竜の右目4

 道場に戻り綱元が影綱の手当てを始めても、俺は影綱から離れなかった。皆の前で弱さを晒し、恥ずかしい思いをした。けれど、父の言葉は俺の甘えを許す物だったから。
 甘えても良いのだ、影綱には。影綱にだけは。

「終わったぞ」

「ありがとう、兄上。申し訳ないが、少し席を外して下され」

「…ああ」

 綱元は何か言いたげに此方を見たが、何も言わずに出て行った。それを見送った影綱が、無言で俺の頭を撫で始める。
 何度も頭を撫でて、もう片方の手で背中を擦り始めた。俺が泣き止むのを待っているのだと気付き、そっと顔を上げる。影綱が手当てを受けている間に、涙は止まっていた。

「梵天丸様が、あのような人が多い所に自ら出られるとは…驚きました。影綱を心配して下さったので?」

「お前が、怪我をしたと聞こえたから…」

「輝宗様をお守りして出来た、名誉の負傷です。痕は残るやも知れませぬが、大した物では御座いません」

 俺を安心させるように笑顔を見せる影綱は、布で覆われた左頬以外いつも通りだった。それが嬉しくて、もう一度強く抱き付いた。

「お前は、生きてないといけないんだぞ。俺に心を許させた責任を取れ」

 俺を置いて死ぬなんて許さない。主を守って死ぬなんて許さない。主を守って生き残れ。今は父上を、いつかは俺を。
 そう伝えると影綱は驚いた顔をしたが、直ぐ笑みに変わった。

「承知致しました」

 どこか嬉しそうな影綱の声を聞き、初めて家督を継ぎたいと思った。父は昔から俺に家督をと言っているが、俺自身は全く興味が無かった。これ以上母に嫌われたくなくて、母の望み通り竺丸が継げばいいとさえ思っていた。
 けれど今、初めて。家督を継ぎたい、継ごうと思った。影綱が父の次に守る主は竺丸でなく、俺でなければ嫌だ。そんな、自分でもよく解らない理由で決意した。

「梵天丸!!」

 いきなり耳に入ってきたのは、道場では初めて聞く母の声。こんなに大きな声で呼ばれた事は無く、驚きに肩がびくっと跳ねた。思わず影綱にしがみつく。
 道場の入り口に母と、母を止めようとする喜多が立っていた。あ、まずい。そう思っても、時間は戻ってくれなくて。

「何をしているの、お前は」

「は、母上…」

「情けない。それでも私の子なの?少しは竺丸を見習いなさい!」

 慌てて小十郎の膝から降りて濡れた頬を拭ったが、足早に近付いてきた母にぱしんと左頬を打たれた。じんじんと痛む頬を押さえ、信じられないという目で母を見る。
 母が手を上げた時点で、打たれるという事は解っていた。視覚では認識していたのに、思考が理解せず避けられなかった。
 いつも母が人に話しているのを聞くだけで、こんなに真っ直ぐ否定された事は無かった。母の美しい顔が憎悪に歪んでいる。がくがくと足が震えて、少しでも気を抜けば座り込んでしまいそうだ。

「義姫様、何という事を…っ」

「影綱、いけません!」

 呆然と見詰めていた影綱が立ち上がり、母に近付くのを喜多が必死に止めている。そうだ、いけない。家臣のお前が、主の正室にそんな顔を向けては。
 喜びも、悲しみも。こんな時でも分け合おうとする影綱に、嬉しくてまた涙腺が弛みそうになる。
 しかし、母に見られた。それは俺にとって、とても恐ろしい事で。先刻したばかりの決意を、覆してしまえるほど。

「ご、ごめんなさい!ごめんなさ…申し訳ありません、母上、申し訳ありません…っ」

 勢い良く頭を下げ、震える声で何度も謝った。
 本当は、その綺麗な着物に縋り付いて、見捨てないでと泣いてしまいたい。もう、とっくに見捨てられている。解っているのに、何故こんなに怖いのだろう。自分にとって母の存在が大きく絶対なのは、何故なのだろう。
 何で諦められない。何で期待してしまう。何故まだ、愛される可能性があるなどと夢を見てしまうのか。

「義姫様、此処は貴方様がいらっしゃるような所では御座いません。どうか母屋へお戻り下さい」

 いつの間にか戻ってきていた綱元の言葉に従い、母は俺を一瞥すると道場を出て行った。
 影綱が俺に駆け寄り、懐からいつもの手拭いを取り出す。泣いてはいないが、酷く汗を掻いていた俺の顔を拭った。喜多と綱元は黙って、此方をじっと見詰めている。

「…梵天丸様」

「もう…泣かない」

 影綱と俺が口を開いたのは、殆んど同時だった。

「だから、お前も要らない」

 影綱が居たら、きっとまた泣いてしまう。また母に嫌われてしまう。
 母上、母上、母上。愚かな人だと、酷い人だと知っているのに、愛されたいという思いが消えない。どうしたらまた抱き締めて貰えるのか、どうしたらまた頭を撫でて貰えるのか、そんな事ばかり考えてしまう。
 抱き締めて、頭を撫でて。結局俺は、影綱を母の代わりにしていたのかも知れない。

「梵天丸様、今…何を考えておられますか」

「…お前にも、悪い事をしたと。俺が弱いから、いけないんだ。母上の代わりに、お前に依存した」

「梵天丸様」

「愛されたいなんて…願ってはいけないんだ、誰にも」

「梵天丸様」

「お前は俺を弱くする。だから、俺の前から…」

 消えてくれ、と言おうとした口を大きな手に塞がれた。
 ぐんと体が宙に浮き、少しして影綱に抱えられたのだと気付いた。喜多と綱元の驚いた顔が目に入り、直ぐに消えた。馬に乗せられた時のように、景色が流れていく。

「お、おい、影綱?」

 名を呼んでも応えて貰えず、やっと降ろされたと思ったら、目を丸くした侍医が目の前に居た。
 よく見れば此処は毎朝来る部屋で、影綱が何をしたいのか解らず首を傾げる。俺を離した影綱は、侍医の後ろにある棚を漁っていた。

「影綱殿、何を…っ」

 いつも温厚な侍医の、珍しく焦った声。振り返って近付いてきた影綱の手には、鋭く光る物が握られていた。それが見えたのは一瞬で、空いた手で左目を覆われる。
 何も見えない中、右目を隠した包帯が解かれるのを感じた。俺が許さない限り影綱は見ないと思っていた右目が、その手で暴かれる。

「やめろっ、影綱!」

「義姫様を代表に、この目を醜いと言う人もおりましょう」

「見るな、見るな、見るなっ」

「しかし、この影綱は何とも思いませぬ。それは梵天丸様も解っておられた筈」

「影綱、頼むから…!」

「けれど貴方は、自ら包帯を解いては下さらなかった」

 どんなに嫌がって暴れても、影綱は手を離してくれない。
 影綱が言っている事は、ちゃんと理解している。だが、それでも見られたくない。それはきっと、俺自身も醜いと思っているから。
 こんな右目、無ければいいと。

「貴方を弱くしているのは、人を恋う心ではなく、その右目です」

 視界は真っ暗なまま、右目に今まで感じた事のない鋭い痛みが走る。初めて聞く侍医の怒鳴り声と、自分の獣のような悲鳴が不思議と遠く聞こえる。
 激しい痛みに気を失う直前、右目からずるりと何かが出て行った。



 それから半月ほど、俺は朦朧とした日々を送った。
 右目の痛みに高熱を出したらしく、ずっと魘されていた。薄っすら目を開けると喜多か侍医が居る事が殆んどで、時には父や綱元も居た。意識がはっきりしない中、影綱の姿が見えない事を酷く不安に思った。

「…か…げつ…な…」

 影綱はどうしたのかと、そう尋ねたかったのに、名前を繰り返す事しか出来なかった。
 喜多の表情までは解らなかったが、まるで影綱の代わりのように俺の手を握ってくれた。けれど代わりという事は、影綱が此処に居ない事を益々実感させ、俺の不安は大きくなった。

「影綱は…どう、したんだ」

 やっとそう口に出来た時、喜多は辛そうに顔を歪めた。意識は大分はっきりしたが、右目の痛みは治まっていない。
 無言で首を横に振る喜多を見て、自分で確かめようと立ち上がろうとしたが、力が入らず倒れそうになる。喜多が伸ばした腕に抱き止められ、久し振りの温もりに喜ぶ前に、女の手で支えられる己の小ささを実感した。

「喜多、影綱は…影綱は何処に…」

「梵天丸様、まだお休みになって下さい」

「影綱は座敷牢に入っております」

 喜多の代わりに俺の問いに答えたのは、たった今部屋に入ってきた綱元だった。
 その言葉に目を見開き詰め寄ろうとするが、やはり体は思い通りにならず喜多の腕の中から動かない。綱元は此方をじっと見ているが、近寄るでもなく話し続けた。

「彼奴は梵天丸様に刃を向けた所か、右目に短刀を突き立て、眼球を抉り抜いたのです。覚えておられませぬか」

「眼球を…?あの時、左目は影綱が覆ってて…何も見えなかった。何で牢なんかに…」

「その場で打ち首にされなかった事が異常なのです」

「打ち首!?」

 家臣が嫡男に刃を立てたのだ、それで打ち首にならないのは確かに異常だろう。しかし影綱が打ち首になるなど思いもしなかった俺は、つい大声を出していた。
 影綱は、俺の右目を抉り抜いた。俺の劣等感の根源を取り去ってくれた。影綱はまた、俺の願いを叶えてくれただけなのに。

「影綱に…影綱に会わせてくれ」

「なりませぬ。彼奴は今、罪人として扱われておりますので」

「罪人?違う、影綱は…っ」

「影綱の処分については輝宗様方が話し合われております故、近い内に沙汰がありましょう。梵天丸様は、今はまだ休まれて下さい」

 綱元は言いたい事だけ言って立ち去った。血の繋がりは無くとも弟だろう、他に言う事は無いのかと責めたくなったが、俺を支える喜多の手が震えている事に気付いて止めた。
 何も思わぬ筈がない、言いたい事は沢山あるだろう。それでも思いを口にしないのは家臣だからか、父を信じているからか。
 影綱は父のお気に入りでもある。影綱が俺に刃を立てた、その事実だけを見ている訳はない。それでも、俺は黙っていられない。
 だって、影綱は、俺の為に。

「梵天丸、目が覚めたそうだな」

 綱元と入れ替わりにやって来たのは、父だった。綱元から聞いたのだろう、俺に近寄り良かった良かったと笑顔を見せる。
 喜多は素早く俺を布団に寝かせ、父に座布団を用意した。父がその上に座ったのを見て、再び上体を起こそうとする。支えようとした喜多の手を柔らかく拒み、布団の上で正座した。

「父上、影綱を牢から出して下さい」

「お前の頼みでも、それは出来ぬ。今牢から出せば、影綱は腹を切ろうとするだろう」

「切腹?何で…」

「梵天丸、影綱が要らなくなったというのは真か?」

 甘える相手を無くし、これから生きて行けるのか。一生誰にも甘えず、張り詰め磨り減った心で当主が務まると思っているのか。
 そう尋ねられ、迷う事なく否と答えた。情けないなどとは思わない。認めてしまえば楽だ。

「父上、俺には影綱が必要です。今回の事も、影綱は俺の願いを叶えただけ。罪人などではありません」

「しかし影綱は己の独断と言い、俺が顔を見せれば土下座して動かず、腹を切らせてくれるよう頼んでくるのだ」

「そのような真似は許さぬと、俺が直接言いましょう。影綱に会わせて下さい」

 真っ直ぐ父を見て話す。こんな風に向き合って話すのは、初めてかも知れない。父の話を聞く為に向き合って座る事はあったが、自分の気持ちをこんなに真っ直ぐ伝えた事はなかった。心が向き合っていると感じる。
 父はじっと俺の目を見詰め、俺が目を逸らさずにいると満足そうに頷いた。それでこそ我が息子、と呟いたのが聞こえた。

「お前はまだ本調子ではなかろう。俺から伝えておく」

 座っているのも辛く、震え始めた体を気付かれたらしい。父は微かに笑い、部屋を出て行った。
 父も、影綱の事をよく解っている。きっと大丈夫だと、そう思わせる態度に安心した。俺が動けるようになれば、その傍らには影綱が居るのだろうと、そう思っていた。


next

top



第3回BLove小説漫画コンテスト開催中
無料HPエムペ!