竜の右目2

 翌朝、影綱が部屋を出て行く気配で目が覚めた。障子越しに見た外は薄暗く、そろそろ夜が明けそうだ。
 昨夜は影綱の腕の中で、いつの間にか眠ってしまったらしい。抱っこされて泣き疲れて眠るなんて、まだまだ子供なのだと実感させられて悔しい。
 布団に寝かされた体は温かく、つい先刻まで抱き締められていた感触が残っている。左目には小さく畳まれた、濡れた手拭いが乗せられていた。俺の目が腫れぬよう影綱が用意してくれたのだろう、触れるとひんやり冷たかった。
 右目を覆った包帯は緩んで解けかけていたが、綺麗に巻き直されてない事で、醜く変形した右目を影綱に見られていないのだと解った。あいつは、俺の許しが無ければ見ようとしないのだろう。本当に受け入れて貰いたければ、自ら包帯を解かねばならぬのだ。
 けれど、そんな日が来てはならない。俺は、伊達の嫡男なのだから。

「…馬鹿」

 影綱の馬鹿。
 一時の優しさなんて、与えて欲しくなかった。永遠には手に入らない温もりなど、知りたくなかった。どんなに心地好くとも、後には空しさしか残らない。解っていた筈なのに結局甘えてしまった、己の未熟さを悔やむ。
 影綱は何も悪くないのだと心を落ち着かせ、溜め息を吐いて目を閉じた。喜多が起こしに来るまで、まだ時間がある。もう一眠りしておこう。



「梵天丸様、お目覚めで御座いますか?」

「うん…」

 喜多に声を掛けられ、目を擦りながら起き上がる。思ったより深く眠っていたらしく、甘えたような声が出た。
 口元を隠して小さく笑う喜多は、影綱とは少しも似ていない。男と女では違うのだし、俺も弟と似ていると言われた事などないけれど。

「さあ、お着替えを…」

 俺の寝間着に手を掛けた喜多は、何かを見付けて手を止めた。何だろうと首を傾げると、緩んだ着物の裾からぽとりと何かが落ちた。
 眠っている間に入り込んだのだろう、小さく畳まれた手拭い。影綱が、俺の目を冷やす為に用意してくれた物。
 寝起きでぼーっとした頭がやっとその存在を理解したと同時に、ばっと拾い上げて後ろに隠した。

「ち、違うぞ。あ、いや、今のは…な、何でもないんだ」

「ご安心を。梵天丸様が秘密になさりたい事ならば、喜多は他言など致しません」

 人差し指を唇の前に当てて微笑む喜多は、今にも頭を撫でてきそうだ。
 俺がもう子供ではないのだと喜多の腕を拒んでから、喜多は俺に手を差し伸べなくなった。喜多は影綱とは違う。大人だから、ちゃんと俺を甘やかさないように徹底している。
 俺は自分から拒んでおきながら、まだその腕に抱き締められたいと、頭を撫でて欲しいと思ってしまう。それを解っていて、喜多も自分を抑えているのだろう。俺を立派な大人にする為に。

「それは喜多がお預かりしても宜しいですか?」

「え、ええと…」

「洗ってお返ししますので」

「ん…、頼む」

 手拭いは影綱の物だ。まだ幼い俺は、自分の物を自分で管理していない。きっと影綱も、たった一枚の手拭いに拘りなど無いだろう。だが何故か、ちゃんと返さねばと思った。
 喜多は俺の着替えを手伝い布団を片付け、侍医の所に連れていくと去っていった。影綱が用意してくれた手拭いが喜多の手にあると、まるで昨夜の事を見られていたかのように恥ずかしい。喜多には大体解っているかも知れないが、昨夜の事は影綱との秘密だ。

「包帯が乱れておりますな。昨夜は寝苦しかったようで」

「まあ…な」

 侍医に包帯を解きながら言われ、曖昧に頷いた。本当は影綱の胸に顔を押し付けて泣いていたからだが、それを知られる訳にはいかない。
 俺は毎朝侍医の所に来て、包帯を替えて貰う。顔を洗うのもこの時だ。風呂に入る時は、脱衣場に控えさせておく。
 乳母である喜多にも、右目は見せられない。いや、見られたくない。喜多に少しでも拒絶の色を見せられたら、きっと立ち直れないだろうから。



 朝餉を済ませ、午前中は宗乙から仏教や漢字を学んだ。父が招いた者は他にも居たが、宗乙以外は気に入らず追い出した。ちらちら右目を気にしたり、媚びへつらう奴からは学びたくない。
 昼餉を済ませると、午後は剣の稽古だ。袴に着替えて道場に行くと、父と影綱が居て吃驚した。

「何で影綱が…」

 昨夜の事が知られたのかと、青ざめ震えそうになる。
 俺が影綱に甘えてしまった事を知っても、父は叱咤などしないだろう。家督に興味はないが、俺に家督を継がせたがっている父に弱い子供だと思われ、失望されたくない。

「梵天丸、今日から影綱も稽古に付き合う事となった」

「至らぬ点もあると思いますが、宜しくお願い致します」

 父に言われ深く頭を下げた影綱を、俺は呆然と見詰めた。昨夜の事が知られた訳ではないようだが、何故いきなり。
 影綱が剣を扱える事も知らなかった俺の頭は疑問だらけで、それが顔にも出ていたのだろう。父がくすりと笑って説明を始めた。

「影綱は剣術にも長けていて、以前からお前の剣術指南を務めさせたいと思っていたのだ。そうしたら今朝、影綱の方から役目を増やして欲しいと申し出があってな」

「そうなのですか…」

「俺は今日は付き合ってやれぬが、影綱にしっかり指南して貰うのだぞ」

「はい、父上」

 父が道場から出ていくのを待って、影綱に向き直る。影綱は竹刀を二本用意していたので、片方を受け取りながら問いかけた。
 何故いきなり、役目を増やして欲しいなどと言い出したのか。

「どういう事だ」

 短い言葉を吐いた声は思ったより冷たく、先刻の焦りが残っていた。影綱を責めたい訳ではないのに。
 影綱は一瞬はっとなったが、直ぐに深々と頭を下げた。

「少しでも、貴方のお側に置いて頂きたく…畑に使う時間を減らそうと」

「そう父上に?」

「いえ、お役目を増やして頂けるようにとだけで。このような大役を仰せつかるとは、予想外で御座いました」

「そうか…」

 父上も、影綱が俺のお気に入りだったと知っている。疱瘡に罹ってから気難しくなっている俺の指南役に影綱を選ぶのは、当然と言えば当然かも知れない。今更という疑問も、影綱から言い出したという事で無くなる。
 しかし、解らないのは影綱だ。大事な畑を投げ出してまで、俺の側に置いて欲しいなんて。

「梵天丸様が塞ぎ込んでおられる事は存じておりましたが、それはご病気の所為で…時間が解決する物と思っておりました。梵天丸様が望むまま距離を置き、今は待とうと」

 探るような視線に耐えきれなくなったのか、影綱から話し始めた。

「しかし昨夜、貴方のまだ幼い顔が悲しみに歪むのを見て…やっと己の間違いに気付いたのです」

「間違い?」

「梵天丸様、それは時間が解決する物ではありません。貴方の心にしか解決出来ぬ物です」

「俺の心…?」

「僭越ながら、影綱はそのお手伝いをさせて頂きたいのです」

 影綱の言ってる事は、俺にはさっぱり解らなかった。
 俺が塞ぎ込んでいる事は、俺の心にしか解決出来ない。つまり、俺の心が弱いからだと言いたいのだろうか。だがそれだと、影綱が何を手伝うのか解らない。

「頭で考えてしまう内は、無理かも知れませぬ」

 首を傾げていた俺に苦笑して、影綱はぽんと俺の頭に手を置いた。それはあまりに自然で、一瞬の事だったので反応出来なかった。
 疱瘡に罹る前は自分から負んぶや抱っこを強請っていたというのに、今では不意打ちでしか触れる事を許せない。それで喜んでいる自分が嫌になった。

「さあ、お構え下さい」

 すっと竹刀を構えた影綱は、やけに様になっていた。
 普段は父の小姓と畑仕事で忙しいだろうに、いつ剣の修行などしていたのだろう。影綱は俺の事を全て知っていると言っても過言ではないのに、俺は影綱の事を殆ど知らないのだ。そう思うと、何だか胸がもやもやとした。

「梵天丸様?」

「あ、ああ」

 影綱に呼び掛けられて、俺も竹刀を構える。竹刀とはいえ、影綱に刀を向けるなんて変な気持ちだ。
 父は俺の指南役に影綱をと言ったが、影綱だってまだ十六歳だ。俺と共に、これからも成長するだろう。という事は、影綱が武士として戦場に赴くようにもなるかも知れない。俺の頭を撫でた大きな手を、血で染める日が来るかも知れない。
 俺だって、いつかは戦に参加するのに。影綱が、というのは何故か嫌だと思った。


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