月の残り香
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ミカエルが去った後、ラジエルはその事をガブリエルとラファエルに伝えた。
二人は「ミカエルならば、そんな選択をしてもおかしくはない」と寂しそうに言っていたが、同時に「どうにかして、トワイライトから天界へ戻せないか」と考えている事はよくわかった。
それは何も大切な友人だからと言うだけではなく、ミカエルの使命が特殊なものである事も大きな要因だった。
ミカエルの他に「正義」「公正」を司る天使は居らず、神の代弁者であるミカエルが幽閉されているとなれば、漸く復興の兆しが見える天界にとって大問題でもある。
多分、ミカエルを天界に戻す方法を知っているのは自分だけだろう。というより、それを願い出る事が出来るのは自分だけだとラジエルは考えていた。
そうする事で、当のミカエルがどう思うのかは、蓋を開けねばわからなかったが、それでもあれだけ決心の固かったミカエルが此処へ戻るとしたら、やはり方法は一つだった。
心配する二人に、話をしたいのは山々だったが、その前にすべきことがある。
願いを乞い、それが認められたとしても、この先永遠に自分は大切な人達に秘密を持つ事にはなるのだが。
ラジエルは、あの時神殿で神に願い出た時と同じように一人その御前に赴いた。
神も摂政もラジエルの提案に対し、概ね賛同してはくれたが、同時にラジエルの代償には悲しい顔をした。本当にそれで良いのかと何度も聞かれたが、ラジエルの決意は固く、最後には了承し、その頬を撫で「行きなさい」と優しく頷いてくれた。
「ルシフェルを探す事だけが、ミカエルを此処へ戻す方法なのだ」とラジエルが話すと、ガブリエルとラファエルは仰天した。
しかし、あの戦の原因を知る二人は、ラジエル同様、ルシフェルを単なる「叛逆者」とは考えていない。
何も知らぬ天使達の前で、その事を公にする事は勿論出来ないが、あれだけの事がありながらも、友として、仲間として想っている事をラジエルは知っている。
その理由を聞かれ口を噤んだラジエルを、それ以上問い詰める事はせず、二人は隠密に協力すると言ってくれた。
堕天したルシフェルを探す事は困難で、滅多に下界に降りる事すらなかったラジエルに、ガブリエルは道案内をし、ラファエルは「ヒト」から伝え聞いた事を幾度となく教えてくれた。
闇雲に下界へ降りたところでみつかるわけもないのだが、それでも何もせずにはおれず、ラジエルは毎日下界へ降りてはルシフェルが居た形跡はないかと、あちらこちらを探しまわった。
漸く風の噂がガブリエルの耳に届くと、その場所の近くまでガブリエルは先導し、「俺も一緒に行こう」と言ってくれたが、ラジエルは神との約束もあり、その有り難い申し出を断った。
どうか魔物に会いませんように、と十字を切り、内心の恐怖を洩らさないように気を付けながら歩みを進めて行く。
もしもルシフェルがその大きく禍々しい扉を開けていたら、二度とあの美しい姿で会う事もなく、ミカエルを天界に呼び戻す事も叶わなくなる。
そればかりか、気配を消して近づいたベルゼブブにされた事の何倍も酷い目に合うだろう。この地で自分は忌むべき存在で、恰好の餌食になるだろうから。
「ここはまるで、あの戦いの時の天界のようだ」
焼け爛れた大地。そこかしこに燻ぶる煙が放つ刺激臭。
太陽は見えず、ただぼんやりとした輪郭が薄暗いこの地をようやく照らしている。
ぶくぶくと湧き上がるのはタールのような黒い水。あそこに重なっているのは何かの骨なのか?「ヒト」のだろうか、それとも別の生き物の屍か?
バサリと羽音が聞こえ、ギョッとしてその音がした方向を見遣る。ラジエルは歩みを止め、側にあった岩陰に身を隠した。
と、疾風のように何かが飛び込んで、ラジエルの腕を掴むと有無を言わさぬよう口を塞ぎ、そのまま抱きかかえ飛翔した。
動転したラジエルはその腕を振り払おうともがくが、ピクリとも動かない。
恐怖で涙が滲んだその時、「…お前何でこんなとこに来た」と耳元で良く知る声が聞こえた。
荒涼とした場所だが、明らかに先程とは違う景色の其処へ連れてくると、ラジエルは拘束を解かれ、探し続けていた相手を振り返った。
「…ルシフェル様…」
天界に居た頃の神々しいまでの姿とは言えないが、確かにその瞳も、そして片翼もルシフェルその人だった。
「お前…なんで此処へ来た。お前に頼んだはずだ、覚えているだろう」
厳しい表情のままルシフェルはそう言った。
ラジエルはルシフェルの前に跪くと
「ルシフェル様。俺は全て知っております。貴方達の創られた歴史も、あの戦いの理由も。お願いです。俺の考えに間違いがないのなら、俺と一緒に来て下さい」
神に最も近かった頃、公の場でしていたように上位の天使に対する作法に則りそう告げた。
「…顔を上げろ。俺はもう…」
「いいえ」
「退!やめろっ!俺はっ!」
「いいえ!!貴方は今でも俺にとっては…」
「…わかった。わかったから、顔を上げて話せ。で、話が終わったらすぐに戻れ。お前が来るとこじゃねぇんだよ」
根負けしたルシフェルが大きく溜息をつき、「いいから」とラジエルの顎をクイッと上げ、苦笑する。
それを見てほっとしたラジエルがふと身体の力を抜き、ルシフェルをみつめた。
「…お願いです。俺と一緒に来て下さい。天界へ、ではありません」
「天界じゃねぇって、何処へ連れてく気だ、お前は」
「………………」
「…何処だ、退」
その問いにはまだ答えるつもりがない。
「ミカエル様は…」
「…アイツの話はいいから何処へ連れてくつもりか言え」
「いいから聞いて下さい。お願いです」
口を噤んだルシフェルの横顔は心の痛みを露わにしていて、それが表情を失くしたミカエルと何故か重なった気がした。
「信じておられますよ、ミカエル様は」
そう切り出したラジエルの言葉で、ルシフェルがピクリと動くのがわかった。
「貴方は何処かで生きてくれている。そう信じておられます、ミカエル様は。そしてそれが天使として、ミカエル様の使命として、あるまじき事だとそう思っておられます。貴方が去った後、公務を全うされてすぐに、話してくれました。「殺せなかった。存在を消せなかった」と。「だから罪を償う」と。でも、どこか嬉しそうだなと感じました」
「………………」
「今は貴方の事も、ベルゼブブ様の事も、ご自身の事も知っておられます。貴方がミカエル様のために隠していた理由は想像がつきます。でも、その全てを受け入れておられるように俺は思うんですよ。あの羽根と羊皮紙を大事そうに持って行かれましたから」
「…持って行った?」
「はい。ミカエル様は今、天界にはおられません」
「何だって?アイツに罪はねぇだろうが!何処に居るんだ、俺はそんなつもりで…」
いつになく慌てたルシフェルが微笑ましい。しかし真面目な顔のままラジエルは続けた。
「ルシフェル様がそんなつもりが無かったのはわかってます。そうではなくて、貴方を想うが故、斬れなかったご自分を裁かれたんです、ミカエル様は」
わかりますか?ルシフェルさま…
「…アイツ…は…」
「トワイライトにね…居られます」
「―――そんなっ!」
見開かれたルシフェルの瞳が、「嘘だと言ってくれ」と叫んでいたが、ラジエルはゆっくり首を振り、嘘ではないのだと伝えた。
「貴方が、地獄と言われる場所の扉を開けてなくて良かった。堕天はしたものの、まだ躊躇いがあったのではないですか?…貴方にもし、まだミカエル様を想う気持ちがあるのなら、俺と一緒に来て下さい。貴方の天界での罪は逃れようがありませんし、俺がどう願ったところで貴方が天界に戻るのは不可能です。でも…」
「……でも?」
「…でも、トワイライトは堕天するよりも罪の重い天使が幽閉される場所です、本来は。貴方は納得出来ないかもしれませんが、神も摂政も今回のこの一連の戦いに関して、全てとは言えませんが恩赦を考えておられます。その理由は…おわかりですよね?」
「つまり?」
「つまり、貴方が永遠にトワイライトに幽閉されるならば、ミカエル様は天界へ戻れます。そして、トワイライトの鍵をミカエル様が持つ事になります。神にとって、貴方の力はやはり大きいのでしょうね。地獄で覇王となるのは自明の理です。ならば、神としても貴方を幽閉してしまった方が都合が良いのでしょう。一度入れば、鍵を持つものでなければ開ける事の出来ない場所ですからね」
ルシフェルの中で、様々な事が渦巻いているのが見えるようだった。
ラジエルは、その後の選択はルシフェルに任せると、そのまま静かに黙っていた。
「…お前は…」
「えっ?」
「お前は、それと引き換えに何を代償にした?」
長い沈黙の後で発せられたその言葉に、ラジエルは驚愕した。まさか、そう切り返されるとは思ってもみなかった。
「…それは…言えません」
「言えない?」
「はい、言ったら願いが叶わなくなりますから」
「…お前、アイツの事…」
「はい、誰よりも。でも、俺は貴方にはなれません。笑っていて欲しいんです、心から。それに、俺は貴方も大好きですから。だから、聞かないでください、何と引き換えにしたのかは」
そう微笑むラジエルをルシフェルは真剣な眼差しでじっとみつめていた。
*****
此処に来て、どのくらい経ったのだろう。朝も夜もないため、時間の感覚はとうに失っている。
夕暮(トワイライト)とは巧く名付けたものだと思う。
天界に居る頃は、夜闇に光が射していく瞬間や、金星がまだ明るい内から顔を出し、暗くなるに遵って強く輝やいていく時間が好きだった。
一日の始まりと終わりのほんの一瞬現れるその幻想的な空が。
しかしこの中にずっと居ると、時が刻むのを止めたように感じ、朝にも夜にも辿り着けない焦燥感と全てを放棄したくなるような感覚に囚われていく。
唯一現実に戻してくれるのは、小さな羊皮紙と一枚の羽根だけだ。
あれから皆は元気にしているのだろうか。きっとラジエルは神に直談判し、此処の様子を心配しながら見ているに違いない。
ラファエルはもうあの頃のように「エデン」と天界を行き来し、ウリエルとふざけ合いながら飛び回っているだろうか。
下界へ行く事の多いガブリエルは、きっと呆れたり、叱ったりしながらも笑顔でラファエルと過ごしているのだろう。
こうして浜辺に座っていると寂しさが募る。隣にいない、何処かで生きていて欲しい相手が恋しくてならなくなる。
使命を果たせなかっただけでなく、殺めてくれと願った相手のその願いも叶えてはやれなかった。
「…ぎん……」
聞こえるのは波の音。寄せては返し、さらさらとした砂を湿らせては消えていく。
深い溜息をつき、そのまま砂浜に仰向けになり目を閉じた。
心地よいまどろみの中で、声が聞こえる。
『…十四郎?』
(ああ、これは夢だ。でも夢の中でも構わない、お前に逢いたい…)
『…帰ってきたよ、十四郎』
(…お帰り、ぎん…)
何かが頬を撫で、髪を梳いている。懐かしくて、忘れられない何かが、何度もゆっくりと。
そうだ、いつも帰りを待ちながら、睡魔に負けると夢現の合間で感じていた優しい感覚。そうされると丸まってその何かに顔を寄せたくなるんだった。
決まってその時はこの花の香りがして、その芳香とともに、幸せに満たされる。
(…この…花…?……)
睡魔に抗いながら、閉じた瞳を開けようとするが、心地よさに意識が漂っていく。
何より安心するこの香りとその感覚に、ミカエルはその何かを引き寄せようと、無意識に手を伸ばす。
腕の中で微笑みながら眠るミカエルの頬に、そっと口付けた唇の持ち主は、溢れる涙を拭い、優しさと愛しさを込めてもう一度ミカエルの名を呼んだ。
「……十四郎……」
― 完 −
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