雨ひどくならねえうちに帰るぞ」
「…」
「なんだよ、まだご機嫌斜めか?」
「ミーに何か言うことないんですか」
「え、誕生日、じゃねえよな今日。あ、髪切ったとか?いや知らねえよ。ヒントよこせヒント」
「そうですか。じゃあミーから言ってあげますね。
センセイ、ご結婚おめでとうございます」
「…知ってたんだ」
「そりゃあ、女子から大人気の王子先生の結婚となると、学校中の噂になりますよ。お相手は、大学のときの同級生、でしたっけ。並盛高校で教師をされてるらしいですね」
「よく知ってんな。そう。大学の同期で、いい年齢だし周りの目もあるし、あっちにも催促されてじゃあそろそろするかなー、つって」
「へえ、なんかシビアですね。結婚ってもっと喜ばしいものだと思ってました」
「人生ってな、20代過ぎるとなんか…こうなるんだよ」
「ふーん」
「まあお前はこれから大学とか行くのかな…わかんねえけど、色んな人間と出会って、恋もするだろうし、そういうの楽しいと思うぜ、絶対」
「そうですね」
「お前はいいよ。これから何にだってなれる。どこへだって行ける。医者にでも、パティシエでも、公務員にでも…何もしたくなければ、フリーターだっていいし」
「はい」
「自分じゃわかんねえと思うけど、俺はお前が羨ましいよ、正直」
「大人ってみんなそう言いますよね。ミーにはまだわかりません」
「だろうな。けど、それでいいんだよ、多分。…暗くなってきたな」
「はい」
「日が落ちるのが大分遅くなって、もうすぐ春だな。お前も今年で卒業か」
「どうにか、そうなれそうですね。どうでしたかミーは。それなりに問題児でしたか」
「それなりにな。けど、漫画持ってきたりたまに学校サボるくらい全然かわいいもんだよ。補導されたり親がうるさかったりするのが一番厄介なんだよな」
「ミー、センセイが担任じゃなきゃもっとちゃんも優等生してました」
「俺のせいかよ」
「だって問題起こしたら朝礼と世界史の授業以外にも、個人面談とかで話せる機会があるじゃないですか」
「あー…そういうことか」
「はい。まあ、もういいんですけどね」
「そっか」
「はい」
沈黙
「…だったら、俺が顧問やってるバスケ部とか入ればよかったのに」
「それとこれとは別問題ですよ」
「そっか」
沈黙
「…なあ、今から駅まで引き返してさ、電車乗ろうぜ」
「え?」
「鈍行で、隣県の温泉街行こう。もっと外れたことろでもいいし」
「何言ってるんですかセンセイ」
「嫌か?それとも明日なんか用事あるか?」
「いや、ないですけど、明日も学校あるじゃないですか。というかそれ以前の、倫理とか、その辺どうなんですか」
「そういうの、もうどうでもいい良いから…だから、駆け落ちしようぜ」
「は?」
「田舎の方とか行ったら、住み込みで雇ってる旅館とかあんじゃん、ああいうところで働いてさ、もう誰も俺たちのこと知らない遠くでさ、二人で…」
「そうしようぜフラン、なあ…」
「センセイ…何言ってるんですか」
「ミーには未来がありますから。ミーはまだ何にだってなれます。ミーは自由なんです。こんなところでいなくなるわけ、ないじゃないですか」
「センセイはこれからも今日と同じ明日を送るんですよ。生徒より早く登校してずっと遅くまで仕事して、何時間も立って喋って授業して、学校に来てやってるみたいな顔した生徒の世話して、不合理な指導要領のために時間割いて、訳わかんない部活の練習試合で休日潰して、頭のおかしいPTAの相手して、ずっとそうやって、過ごすんですよ。ねえ」
「あ、ああ」
「ああああああ…」
絶望の悲鳴を吐き出すと、センセイはその場に崩れ落ちた。ビニール傘が地面を跳ねて、内側を雨に晒した。
グレーのスーツはみるみるうちに雨水を吸い込んで、蠢く黒いコートは悲しい泣き声を発して震えていなければ、もはや人間というよりもモノに近かった。
センセイ、風邪ひいちゃいますよ。
なんて声をかけてももう、聞こえていないのだろう。鈍色に霞んだ街の片隅で、歩道のど真ん中で、ミーはセンセイがセンセイじゃなくなってゆく様を見つめる。傘を叩きつける雨音は、お前も早くこうなってしまえばいいのに、と言っているみたいだった。
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