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月の残り香
V


 戸惑いと不安を瞳に浮かべ、銀色の羽根を差し出したミカエルが何度も頭を過ぎる。

 ルシフェルと並ぶ時ミカエルは自然と伏し目がちになり、形の良い唇は柔らかく弧を描く事が多い。
 それはルシフェルとの公務で指揮をとり、天使達を動かす時もそう変わらないように思えてしまう。
 勿論、眼差しは厳しくなり、叱咤されようものなら震えあがる。
 纏め、指示し、号令をかける姿に躊躇いは一切ない。

 それでもそこに、双子の兄を迷いなく敬愛する姿が見えるのは己だけの幻想なのだろうか。

 しかしミカエル自身がルシフェルと遜色ないカリスマを放っている事は確かで、それは彼の外的魅力との相乗効果を生み、心酔している天使は少なくない。
 本人だけがそれをわかっていないような節があるが、そこがまた己のささやかな恋心を刺激するのだから、全く救いようがない。
 けれど、昨日のような貌は滅多に見た事はなかった。…滅多に?

 (見た事あったかな…俺…?)

 記憶を手繰るがそれが己の想像なのか現実だったのか。
 そのまま想像の世界に入るのは何故だかイケない気がして思考を無理やり切り替える。

 とにかくこの不可解な不安を取り除く事。ミカエルを包んだ鉛色の雲は、己の思考へも流れ込み、それは止めようもなく膨れ上がっている。今にも雷鳴を轟かせそうな勢いだ。
 が、出来る事ならこの手で暗雲を散らしてしまいたい。



 眼に映る容姿だけではなく、きっと心も美しい人だとずっと遠くから見ていた。
 たまにその姿が視界に入るだけで心があたたかくなるような気がしていた。
 だが初めて言葉を交わしたその瞬間に、己の心は根こそぎ奪われてしまった。

 他の天使達とは違い、ひらすら綴るのが天命である己は確かにその方面では疎いのだろうけれども。
 けれど傍らで惜しみなく愛情を表現するルシフェルを押し退け、その場を得る気はさらさらない。

 ただ自分は少しでも彼の役に立ちたくて。幸せな笑顔を近くで見ることの出来る許された者の一人でいたくて。

 (貴方はご存知なんでしょうか。ルシフェル様が途切れる事なく貴方の四阿に飾り、今や貴方の薫りとなっている梔子の花言葉……。


『 幸せを運ぶ・私は幸せ 』


 その幸せのためなら俺は何だって出来ますからね。待ってて下さい。)

 ラジエルはそう胸中で語りかけながら北に向かった。


   *****


 孔雀色の珍しい双眸は無難な茶色に、上級天使特有の新雪のような白い羽根は少しくすんだ色に変えてある。

「これだけで俺だとわからなくなるのも微妙なんだけどね」

 ラジエルは呟きながら苦笑する。 

 例えばルシフェルとミカエルが互いに瞳と髪の色を変えて、今の己と同じようにくすんだ羽根にしたとしても、どちらがどちらか周りはすぐにわかるだろう。



 ガブリエルが愛して止まない水仙の咲く岸辺の近くから鬱然たる樹蔭を創る森へ入る。
 この辺りは神殿から大分離れ、ガブリエルを訪ねるラファエルか、森林浴でもしようかと酔狂な考えに取り憑かれた天使くらいしかいない。
 最も今は天界全体がお祭り騒ぎのようで、中央か北にその殆どは居るわけだが。
 


「まあ、いいんだけどさ。これはこれで役に立つし」

 視線を相手に向けなければ印象に残りにくい己の容姿にも、それなりに使い道はあるんだと、声に出して言ってみる。


「何が役に立つんだい?」

「えっ??!」

 森の中をしばらく進み、すっかり一人だと思っていたので驚きながら振り返ると、年嵩の見馴れぬ天使が親しげに声を掛けてきた。

「アンタも北に行くんだろ?すげぇだろうな、ルシフェル様の宴は。一度見てみたかった」

 と豪快に笑う。

「ああ、うん、俺も行く。誰でも行っていいんだろ?」

 先ほどの問い掛けに応える必要はないらしい。

 そう吃驚するなと言いながら笑うこの天使は北へ行く道連れが欲しいのだろう。
 この森を北への道に選ぶとは随分変わっているなと思いつつも、どうやら自分と同じかそれに近い階級の天使と思われてるらしいと判断し、話を合わせそれとなく先を即す。
 
「そうなんだよな!こんな事は初めてじゃねぇかな。ミカエル様の祝典だって楽しみだけどよ?流石ルシフェル様は太っ腹だよな!私邸を解放なさるとは」

 ラジエルの返事を了解と受け取ったのか、人の好さそうなその天使は興奮気味に続けた。

 聞けば普段はこの森の外れで警備をしているらしいこの天使は、その後もしきりに宮殿がいかに素晴らしいか、ルシフェル様がいかに神々しいお方かを滔々と話し続けた。
 随分なルシフェルファンらしく今回の祝典は、お近づきになるチャンスとばかり飛びついたようだ。

「しかもよ、知ってるか?あの神出鬼没なベルゼブブ様も、北にいらっしゃるんだぜ。宴にも参加されるらしいぞ、すげぇよ!アンタ会った事あるかい?」
 

 北で一体どうやって動こうか。ルシフェル様にはすんなり会えるだろうか。
 会ったらまずミカエル様がどれほど心配なさっているかを話そう。羽根の事はどうやって切り出そうか…。
 それとも、幾人かの天使たちにそれとなく聞いてみるのが先か…。

 などと頭の中で考えて、連れの天使には、ああ、だのうん、だの適当に相槌をうっていたラジエルは、その名を聞いてハッと我に返る。
 
「…いや、ないなぁ。…で、あんたは北にいつから手伝いに行ってんだ?」

 それまでより、いくらかマシな返事をした後、ふと思いついた質問をしてみる。

「いつから?俺ぁルシフェル様が宮殿でもやるって言われた時から。最初っからだよ?今はよ、友達に声掛けに中央に戻った帰り!」

 ラジエルの質問を特に気にする様子も見せず、でも友達はミカエルファンが多くて空振りだったと笑う。

「でもなぁ、ベルゼブブ様お綺麗だよなぁ。すげぇんだよ!今まで俺ぁ、ルシフェル様とミカエル様っつー組み合わせしか考えた事もなかったけどよ?」
 
「…………」
 
「ベルゼブブ様とルシフェル様も、絵になるな!」

 何を想像してるのか、その天使はニヤニヤしながら先ほどの話しを続ける。 

「そうか?そんなにお綺麗なのか、ベルゼブブ様は」

 心の中に芽生えた尖った何かを必死で隠し、平静を保つ。そんなラジエルを少しみつめた後、その天使は言った。

「ああ、そりゃもう、お綺麗だぜぇ?ありゃあ、ルシフェル様もまんざらでもねぇんじゃねえかな?」

 (それはない。断じてない。あるわけがない。)

 此処では勿論情交も自由で、お互いがその気になれば誰と交わろうが問題はない。
 深い愛情ではなく友愛程度でも合意があればするし、互いが満足した後はじゃあまたなと別れ、後腐れがあるわけでもない。
 だからそれがルシフェルやミカエルであれ問題はない。

 ないのだがあの二人は違うのだ。そうではないのだ。
 しかもあのベルゼブブ?彼がどちらの相手になるとしても想像するだけで吐き気がする。

 しかしそれを絵になると言う相手に口にするわけにもいかず、ラジエルは苦い想いを堪えニッコリ笑ってみせた。

「もう着くぜ?初めてだろ?俺が案内してやるよ」

 此方の気も知らぬ噂好きの相手は歯を見せて笑いかけてくる。
 気付けばとっくに森を抜け宮殿が見えている。

 何度も来ているが荘厳で美しい。あの暖かな暖炉は最後に此処を訪れた時のようにオーロラのような炎を創りだしているだろうか。銅色の鈍い光を放つあのゴブレットで飲む神酒は恍惚なる味わいだった。

 …なのにこんな事で来るなんて。しかも己の姿を偽って。その美しさに比例するようにラジエルはやるせない気持ちになった。
 


「あー、でもあんたも忙しいだろ?」

 ここまでの道連れの天使は悪い奴ではないだろうが、傍に居られると自由に動けなくなり誠に都合が悪い。

 宮殿が近くなり、夥しい数の天使達が集まっているのがわかる。
 祝典の準備をしてるらしい者もいるが、こうして見た限り、正装して開催を待っているだけの者が大半のようだ。
 ともかく誰にも、特にベルゼブブに、自分が此処に来たと知られる事なくルシフェルのもとへ行こう。
 簡単には行くまいが、あのルシフェルの事だ。きっとこの不可解なパズルのピースを与えてくれるはずだ。
 そして何もかも気のせいだったと、そう報告するのだ。  
 

「いや、俺ぁもう、ひと仕事したしよ、案内してやるよ?一緒に楽しもうぜ!」

 その天使は、親切そうな微笑みを見せながらなおも言う。

「せっかくだけど俺、一人でゆっくり見てみたいんだ。悪い」
 
 親切なこの天使の申し出を、別な機会であれば、たとえ知っている場所であれ喜んで受けただろうに、と考えて、本心からすまなそうに謝った。
 


「…だからよぉ、一緒に楽しく過ごそうぜって言ってんじゃねぇか。随分つれねーなぁ、退。いや、ラジエル様とお呼びした方がいいんかねぇ?」


 
 (…えっ……) 

 突然隣から聞こえたその声に世界は時を刻むのを止め、全身が固まったまま動けない。

 この声の主だけは駄目だ。危険だ。いや、気のせいに違いない。気の、せいだよな?
 でも…。

 (…何故?……)



「てっきり、ヅラあたりが来るんじゃねぇかと思ってたがな。昔はアイツの変化によく騙されたもんだしよぉ。総悟坊っちゃんってのもチラッと考えたがな、あの小僧はお前みたく殺気は隠せねぇな?」

 ま、お前が隠したところで俺にしてみりゃバレバレだが。

「どうした、退?……ああ、そうか。お前は昔っから俺が苦手だったよなぁ?んー、それが何でか知ってるか?なぁ?ヘタレの可愛い退くん?」


 (これは…一体何なんだ。どうしてこいつが……)

 背中に冷たいものが流れるのをしっかりと感じながら、ゴクリと唾を飲み込むとラジエルは視線をゆっくり隣にいる天使に向けた。

 心底可笑しそうに腹を抱えて笑うこの天使は、そう。誰より近づきたくないベルゼブブで。
 相手を瞬殺出来るほどの力と魅惑的な外見とは裏腹に、天使にあるまじき邪な心を持つだろうこの男で。 人好きのする顔をした年嵩の天使は消え失せ、この男がいるわけで…。



 ひとしきり笑い涙を拭うと、ベルゼブブは酷薄な微笑みを浮かべ、息がかかる程近くに顔を寄せた。
 そしてラジエルの双眸を愛おしそうに見遣ると


「まぁまぁ、そんなにビビンなよ。知らない仲じゃあるめぇよ?ああ、そうだな。さっきの答え。…お前は欲を唆されるのが怖いんだろう?十四郎に結構な愛情をお持ちのようだが?かといってそうそう抱ける男じゃねぇもんな?だから何度もお前を誘惑してやったのによぉ。靡いちゃ来ねぇ、かといって十四郎に何かする訳でもねぇ。全く、此処でどんな操立てだよ馬鹿馬鹿しい。お前のそのくだらねぇ純情ブッ壊したらさぞ楽しかっただろうに。大体この俺を袖にするなんざ何様なんだ、お前。でも丁度いい。ここには俺とお前の二人きりだ。殺そうが犯ろうがわかりゃしねぇ」

 と、ラジエルが何も言わない事には頓着せず一方的に語りかけた。

「…!!お、お前には関係ない!俺にも、ルシフェル様にも、ミカエル様にも構うな!」

 漸く出た言葉は恐怖のあまり裏返る。

「ほう。漸く返事をしたと思ったら、称号無視してお前呼ばわりか?……気にいらねぇなぁ。」

 その瞬間後ろを取られラジエルの膝の裏にベルゼブブの鋭い蹴りが入った。

「!!ぐっ!…あっ…!」

 痛みを堪え切れずその場に跪いたラジエルの目の前にしゃがみ込んだベルゼブブはグイッとラジエルの顎を掴み憐憫を思わせる顔で諭すようにゆっくり言った。


「お前如きの変化で騙し通せるとでも思ったのか?俺はなぁ、毎日姿を変えお前らのすぐ近くにいたんだぜ?銀時のヤローが十四郎にあんなもん残さなきゃもっとスムーズにいったのによぉ。馬鹿だろ?アイツ。今更、十四郎んとこなんざ帰れるわけねぇのに」

 俺がいるっつーのに気にいらねぇ。

「だから、お前らの誰かが来るのは当然予想できた。まさかお前だとは思わなかったけどな。最高だったぜ?お前はお人好しよろしく森からずっと俺に騙されてたってわけだ」

「お、お前は……!一体ルシフェル様に何をした!」

 あまりの己の失態に愕然とするも、今回のこの一連の事柄にやはりベルゼブブが絡んでいたかと、今度こそ怯むことなくラジエルは怒りをぶつける。

「…おいおい、退、さっき言ってやっただろぅ?イイ子にしろよ?」

「そ、その名をお前にだけは呼ばれたくないっ!!」

 薄い唇に笑みを乗せながら、冷たく細められた深紫の眼差しだけで射殺されそうだ。
 けれどこの男に大切な人達だけが呼ぶその名を呼ばれるのは嫌だと、ラジエルは翠の美しい瞳に怒りを滾らせ声を張り上げた。

「…そんな事言っていーのか、退?…目触りなお前のその孔雀石、俺が貰ってやってもいいぜ?何もかも見透かすようなその目玉。それがなけりゃ誰もお前だってわかんねぇよ?下手な変化よりなんぼかマシだろうが、あ?」

 だいたいそんな希少な瞳は俺の方が相応しい。なんだってこいつが持っている?

 ベルゼブブはそう言うと、顎を掴む力を緩めることなく、そのしなやかな暗殺者の指をラジエルの左の下目蓋にゆっくり押し当てた。

「!!あ…ひっ…ぁぁーー」

 これからされる事の恐ろしさで情けない小さな悲鳴が漏れる。思わずその腕を掴み、引き離そうとするが、細く見えるその腕はピクリとも動かない。

 そのラジエルの抵抗を面白そうに眺めながら、下目蓋からゆっくり、目の周りを愛撫するようになぞっていく。

 今にもこのまま素手で抉り出されそうな状況にも関わらず、目の前の男から目を逸らせず閉じる事も出来ない。

 ……怖い。怖くて震えが止まらない。


 けれど、こんな恐怖の中でも脳裏を過ぎるのは、お二人の言葉で。


 (ルシフェル様は「どんな瞳より素晴らしい」と。ミカエル様は「忘れられぬ深い知恵を湛えた瞳」とおっしゃって下さった)


 あのお二人はそんな些細な言葉などとっくにお忘れだろうが、それがどれほど嬉しかったか。

 …悲しみとあまりの屈辱に涙が溢れてくる。瞳を失くしてどうやってミカエルのもとへ戻れば良いだろう。


「…怖くて泣いてんのか?どこの餓鬼だよ、退?」

 狂気をちらつかせる深い紫色の眼差しに嘲笑する色が混じる。

「お前ほどの知恵者ならもうわかんだろ?お前は敵陣にのこのこ独りで来やがったんだよ!ろくな変化もできねぇくせに!…そうだなあ。まだもう少しお前と遊びたいからな。俺に誘惑されたら勘弁してやってもいいぜぇ?いくら天使とはいえ、恋人たぶらかした男に、しかも敵である俺に喜んで抱かれたお前を十四郎は赦すか?嗚呼、最高じゃねぇか!!」

「ああ、ぞくぞくする」と、ケタケタ笑いながら言われた別の選択肢は、ただラジエルを更に絶望へ追いやっただけだった。






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