複雑な夏に赤を感じる
ああ、蝉が五月蝿い。
愛しの夏休みに入ったと思ったら、忌々しい夏期課外というやつに捕らえられ、やっとのことで抜け出し、いざ部活に打ち込もうと思いきや、間抜けな顧問の出張のせいで休みになってしまった七月某日。部活の奴らと遊びに行こうか、という考えは大量の課題の存在によってすぐにかき消された。
「なんか、やる気出ねえな」
その言葉が一人部屋に虚しく響く。今、俺はベッドの上でごろ寝をしている状況だ。遊びに行くのを諦め、課題に手をつけ始めたが、ものの十分で嫌になってしまい、勉強机の上には開きっぱなしの英語のワークと電子辞書が放置してある。
本当は、ごろ寝をする余裕はない。大量の課題もその原因の一つだが、他にも色々とあるのだ。高校二年生ともなると部活を引っ張っていかないといけないので、部活の時間に集中するためにも時間を有意義に使わなければならない。それに、八月に入ったらオープンキャンパスにも行かないといけない。(実を言うと、オープンキャンパスに行き、レポートを書くのも課題の一つなのだ。)
来年苦しまないようにするため、行きたい大学のため、なりたい職業のため、今、時間を無駄に使うわけにはいかない。
――それは分かっているのだけれど、それを実行できない自分がいる。一日に何回も、ぼーっとしてしまう。
大人たちは言った、何を考えるでもなく無駄に時間を過ごすな、学生なら取り敢えず勉学に励め、と。
でも、俺はその言葉に賛同できない。
「……俺たちだって、色々考えてんだよ」
最近、ぼーっとしながら思うのだ、怖い、と。
このまま、大人になってしまうのか。もう、後戻りは出来ないのか。
小学生のときの文集で書いた将来の夢は、本当に『夢』そのもので。中学生のときも同じようなものだった。でも、高校一年生の六月に配られた進路調査表に記入した『希望する職業』は、『夢』だとはっきり言えない気がする。
二十歳になって、いきなり大人になるわけではない。少しずつ、一歩一歩進むことで大人になる。そんなことは疾うに理解していたはずなのに。
目の前に敷かれたレールはたった一本で後戻りはできない、立ち止まることもできない。ぼやけてはいるが、先の風景も見えてしまっている。そんなふうに思えるのだ。
「……まだ、進みたくない」
一人で呟いてみることはあっても、他の誰かに言ったことはないその言葉。
同じようなことを考えている人はいるのだろうか、口に出した人はいるのだろうか。
そんなことを考えていると、必ず思い浮かべる名前がある。
――『前田 康宏』
一年のとき同じクラスで、演劇部に所属していた。明るいわけでもなく、暗いわけでもなかったが、頭が良かったのは覚えている。学年でだいたい十番以内だった。――そして、実は――同じマンションに住んでいる。彼は二階で、俺は六階。
普通、家が近いと仲良くなることが多いのだが、彼とそうなることはなかった。俺はバスケ部に所属していて、(自分で言うのもなんだが)かなり明るいほうで、彼とあまり共通点がなかったせいなのかもしれない。
時には、一緒に行動したし、クラス自体が仲良しクラスだったので、話したこともある。しかし、同じクラスで生活していた中で、彼と俺だけのこれといった思い出が無いことも事実だ。
彼のことを深く印象づけたのは、二年生になったばかりのとき。それは彼から掛けられた言葉でも俺から彼に掛けた言葉でもなく、俺がよく一緒にいた友人から俺に向けた言葉だ。
『なあ、松田。前田が学校辞めたって知ってた?』
――彼は、前田は、学校を辞めてしまっていた。
確かに、一年の終わり頃から、出席率が悪くなっていた。彼の友人聞いた話では、その頃から、進路やその他色々なことで悩んでいたように見えたらしい。
――彼が本当に進路に悩んでいたのかどうか、俺は知らない。しかし、もし、本当にそうだったのなら、今の俺の気持ちを分かってくれるだろうか。そうならば、是非とも会って話したい。
彼のメールアドレスは知らないが、部屋番号はうっすらと記憶にある。インターフォンを押して、呼び出してみようか。いや、彼が外出するときに呼び止めることもできる。
「……何を考えてんだ、俺は」
ぱっと視界がクリアになり、自分が覚醒したことが分かった。
本当に何を考えていたんだろう。彼に相談して、どうなるんだ。俺は一回も高校を辞めたいというはっきりとした意思を持ったことなどないのに。第一に彼にとって、辞めた高校の同級生というのはどういう存在なのか分からないが、もしかしたら、嫌な存在かもしれない。
「まあ、気分転換にコンビニでも行くか」
きっと、このままだとまたぼーっと取り留めもない考えに浸ってしまうだろう。そんな気がしたので、気分転換をすることにした。
自転車の鍵と財布とケータイを持って、外に出る。
「ぬ、ぬるいな……」
もわっとした風が顔に当たり、クーラーの有り難みを思い知った。それでも、太陽光を浴びるだけで気分転換になるし、コンビニで冷えた炭酸でも買えば、スカッとする、そう自分に言い聞かせて、駐輪場へと向かう。
「あ、熱っ!」
何気なく自転車に触れば、それは熱せられていて、危うく火傷をするところだった。
辛うじて握れるグリップを握り、気分転換にも危険が潜んでいるのか、なんて思いつつ、自転車をおす。
そこに、後ろからスーッと風が吹いた。ぬるい空気とは全く異質の爽やかな風だ。
涼しさを楽しみつつ、風が吹いてきた方向を振り返った。そこに何があると期待したわけでもない、ただ、何となくだった。
「……ま、えだ……?」
そこには一人の少年の後ろ姿が夏の暑さに紛れてぼんやりとあった。それが、俺には前田に思えてならなかった。いや、そうに違いないという確信が生まれた。
「……」
呼び止めようと思ったのか、俺は自転車をおすのを止めて、その後ろ姿に焦点を合わせた。彼は、ゆっくりと向こうへ行ってしまう。それを見て、俺は口を開いた。
――しかし、声を出すことはなかった。傍目から見れば、間抜けな恰好で、ただただ彼を見つめた。
何秒間だっただろう。気が済んだ俺は、また前を向き自転車をおし始めた。
何故、声を出さなかったのか、俺自身でさえ分からない。彼の気持ちを考えてのことではなかったし、自分の迷いのせいでもなかった。
ただ、今はっきりと分かるのは、この夏休みに、何回も彼のことを思うだろうということだけだ。
もしかしたら、いつか彼に声を掛けるかもしれないが、それは分からないのだ。
いつまでも自転車をおしているわけにもいかないので、さっと乗った。当たり前のように尻に暑さを感じたが、火傷はしない程度だった。
ペダルを踏むと、ぬるい空気が少し、涼しく感じられた。空は夏模様で、すがすがしい。そして、また思うのだ。
ああ、蝉が五月蝿い。
【END】
あとがき
ウロコボーイズ様四周年記念ノベコンに提出した作品です。
タイトルの『赤』ですが、陰陽五行説では夏を色で赤に見立てるところから来ています。(聞きかじっただけの知識ですが)
そして彼、松田のこの夏は様々な色で塗られていくはずなのに、どことなく赤を感じる、そんなところからタイトル全体が出来ました。
……いや、皆様にそう感じさせる自信はないんですけどね! そうなんだ、と思って頂ければ幸いです。
最後まで読んで下さって本当に有難うございます。
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