月の残り香
V
「…退」
「…退殿」
ラファエルとガブリエルに同時に呼びかけられ、形のよい頭をふるりと振ると、ラジエルは二人を見上げた。
天界でも珍しい孔雀石色の瞳は今にも溢れんばかりの涙で揺れている。
ラファエルはすっと屈み込むと、幼子にするようにラジエルの髪を撫でた。
「…ったく、俺の周りは泣き虫ばかりで困るねィ…」
後ろを振り返りガブリエルにニヤリと笑ってみせる。
「!!なっ!俺は泣いてなどおらぬ!」
慌てて言うガブリエルにクスクス笑いながら、
「…そういう事にしときやしょう」
とラファエルは笑みを深め、見上げるラジエルと傍にいるガブリエルを思う。
今情けない顔をしている天使と、自分に安らぎを与えてくれたガブリエルは、本人達がどう言おうと底抜けに優しいのだ、いつも。
ガブリエルがルシフェルを想い、ラジエルがミカエルを想っている事を自分は知っている。二人が彼等に惹かれるのも、今、彼等の心情を思い、張り裂けんばかりの痛みを覚えているであろう事も。自分にはわかる。
己もあの二人に対し、憧れに似た切ない想いはあるから。
ルシフェルとミカエル。
『完璧なる対』…動と静の調和。個々は全く違うにも関わらず、二人が寄り添う時、我知らず身体の奥底から歓びが込み上げる。けれど己のそれは恋情とは違う。
時にひらひらと舞いながらミカエルを揶揄し、朱くなったその頬を見て、ルシフェルが堪えきれぬよう肩を震わせているのを見られればよい。
時にルシフェルの軍勢の志気が下がれば、何食わぬ顔をして己の歌声で鼓舞してやり、苦笑するルシフェルの背中を、口笛を吹きながら小突いてやれればよい。
自分はその日常さえあれば、決して己に親愛以上の気持ちが向く事のないガブリエルに、それでも渦巻く恋情を覚えても、背中を伸ばしていることが出来た。
それだけのこと…
そう…自分にとってはただ、それだけのこと…
「…ラファエル様?」
いつの間にか思考があらぬ方へ飛んでいたらしい。ラジエルの震える声で現実に戻された。
「…退。お前は知ってるはずだろィ?十四郎さんはお強い方じゃねェか。案ずる暇があるなら、お前が気になってるモンを探し出して来い。これから起こる全てを正確に書き記せ。お前の書物は地獄の業火でも焼かれる事はねェと聞く。仮に俺達の存在が全て消え失せたとしても、お前の書物だけは後世に伝えられていく」
深い翠の双眸をひたと見据え、諭すように静かに続ける。
「…確かに誰よりお辛いはずだァ、十四郎さんは。でもあの人は旦那の永久(とわ)の恋人である前に『神の御前の王子』、正義と公正を司るお人じゃねェか?お前の愛するお人はまさに聖宰と呼ばれるのに相応しいお方だ。……あのお人は折れやしねェ。俺を信じなせェ」
「……!!っ、ラ、ラファエルさまァァァァッ!!」
途端、子供のように泣きじゃくり、しがみつくラジエルを抱き留める。
そしてその身体の衝撃が和らいでいくと、ラファエルは天空一と言われる歌声を奏でていく。
子宮の中で聞いていた、母の鼓動と、全てから護られるようなその母の声音を真似て。心地良い温かな水の中で優しい夢の世界に誘うように。
「お、俺っ、俺は、しっ…信じっ、信じてますっ!…ぅっ!!」
感情が一気に迸り、しゃくりあげて泣いているため話すのも辛いだろうに、ラジエルはどうにかその一言を言い切った。
その姿がいつもの飄々としたラジエルに隠された素直で純粋な心の顕れに思え、肩に染みていく温かなものを感じながら、何度も頷きつつ、ラファエルは子守唄のような調べを紡ぎ続けた。
「…眠ってしまったか?退は」
微笑みを乗せた声でガブリエルがそう問い掛ける。
ラジエルは疲れ切り、神経をすり減らしていたのだろう。あれだけの事があったというのに、こうして動いているのだ。
しかもまだ、ラジエルが気持ちの整理をしっかりつけられたとは言い難い。
そんな中、毎日遅くまで書庫に籠り、戦いを止める手段はないかと奮闘しているのだ。
「…イチコロでさァ。俺にかかればねィ?」
悪戯が成功したかのように、片眉を上げ、ラファエルは応えた。
「俺は退をこのまま寝かせてきまさァ。明日は早い。こいつは明日からしばらく眠る事など出来ないでしょうからねィ…」
「……ああ、そうしてやってくれ」
額にかかるラジエルの柔らかい髪を指でかきあげてやりながら、ガブリエルは言った。
「…小太郎さん。アンタもお疲れなのはわかってますが、少しだけ俺に時間を貰えやすか?退を寝かせてすぐ戻って参りやすから」
先程までとうって変わった思い詰めた声で問われ、何事かと思いはしたものの、躊躇う事なく首を縦に振る。
「わかった。お待ちしよう。」
途端に眩暈するような笑顔がラファエルに浮かぶ。
「すぐに戻りやす」そう言うと、ラファエルはラジエルを抱え、辺から西の方角にあたるラジエルの住まいへと羽ばたいて行った。
*****
ラジエルの嘆く様を目の当たりにして、彼等が去った後、ガブリエルは毒気を抜かれたように座り込んだ。
全てが怒涛のように起き、その波に翻弄されたからなのだろうか。
決してラジエルの痛みを忘れたわけではなかったが、己の受けた打撃から立ち直ろうとするあまり、ラジエルの心中を疎かにしてしまったのかもしれない。
「彼等は強い。………俺は全く情けないな」
水辺は先程までの出来事がまるで嘘のように、穏やかな空気が流れている。
戦の準備で忙しい中でも、預言を授ける使命が無くなるわけではなく、ガブリエルは度々下界へと降りていた。
天界と空のその境目にある断崖で、何かを思案するようなラファエルの姿をあれから何度か見掛けていた。
あれはあれなりに、友を失った事に傷ついているのだろうと考えていたし、気まずさも手伝って特別声をかけるまでもなく過ごしていたが、どうやらそれだけではなかったようだ。
恩を感じる必要も、己がそれを受ける資格もないというのに…
ラファエルは昔から感情を隠すのが巧かった。ここ最近は計算通りにはいかないようで、その感情が剥き出しになる方が多かったが、この特殊な状況下、それでも良く堪えている。
そして元々聡明なラファエルは、エデンに居る事でラジエルより早く情報を掴みながら笑顔の下であれやこれやと考えていたに違いない。
ふと目についた小石を拾い、そっと流れに投げ込んでみる。
トプンッと水音がすると幾重にも波紋が川面に揺らめいた。小石をひとつ落とすだけで、その何倍も大きな輪がどんどん広がる様は、今の天界そのもののようで切なくなる。
それを見るともなしに、声が漏れた。
「…ここは昔から変わらぬな。小川はあくまで清く、川底の宝石は澄んだ色のままだ…」
「…アンタも昔と同じく澄んでいるように見えますがねィ?」
冗談とも本気ともとれぬ色を滲ませたラファエルの声が背後で応えた。 どうやら先刻の言葉通り寸分も無駄にせず戻って来たらしい。
「俺はそんな者ではない。俺は…卑怯で狡い男だよ、総悟殿」
川面に暗い表情を向けたままガブリエルは言う。
「はぁ、一体どうしちまったんで?…あっ、いや…わかっちゃいやすが…」
呆れたようなラファエルの台詞を笑ってやり過ごそうとしていたガブリエルは、その最後の言葉に眉を寄せた。
「わかる?わかると言われたか?」
勿論ラファエルにはわかっているだろう。あんな姿を見せてしまったのだから。しかし声が尖るのを抑えられない。
それに気付いたラファエルは笑みを消し、口許を引き締めると真っ直ぐにガブリエルをみつめた。先日のように怒りを露わにすることはなかったが、その代わりに「今度は逃がしはしない」とその瞳が語っている。
静寂の中に緊張が走る。
ピリピリした何かが二人の間に流れた後、おもむろにラファエルが言った。
「…いつまでも子供扱いは止めて下せェ…」
見れば僅かに瞳孔を開いたそのブランデーの瞳からは暖かい光は消えている。
「俺が此処に生まれた時からアンタは俺に教え、護り、見守ってくれてやした。…飛び方も、闘い方も、優しさに裏打ちされた真の強さも、…全てアンタが教えてくれやした」
訝し気に眉を顰めるだけのガブリエルに、表情を変えぬままラファエルは視線を逸らさない。
「俺は感謝しておりやすよ?誰に何と言われようと…。……俺はアンタを越えたくて、アンタに追い付きたくて、いつもアンタを追いかけてきた。けどどこまで行っても、追いつく事は出来やしません…」
だけど………
「だけどもう、子供じゃありやせん」
ラファエルはキッパリ言い切った。そして逸らすことのできない静かな炎がその双眸に燻ぶっている。
いつもは柔らかく口角を上げる唇は、その瞳を反映するように歪められている。
なのにガブリエルは口を開けたまま何も発する事が出来ない。
ゾクリと何かが這いあがるような感覚を背中に覚えたまさにその時。
ラファエルは、スッと両手を伸ばしガブリエルの両肩を掴むと、そのまま乱暴に柔らかい草花の上へ押し倒した。
「…っうっ!…」
倒れる瞬間、背中にまわされた腕で衝撃こそ無かったが、ラファエルのその行動に呆気にとられた。
「驚きやしたかィ?小太郎さん?今のアンタは隙だらけでィ」
あたたかさを全く消した声でラファエルは言う。思わずその腕を払い退けようとするも、己の記憶にあるより逞しくなったそれに押さえ付けられ身動きがとれない。
ラファエルはガブリエルの首筋に唇を這わせながら囁くように言った。
「…わかってやす。俺の目は節穴じゃねェんでね。アンタが誰を欲しがってて、何を責めているかなんて、俺には一目瞭然でさァ」
「…!なっ、何の事だっ…ふ、ぅぁっ……」
反論しようと思わずラファエルの方に顔を傾けた途端、耳に熱い息がかかり、情けない声が漏れてしまう。
「…強情なお人だねェ。いつまでもそんな調子じゃ、痛い目に合いやすぜ?」
そう耳元で言うと、ラファエルはガブリエルの両頬を掌で押さえ、僅かに上気して潤んだ瞳を逃がさないように真上から捕らえた。
「…そ、総悟……」
常ならば、深いブランデー色の双眸は愉快そうに煌めき、口の悪さとは裏腹な優しさを帯びている。
しかし今目の前にあるそれは、凍てつくような冷たさの中に大型の猫が捕食する前にも似た獰猛な光があるのみで。
いつの間にか庇護していた天使は、己の与り知らぬところで一人の男へと変貌していたらしい。
「小太郎さん。アンタはあの男を愛しておいでだ。この先も独りでずっと抱えて行くつもりだったんですかィ?それを逆手に取られ、魂が抜けちまったみてェになっちまったクセに。俺がアノ時、見てなかったとでも思ってるんですかィ?」
微塵の憐憫も見せずラファエルは言う。
応えられない事を肯定と受け取り、ラファエルは更に言い募る。
「アンタも馬鹿ですねィ。はっ、叶うわけなんか、これっからさきもありゃしねェのに。アンタもわかっておりやすでしょう?仮にこの戦いが無かったら、旦那は十四郎さんしか見ねェまんまだったろうし、俺達が勝利するってェことは、旦那は………」
その台詞があまりに的を射ていて…そしてあろう事かラファエルからそれを告げられて…
ガブリエルは背筋が凍るような感覚を覚えた。
「…総悟殿…頼む、もうそれ以上は…」
あまりの屈辱に、眼窩にぐぅと何かが込み上げる。それを覚られぬよう、ガブリエルが顔を逸らそうとすると、ラファエルの鋭い声が響いた。
「―――俺を見なせェェェッ!!!」
ビクリと四肢を震わせたガブリエルが、どうしたのだと問い掛けようと開いた唇を容赦なくラファエルは奪う。
今までの二人に交わされた優しく甘い、けれど親愛の挨拶を越えなかったそれとは違い、こちらの意志も関係ない凌辱にも似たその激しい口づけに、ガブリエルは息も絶え絶えになる。
その激しさに翻弄されながらも、ガブリエルはラファエルの言わんとする事を理解できない。
見てるじゃないか。お前が幼い頃からずっと傍で。
そう応えようとする自分は間違っているのか?理解できない。本気で抗いもせず、為すがままになる己も、全く…理解できない。
と、その時、頬に温かい何かを感じた。
「…俺もアンタや退と同じ、馬鹿でさァ…」
身を起こし、呆然としたガブリエルを見つめながらラファエルは小さく呟いた。
その瞳からは冷たさが消え失せ、よく知った柔らかな光の中に、憂いだけが見える。
「…総悟…どの……?」
声にならない声を漏らし、ガブリエルは有り得ないその涙を凝視する。
長い年月の間、一度たりとも見た事のないラファエルの涙。
「…二度と困らせたりいたしやせん。…俺は…アンタを…」
「…俺、を?…」
らしくない自分を恥じたのか、ラファエルは左腕で涙をぐいと拭う。
そしてガブリエルの大好きな誰をも魅了する笑みを浮かべ、そのまま口を噤む。
嗚呼、俺は何を見てきたのだろう。何から逃げていたんだろう。
こうしてハッキリ言われて気付く。苦しければ苦しい程、胸に溜め込み、笑顔を作り続けてきた自分の隣で、それに今まで触れることなく、笑わせてくれていたのは誰だ?
必要以上に鍛錬し、けれどそれを悟られぬよう口笛を吹いていたのは誰だ?
想う相手の心が自分にないと理解する苦しさは、己が一番知っているはずじゃないか。
ルシフェルを想うのをずっと傍で見ながら、どれだけ傷ついてきたのだ?
一体何時からお前は…
「ああ、全くやってやんねェや…。……忘れてくだせェ。今夜の俺はアンタ達にあてられただけですんでねィ。……ただひとつだけ。…願いを聞いていただけやすか?」
自嘲するように呟いた後、強がりたくても大それた事をしてしまったと、不安を隠しきれないのか怖ず怖ずとラファエルは問う。
「…アンタの心のひと欠片。…ひと欠片だけでいいんでさァ。…俺に下せェ」
己が育てた天使は、そう言って泣き笑いの表情を見せる。
あまりに辛そうなその顔を見て、堪らずガブリエルの灰色の瞳からまた涙が零れる。
大切に大切に育てた。泣ける場所であるように、甘えられる場所であるようにと、願いを込めて成長を見守ってきた。
なのに、ここまで追い詰めてしまったのか。
ラファエルはガブリエルの瞳から零れ落ちた涙を大事そうに指先で掬いとり、まじないをかけるような何かを呟きながら自身の胸にそっと押し当てた。
そのまま拳を握りしめ、ゆっくり開くと透明で澄んだ結晶がキラキラと輝いた。
一体どこでそんな力を?と問い掛けようとしたガブリエルに
「俺は策士なんでねィ。勝手に貰いやしたよ、小太郎さん?」
と、栗色の長い睫毛を濡らしたままラファエルは優しく笑う。
その水晶を、愛しそうに頬に寄せたラファエルはコホンと咳ばらいをひとつすると、抗い難い睡魔を催す調べを朗々と歌い始めた。
「……そ、総悟…ど…の…」
(狡いぞ。勝手に話を終わらせて…
未だ俺はお前に何も言ってない…
何ひとつ、伝えてない…
武運を…祈るとすら…
お前…に…何も…
なに…も…
…………)
辺りは水仙の薫りが立ち籠め、心地よいせせらぎの音が聞こえだした。
「……今宵はもう何も考えず、優しい夢にアンタを委ねなせィ。アンタの全てを……愛しておりやす………」
意識を手放すその瞬間、ガブリエルはそう聞こえたような気がした。
−第一章・終−
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