月の残り香
U
「お呼びでしょうか?ミカエル様」
此処は中央からさほど離れてはいないが、その喧噪が嘘のように穏やかな空気が流れる。
木々はさらさらと音をたて澄んだ風を運び、花々は様々な彩りで見るものを楽しませる。
その中を落ち着いた足取りでしばらく進むとミカエルの部屋の前に辿り着く。
ラジエルは、恭しく頭を下げながらも、呼ばれた嬉しさを隠しきれない様子で四阿の奥にある縁側から声をかけた。
「…退か。入れ」
感情の読めぬ声でミカエルが短く応えるのが聞こえた。
「はい」
ラジエルは素直に座敷へと歩を進めると大きく息を吸う。
中は相変わらず簡素だが、いつものように梔子(くちなし)の香りが淡く薫り思わずラジエルの頬が緩んだ。
「ん?どうした?何か可笑しいか?」
不思議そうな顔をしてラジエルを見上げたミカエルと視線が合った途端、ラジエルは頬が紅潮するのが分かる。
「あっ、いやっえーっと。いや、何でもありません、ミカエル様」
(やばいやばい、この薫りは俺の好きな貴方の香りだとか、胸が熱くなりました。とか俺は言わない。絶対に、言わない)
と自分に言い聞かせ、真面目な表情を取り繕う。
怪訝そうな顔をしたものの、すぐに穏やかな顔に戻りミカエルは言った。
「早速なんだがな。……お前に仕事を頼みたいんだが」
「へっ?」
「………………」
いつもなら仕事を言い付かる時は此処ではなく、ミカエルの執務室か、さもなくば書庫に用のある時、その足でラジエルの書斎に立ち寄り話すはず。
ミカエルが、わざわざ四阿に呼んだ事に面喰い、ラジエルから思わず素っ頓狂な声が漏れた。
ミカエルも少し気まずそうに口を噤む。
「!!す、すみません。はい、どのような任務でしょう?」
(仕事だろうがなんだろうがこうして話せる事が嬉しいのに…)
気を取り直しラジエルは殊更ハキハキと声をかけた。
がしかしミカエルは、らしくもなくぼんやりとした貌をして黙っているだけだった。
「あのぉ……」
暫く待っても返らない応えに堪えかねてラジエルはもう一度おずおずと問い掛けてみる。
「……ああ、済まない。余所で話すのはどうかと思ってな」
「…………」
「…北に、な。行ってくれないか?」
その言葉に今度こそ驚きを隠せず、翠色の双眸は零れんばかりに開かれる。
北と言えばそれは即ちルシフェルの宮殿で、ルシフェルが神の「摂政」を祝うために宮殿を解放すると言っていたのは知っている。
ミカエルは神の神殿近くで催される祝典を取り仕切っていて、己はその中で細々とした雑務をすることになっていたはずで。
なのに、俺が?北へ仕事?しかもわざわざそれを此処で話すのは即ち………。
「…それは、ミカエル様のご判断で?」
忍びよる不安は気のせいだ、勘違いに違いないと思いながらラジエルは問うてみる。
ミカエルはキュッと口を引き締め視線を逸らしながら言った。
「…晋助が…北にいた。まあ、それだけなら奴の気紛れと思えるが」
「……ベルゼブブ様が?あの方は公の場は苦手だとお聞きしてましたけど。あるいは摂政の祝典ならばとも思いますが、準備を嬉々として手伝うような方ではありませんよね?ルシフェル様とて戯れに過ごす時間などないはずですし……」
「…………」
「しかも今回の祝典は北と中央。当然ミカエル様は此処から離れられない。何か思い当たる節がおありで?」
天使でありながらどこか堕落への誘惑を彷彿させるベルゼブブを思い浮かべ、ラジエルは渋い顔をしながら投げかけた。
「…退。これから話すことは内密にしてくれ」
「…はい」
そのままどこか一点を見つめたまま、大きく溜息をつくとミカエルは話し出した。
*****
神が「ヒト」をご自身の摂政と定められ、『神を愛すようにその方を愛し敬うように』と宣言された日、「エデン」を創造された時以上に天使達はどよめいた。
あの時ラファエルは何と言っていた?ヒトは完全なものとして神は創ったが、不変不動ではない。そう言っていなかったか?そんな天使達の心の声。
そして神に最も近いのはルシフェルであり、摂政が必要であるならば、その任はルシフェルではないのか?という思い。
しかしその声が広がる前に響き渡ったルシフェルの声はその波紋を見事に鎮めていった。
「よーく聞けーー!「ヒト」だろうが何だろうが神が認めた御方だぞ、お前ら!俺達で、その誕生をパーっと祝おうじゃねぇか!!」
その音頭で天界は一気にお祭り気分に切り替わり、和やかなムードで祝典の準備が進められた。
ルシフェル自身この祝い事を盛大にしたいのだと、神殿を一望できる広場だけでなく、北の宮殿でも忘れられない宴を開こうとミカエルに持ちかけた。
兄が言い出した事に最初は戸惑いながらもミカエルは快諾し、ではどちらが素晴らしいか勝負しよう、などと笑い合った。
しかしその翌日からルシフェルは時折何かを思案する表情を見せるようになる。
それはふとした瞬間で、ミカエルでなければ気付くこともなかったのかもしれない。
もともと楽天的に見えるルシフェルだが、実は細やかな配慮をすることを知っているだけに、何が兄の心に影を落としているのかとミカエルは気になっていった。
しかし、ミカエルがそれとなく聞き出そうとしても優しく笑い、お前の気のせいだろう。それよりお前はこのところ仕事に忙殺されているから心配だ。と逆に気遣われる始末。
腑に落ちないまま何日か過ぎた後、ミカエルはふと思い立ち、何とか時間を遣り繰りした後、北の宮殿に足を向けた。
中央に負けないくらい、活気に満ちた宮殿前で兄の姿を探していると、ミカエルに気付いた天使達が嬉しそうに大きく手を振り、「ミカエル様〜!」と呼びかけてくる。
その一人ひとりに顔を綻ばせながら片手を挙げ応えていると、彼等から少し離れた所に兄ではなく意外な天使の姿をみつけた。
(……晋助?……)
こ の場にそぐわないその姿を本来の目的も忘れ視線で追いかけていると、あちらも気付いたのか、口の片端を僅かにあげた後その流麗な羽根を羽ばたかせミカエルの目の前に舞い降りた。
その途端他の天使達はハッとしたように作業に戻っていく。
「これはこれは。神の御前の王子、十四郎殿?」
大袈裟に腰を折り慇懃無礼に挨拶するこの天使はそれを許される数少ない称号を確かに持っている。
「…随分と久しぶりにお前を見るな。晋助…」
その人を喰ったような物言いや態度は毎度の事で、今更苛々するのも馬鹿らしい。
「まあな、お前のやれない汚れ仕事で俺も忙しいからなぁ、な、十・四・郎・殿?¥たまの息抜きだ。それとも俺が此処にいちゃ不満か?そんな顔すんなよ」
己と同等の力を持ちその見目麗しい姿も認めてはいるが、その使命のせいなのか本音を読むのは難しい。
昔は互いにこんな風ではなかったのだが、ある時期を境に距離が出来てしまった。
今はもうガブリエルやラファエル、ラジエルに感じるような親近感を持てずにいる。
ともかくこいつ相手に油を売りに来たわけではない。と視線をベルゼブブの背後に送ると
「銀時なら今、手が離せねぇぞ?」
見透かしたようにベルゼブブは言う。
「…そうか。お前はまだ此処にいるつもりか?ならば無理をなさらぬよう、伝えてくれ」
頷く目の前の男に伝言を頼む。
少しでも兄の顔を見てこのもやもやを晴らしたかったが手が空かないなら仕方がない。そもそも何をしに来たのか、よくわからなかったのだ。
諦めたように大きく溜息をつき元来た道を戻ろうとすると「なぁ」とベルゼブブに呼び止められる。
其方を見遣ると深紫の眼を細め、面白そうに口を歪めながら暫くミカエルをみつめ、ふいにベルゼブブはミカエルの肩に腕を回し、しなだれかかりながら耳元で囁いた。
「…いい事教えてやろうか」
「…………」
「…十四郎よぉ、嫉妬って知ってるか?嫉妬ってのはな、『愛情を傷つけられた者が堕ちる地獄』さ」
じ・ご・くと強調するように言った後、面白そうにミカエルを眺め反応を待っている。
「……何が言いたい」
「ま、高潔な天使様にはわかんねぇかもな。…お前の知らねぇ事もあるってこった。地獄ってのは何も、地の底にだけあるもんじゃねぇんじゃねぇの?」
思わず「待て」と言ったミカエルを嘲るように、にぃと笑って見せると、「じゃあな」と片手を挙げ愉快で堪らないとばかり肩を震わせながらベルゼブブは離れて行った。
その夜、北の宮殿近くに所用で行った折ベルゼブブに偶然会ったと、其処へ行った理由も彼の別れ際の不穏な台詞も伏せルシフェルに話を向けてみたが、ルシフェルの表情はいつもと変わらずミカエルへの愛情を湛えているだけで、「晋助から聞いて吃驚したよ?遠慮しねぇで顔見せてくれりゃ良かったのに、十四郎に会いたかったなぁ」と口を尖らせ、「あそこまで来たら俺に会うだろう、普通?」と額を小突かれる。
ベルゼブブに関しても、「あいつもたまには表っ側でイイとこ見せてぇーんじゃね?心配すんな。」と笑っただけだった。
納得出来たわけではなかったが、その笑顔に流され(もしくは流されたかったのかもしれない)、いつもと変わらぬ穏やかな情交を交わし互いの愛情に満たされて眠りに落ちていった。
ただ……。
*****
「…ただな。翌朝目が覚めると、兄上はもう出かけられていて…」
ラジエルはミカエルの言葉を聞き、先を続けて下さいと、頷いてみせる。
「…これが文と共に置かれていた」
それは角度を変えると銀色に輝く白い羽根。
その一枚一枚をどれほどルシフェルが大切にしていたかはラジエルもよくわかる。
天使の羽根は滅多な事で抜けるようなものではない。しかもルシフェルのように武力に長けている者は戦いに於いても無様に散らすようなことは無いと言ってもいい。
逆に言えば羽根を散らす者ほど力が無いわけだ。
普段のルシフェルは大体において鷹揚だが、天界でも類を見ないこの輝きの羽根だけは下手に触れば逆鱗にふれるのだ。
「…そのぉ、文には何か……?」
今や不安を気のせいとは間違っても思えず、ミカエルの心中を想いながらも疑問を口にした。
「…いや。特別な事は書かれてなかったが…。その、まあ不可解な点もあるにはあるが……」
それまでは珍しく饒舌だったミカエルが途端に口ごもる。
「…文よりも、羽根を置いて行かれた方に何かがあるのかもしれませんね。行って来ます。行って何事もないことを確かめています、俺」
「…その、俺は別に…その、なんだ……」
「ミカエル様」
ラジエルは、決して公の場では見ることのないうろたえぶりを露わにしたミカエルを、「貴方は私事で誰かを動かすような器用な真似のできる方ではない」と優しく遮った。
「ルシフェル様の愛情が誰に注がれているのかは、誰にも疑いようがありません。勿論、ミカエル様もそれを不安に思われる事はないはずです。あのベルゼブブ様もそれは承知しておられるはずですし、仮に何かを仕掛けられたところで、あのお二人に芽生えるものはあろうはずもありません。そうではない何か。それを気に病んでおられるのでしょう?」
深い叡智を湛えた孔雀石色をミカエルに向け、ラジエルは穏やかに言う。
「………ああ」
どこか悲しい色を美しい双眸に乗せ、ミカエルは応えた。
「ざっと計算すると、全天使の約3分の1が北に向かっているはずです。俺は明朝、その中に混じり動向を探ってきます。こちらの祝典のお手伝いが出来ないのは心苦しいですが、それまでに出来る限りの準備を済ませます」
「…何かが水面下で進んでいるとしたら、それを把握しておきたい。晋助の台詞は何か意味があるとも思うしな。公に小太郎をとも考えたが」
「俺は確かに物書きですが、いつも貴方たちと一緒に鍛錬してきました。一応これでも座天使長なんですから。それにガブリエル様は、今、神殿の警護を取り仕切っておられて、多忙極めるじゃないですか」
「……退…念のためだが…」
「わかってますから。俺も貴方達ほどではないけど、姿形を変えることは出来ます。この眼は目立ちますからね。気をつけますから心配なさりませんよう」
そう言うと、いつもの少し情けない柔和な微笑みを残しラジエルは四阿を後にした。
残されたミカエルは銀色に輝く一枚の羽根を切なそうに見ながら、兄が頑なに隠す何かにまた思考を彷徨わせる。
こんな事は初めてで、だから尚更心配になるのだ。
晋助は知っていて俺は知らない。そういう事だよな。
彼が兄を憎からず想ってる事は明白だがそれは彼に彼の言う地獄を見せているのか?だとしたらそれがこの羽根にどう繋がる?
ミカエルはそう独りごちながら、もう何度も読み返した小さな羊皮紙を広げてみる。
“ 十四郎
本当は一日の始まりにお前の瞳に映るのが俺ならいい。
とかって、恥ずかしいこと考えてんだけどよ?
それを見るといつまでも此処を離れられなくなりそうでな。
お前が起きる前に北に向かう事にした。
祝典も間近に迫りこれから暫くの間、此処には来れなくなると思う。お前もすべき事があるしな。
文なんて俺の柄じゃないからな、驚かせちまうだろうけど、どうしても伝えておきたくてこうしてお前の安らかな寝顔を見ながら書いてる。
俺な、ずっとずっとお前を愛してきた。
これから何があろうがそれは変わんねぇ。
ほんとだぜ?
お前は俺の全てだ。俺の全ては十四郎、お前のもんだ。それだけ、忘れないでくれ。じゃあな。
愛してる 銀時 ”
ひと気の無くなった部屋には淡い香りだけが漂っていた。
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