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月の残り香
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 辺りは夕暮れとも明け方とも言える淡いオレンジ色に包まれ、天界では見ることのなかった、砂浜に優しく穏やかな波が打ち寄せている。

 光る小石を夢中で拾った天界の小川の水は、掬って飲めば喉が潤ったものだが、初めて間近にみるこの「海」の水は塩辛く、ミカエルはそっと舐めてみた途端、顔を顰めた。

 「ヒト」は何故こんな「海」に魅せられるのか不思議でならなかったが、波の音とは随分心が落ち着くものだなと、波打ち際に座り込んだ。
 


 此処は天界からさほど離れていないが、ごく少数の天使しか存在を知らない「夕暮(トワイライト)」。
 ある意味、堕天させられるより罪深い天使が幽閉される場所。
 此処にあるものは実体はあるが本物ではない。永遠に罰を受ける天使のため、神が下界の風景の一つを切り取り、作り上げた球体。
 閉塞感を覚える程狭くはないが、一度入れば自分の意思で外に出る事は出来ない。
 此処にあるのは、「海」と浜辺(下界で言えば「入り江」と呼ばれるものだろう)。そこから少し距離を置いて木立が見え、その樹陰にひっそりと小さな四阿が在る。それだけだ。
 此処にいるのはミカエル一人。歌声も喧騒もない。

 此処へ来た時は景色を眺めるどころではなく、教えられた四阿を見つけると、そこに籠り外に出ようとはしなかった。
 トワイライトにプライバシーはなく、唯一この四阿が気を抜ける場所だと言われたからだ。
 自分に課していた冷静な仮面を外したかったし、ミカエルではなく「十四郎」としての自分で居たかった。


 もうどのくらい此処に居るのかも忘れてしまった。此処には朝も夜もない。太陽も月もない。果てしなく夕暮れだけが続く場所、ずっと其処に居る事をミカエル自身が望んだ。


   *****


 戦いが終結したとの知らせを受けたのは、ラジエルの四阿だった。
 ミカエルが目覚めるとラジエルは寝台の傍の椅子に腰かけ、その瞳を曇らせながら外をぼんやりと見ていた。
 自分の居る場所がわからず、身じろぎをすると、すぐに気付いたラジエルは何も言わずぎこちなく微笑んだ。
 ああ、そうかと思い当たりミカエルは片手で顔を覆う。己の四阿に連れて帰るのがしのびなく、本人は滅多に帰らぬラジエルの四阿にこうして連れて来たのだろう。
 近くにガブリエルがラジエルに処方していた薬湯があり、おそらく睡眠を誘うその薬をラジエルは己に飲ませたのだろうとわかった。

 礼を言わねばと、口を開いた時、窓の外が騒がしくなり、ラジエルは「ミカエル様はそのままで」と小声で言うと、静かに寝室を出て行った。



 あの時…あの言葉は…あの微笑みは…

 ラジエルの叫びと白煙、落下していくルシフェル。血濡れた剣と落下していくルシフェル。
 「いいんだ」そう紡がれた唇。ラジエルの絶叫。落下する優しい瞳。

 またその事実から逃げようとしている自分に気付き、いけないと戒めるが、茨で心臓を縛られるような痛みが襲う。
 どう考えても正しかったなどとは思えない。
正しかったと思う事が出来ない。出来ない、出来ない、出来ない。


「…ミカエル様?」

 ラジエルが戻って来たらしい。その声で我に返り顔を声のする方へ向ける。

「戦いは終わったそうです。伝令が今それを伝えにやって来ました」

「そうか…」

「はい。それと、行方のわからなかったラファエル様ですが、ガブリエル様が連れて戻られました」

「…行方がわからなかった?」

「はい。初戦の後、斥候役をされている最中、あの「塊」の攻撃に巻き込まれたようです。俺は別件で動いてまして、その途中ベルゼブブ様に捕まりましたが、運良くラファエル様に助けられたんです。刃物の傷は無かったようですので、恐らくベルゼブブ様と戦われてる最中、決着が着く前に、あの爆撃があったのではないかと…」

「!!おいっ、どういう事だ?お前、そんな危ない真似を…。じゃ、総悟は……」

 今聞く全てが初耳で、驚きを隠せない。

「…ご安心を。確かにひどく時間は掛かるでしょうが、きっと回復されますよ。ガブリエル様が寝ずに看病していらっしゃいますから」

「……………」

「ミカエル様。この戦いは俺達天使、皆の戦いだったんです。原因が何であれ、それぞれが守るべきもののために戦ったんです。ラファエル様にはラファエル様の護りたいものがあったんです。俺が偉そうに言えませんが」

「…アイツは…小太郎に認めて欲しかった。そうだろう?俺達がすぐに囲ってしまうから、苛々してるだろうとは思っていた。でもな、退…」

「わかってます。俺があんな目に合ったから、余計に怖くなりますよ。皆それぞれ大切にしたいって気持ちで動いたんです。それにきっとラファエル様のお気持ちは今頃ガブリエル様に届いていると思いますよ?」

 ラジエルは柔らかく笑ってそう言った。

「正直言って、ガブリエル様に抱かれて戻ってきたラファエル様を見て、俺はもう駄目だろうと思いました。」

 そこまで言うとラジエルはその先を言うべきかどうかしばし躊躇いをみせた。

「…ありのまま話してくれ」

 ミカエルのその言葉を聞くと、ラジエルは苦笑し、「ミカエル様がそうおっしゃるなら」と続けた。


「背骨がね、やられてました。それだけではなく、両足と片腕、頬骨を骨折してましてね。かなりの出血量だったんです。火傷の痕もかなりありましたし、勿論意識もありませんでした。ガブリエル様がみつけた場所は俺がベルゼブブ様と話していた場所からかなり離れてまして、状況からするとあの爆風で受け身も取れず、思い切り吹き飛ばされたと思うんです。きっとギリギリまで戦ってらしたんじゃないかと」

 ミカエルは驚愕の眼差しでラジエルを凝視している。

「…でもね、折れていない方の手に、ラファエル様はスポーランを握られていて」

「スポーラン?」

「はい。ラファエル様が小さかった頃、綺麗な小石を集めるのが好きだったと聞いた事はありませんか?」

「あ、ああ。よく小太郎が話していたが、それがどうした」

「はい。意識も無いラファエル様は、片手でしっかりそれを握っておられて、なかなか離せなかったんですが、その中にあったモノを見て、ガブリエル様は泣き崩れたんですよ」

「小太郎が?」

「はい。何でも戦いの前夜、ラファエル様はガブリエル様に告白なさっていたそうで、その時の「心のカケラ」あ、ガブリエル様の心のカケラって意味ですが、それをね、最後まで握りしめていたそうなんです。多分ですけど、ラファエル様は、ガブリエル様のお気持ちが自分に向く事はないと思ってらしたんでしょうね。だからカケラでも良いから欲しいとおっしゃっていたそうで。で、どういうわけだか、目の前でガブリエル様の涙を水晶に変えられたとか。」

「総悟がそんなことを……」

「ふふふっまあ、ガブリエル様も取り乱されてましたし、だから俺にそんな事話してくれたんでしょうけどね。まあ、どうやって涙を水晶に変えられたのか、俺にはわかりませんが」

「……古代の魔法のようなものだ。あの塊もその力で出来ているはずだ」

「えっ?」

「落ち着いたら小太郎に聞いてみろ。アイツもその力を持ってるから」

「そうなんですか?」

「ああ。…で、総悟の気持ちが小太郎に届いたとは、どういう意味なんだ?総悟の事はわかったが」

 己の分身もまた、その力を自在に操っていた事を思い出し、それ以上そのことに触れてほしくなかったミカエルは話を戻した。

「えっ?…ああ、そうでした。俺はラファエル様の容態を確認してすぐ此処へ戻るつもりだったんですが、聞こえてしまったんです」

「…………」

「『お前が望む全てを与えるから、生きてくれ』って。『若いお前が俺を置いて逝くなど赦さない。傍にいてくれ』って。意識のないラファエル様にずっとそう囁いておられました」

「退、それはお前……」

「ち、違いますって!偶然です、偶然。立ち聞きなんてそんな」

 慌てて言い訳をするラジエルに少々呆れはしても、ラジエル自身、とても嬉しそうだった。二人が生きていて、これから共に過ごせていけるのならそれほど幸せな事はないだろう。

 ガブリエルほどの癒者は天界には居ない。戦いを終えてラファエルの心身を心おきなく癒していけるだろう。

 自分はどうなのだろう…。戦いは終わったと言えるのか?
 (俺は……まずすべき事を片付けないと……罰を受けるのも、何もかも、それからだ)





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あきゅろす。
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