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月の残り香
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 瞳から生き生きとした光が消え、ぐったりと力無く身体を横たえたままのラジエルに、ベルゼブブは既に興味を失くしたかに見えた。

 勿論喜んで抱かれたわけではない。瞳を抉られるのとこの男に組み敷かれるのと、どちらも己にとっては同じだ。
 大事なものを歪んだ楽しみのために奪われた事に代わりない。

 激しく抵抗したため幾度となく打ち据えられ、美しい羽根も周囲に飛び散っている。
 大人しくしていれば幾分かマシになるのはわかっていても、凌辱が間接的にミカエルを傷つけるなら最後まで抵抗したかった。

 無駄な抵抗だと承知していたが。

 しかしそれすらもベルゼブブの楽しみを増しただけらしく、力尽きその抵抗が止むまで、深紫の瞳から残忍な狂喜の色は消える事はなかった。

 不思議な事に顔には一切手を挙げられなかった。何故だかは……もう…どうでもいい。



 ただ、もしこの先にチャンスがあるのなら、例えミカエルに蔑みの目で見られても、例えもう傍に居る事が許されなくても、それでもこの危機を己は知らせねばならない。



 痛む身体をどうにか起こしゆるゆると立ち上がり、乱れた羽根を整える。

「案外悪くなかったぜ?そんな辛気臭えツラすんなよ。それになぁ、これで終わりだとでも思ってんのか?」

 自分を好く思わない相手を捩じ伏せるのは快感だとベルゼブブは嗤って言う。
 しかしその後に告げられた台詞にビクリと肩を震わせる。


「お前は俺とこれから宮殿へ行くんだよ。本当のお楽しみは其処にある。見せてやるよ。一緒に楽しもうぜ?」

 だから端から瞳を奪うつもりもあそこで殺すつもりもなかったのだ。お前もとことん馬鹿な奴だと。

 敢えて考える事を後回しにしている心の亀裂はまた広がった。


   *****


 時間の感覚は既にないが、もう夕刻なのだろう。

 宮殿の周りには松明が幾つも並び、にぎやかな天使達の笑い声が聞こえてくる。
 その中にどう見ても中央にいるはずの天使がちらほら居るのを見つけラジエルはあっと声を漏らした。


「気が付いたか?流石だな」

 その声を聞き逃さずベルゼブブは薄く笑ってラジエルを振り返る。

「俺がそちらさんに通っていたのは、そう。これが目的でね」

「…どういう事だ」

「活きのいい天使達は少しでも多い方がいい。まあ見てな。そろそろ宴の始まりだ」

 (…宴……?活きの良い天使を中央から集めた?)


「ほら、よく見てろよ、銀時だ」

 宮殿の入り口を嬉しそうに指差したベルゼブブのその指の先には、颯爽と12枚の羽根を靡かせた真剣な表情のルシフェルが見えた。

 神々しいほどのその姿は、いつもと変わらず見るものを惹きつけてやまない。威風堂々。まさにその言葉そのものだ。
 独特の銀髪は松明の炎と宮殿の灯りで、海に映る月のようにも、朝日をあびた新雪のようにも見える。

 しかし、とラジエルは思う。

 祝いの席には似つかわしくない金剛石と黄金の武具を身につけているではないか。あの紅玉の煌めきも心なしか暗い焔を帯びていないか?



「…何故?…ルシフェル、様?」

 ルシフェルの姿が現れた途端に、集まった天使達は大きな歓声をあげる。
 その重なる声はまるで地面を揺らす波のようで、ラジエルは思わずよろけそうになる。
 よくよく見ればルシフェルのように武具を身に纏い軍旗を掲げている天使達もいる事に気付く。
 歓声の中でもひと際大きなものは、彼等の鬨の声らしい。

その中で呟いたラジエルの声は、届くことなく塵のように消えていった。



「よく集まってくれたな、お前ら。これからお前らに大切な話がある」

 その声も姿も確かにルシフェルだが、違和感が拭えない。ベルゼブブのいうお楽しみとは何なのだ。このルシフェルの姿を見ろというのか?何のために?
 そして、一体何を話すというのか暁の明星は。



「いいか。俺達は天界が生まれて以来ずっと此処にいるわけだ。俺達は神の子であり誇り高い称号を持っている。確かに神の決めた事には逆らえねぇ。俺はずっとそう思ってたんだが、よくよく考えりゃそれはちいっと可笑しな事じゃねぇのか?」




 (…………っ!!)

 これ以上ないほどラジエルの顔から血の気が退いていく。ベルゼブブが言った敵陣とは、まさか本当にそういう事なのか?

「エデンしかり、摂政しかり、なんで俺らを差し置いて「ヒト」が選ばれなきゃなんねぇのかねぇ。百歩譲ってだな、それは良しとしようか?でもなんでまた、それを俺達が奉仕しなきゃなんねぇの?それっておかしくねぇか?「ヒト」は不変不動のモンじゃねぇんだろ?つまり俺達より劣る存在じゃねぇか。此処の住人にとって此処は自由なとこだ。そうだよな?俺も自由だと思ってた。ところがだ。ここんとこ考えてたんだけどよ、「ヒト」のための祭りと歌だけのために喜んで力使ってる俺達は、本当に自由か?それは怠惰と呼ぶんじゃねぇのか?一体何してるわけ?俺達の誇りを今こそ取り戻すべきじゃねぇの?」

 集まった天使達は奇声を上げながら喜んでいる。

 ルシフェルの魅力に囚われた大勢の天使達は、今のルシフェルの発言がどんな意味を持っているのか本当に理解しているのだろうか。

 全ての天使は神への篤き信頼を持ち続ける限り、その幸せな境遇を保っていられるのだ。それはベルゼブブやルシフェルのような高位の天使であれ、変わらない。

 どんな茶番なんだ、これは。これは神への叛逆に他ならない。
 そして仲間や友への、ミカエルへの裏切りだ。
 

 気がつくと言葉はひとりでに転がりだし、震え、掠れていた声はこの一瞬で力強いそれへと変貌した。


「お待ち下さい。権力においても名誉においても偉大な存在であるルシフェル様」

 目の前のベルゼブブは、つい先ほどまであれだけ痛めつけ、弱々しく翼を震わせていたラジエルがと驚いて目をみはっている。

 (此処で死んだって構うもんか!ちくしょう!ちくしょう!)

 ラジエルは残り僅かな霊力の全てを、その叡智漲る孔雀石に籠め、こみ上げる怒りで爛々と輝かせながらルシフェルを真っすぐに見た。

「!!!退か??何故おめぇが此処に…」

 そのルシフェルの言葉でその場にいる天界のおよそ3分の1に相当する天使達がラジエルを凝視する。
 その視線の数に一瞬怯む己を叱りつけ、ラジエルは表情を変えずルシフェルだけをみつめ話し出した。



「はい、俺です。ルシフェル様。いったいどうしちゃったんです、ルシフェル様?まあ、俺の言葉が通じるくらいなら、そもそもミカエル様を悩ますような事はなさらないはずですよね?」

「おい!退!お前いい加減にしとけ!」

 ベルゼブブが慌てて押さえつけようとしたが、ラジエルは邪魔だというように手を払う。
 その瞬間明らかな殺気が流れた。しかし流石に殴りつけるわけにもいかないと思ったのか鋭い眼差しでラジエルを睨むだけだ。

「お前にその名は呼ばれたくない!」

 ラジエルは吐き捨てるようにベルゼブブに言うと、すぐにまたルシフェルに向き直る。


「ミカエル様がどんな想いで心配されておられるか、わからない貴方ではないでしょう?あんなに愛しておられたじゃないですか。あんなに愛されていたじゃないですか。それこそが神の祝福に他ならない。あのような愛情を互いに持てる事が既に選ばれた天使なんじゃないんですか?エデン?摂政?そんなものへの歪んだ想いで、与えられた祝福を無にするおつもりですか?」

 この願いが届くようにと、ラジエルは気持ちを込めて訴えた。



「……言いてぇのはそれだけか?」

 しかし、かつてあれほど温かかった包み込むような紅石の瞳は、全ての感情を失くした紅く光るただの石のようだ。

 それだけでしくりと心が痛む。それと同時にブオンと音がするような周囲からの殺気をラジエルは感じた。


「いいえ。それだけではありません。貴方は奉仕と申されました。隷属とは今貴方の部下となってるこの者達が貴方に仕えているように、愚かな者に仕える事。あるいは、自分よりも価値の高い者に叛逆した者に仕えるということです。ルシフェル様。貴方は今、貴方自身、自由の身どころかご自身の奴隷になっているのではないですか?」

 ルシフェルの冷たい双眸で、己の中の何かが急速に冷えて行くのを感じながらも、ラジエルははっきりそう言った。

 ルシフェルの瞳に確かに何かが過ぎったような気がしたが、すぐにそれは消え失せ他人を見るような一瞥をラジエルに向けた。

「ラジエルはこの宴が気に入らねぇらしい。お前らはどうだ?気に入ったか?」

 殺気立つ天使達はうおーと拳を振り上げルシフェル様こそ天使の誇りと声高に叫んでいる。
 それをさも当然と言うように睥睨するルシフェル。



 …違う。この男はもう、大きな手で頭を撫でながら大丈夫と励ましてくれた男でも、ラファエルと馬鹿な言い合いをして笑い転げた男でも、ガブリエルと舞うように剣舞を見せてくれた男でも、…そしてミカエルに溢れんばかりの愛情を注いでいた男でもない。

 ベルゼブブが彼に何をしたのかは定かではないが、それだけはハッキリとした。信じたくはないが。

「ルシフェル様。俺達は神に自由に仕え、神を自由に愛するのです。愛するかどうかも俺達の意志です。でも貴方がされようとしている事は、不従順以外の何ものでもない」

 (この男に何を吹き込まれたんです?貴方はそんな方ではなかったはずです。俺は…ルシフェル様。貴方が大好きだったんですよ?)

 その言葉には憤りと悲しみが滲んでいた。



 応えのない冷たい空気の中そう告げたラジエルは、暁の輝ける子、彼を誘惑し叛逆を唆したベルゼブブ、そして今にも暴力に訴える気配を見せる大勢の天使達の中で、一切の怖れを見せず、最後にルシフェルへ侮蔑の眼差しを投じると、傲慢なその宮殿に背をむけた。


 ―第二章・終 ―




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