月の残り香
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「!ラファエルさまっ!!」
「チッ!お前かっ!!」
「馬鹿ヤロー!退、何やってんだァ!」
ラジエルを強引に突き飛ばし、ベルゼブブの振りかぶった剣を受け止めながら、ラファエルは間合いを取ろうと瞬時に周囲を把握する。
「これはこれは、総悟坊っちゃん。昨日はご活躍だったようで」
振り上げた剣が止められた事など、大した事ではないと嗤うベルゼブブに、先程感じた迷いはもう見えない。
「ラファエルさま!」
「何だかさっぱりわかんねェが、お前のやるべき事をやれ!行けっ、退!!」
起き上がり近付こうとするラジエルを、ラファエルは鋭い声で制止する。
「躊躇う時間はねェだろうが!夜明けも近い!お前が止められるんなら、この戦いを止めてみやがれ!行け!」
そう言いながら巧みに足場を固め、ベルゼブブの向ける剣と動きに集中する。
「ほぉ、俺と本気でやるつもりなのか坊っちゃんは。しかし、退を行かせるわけには行かねぇなぁ」
「そうはさせるかよ。命令だ!行け、退!」
「!!止めてみせます!―――っご無事で!」
ラジエルに気を取られたベルゼブブの僅かな隙を衝き、ラファエルはベルゼブブに斬りかかって行った。 振り返りはしなかったが、一瞬自分の後ろに視線をやったベルゼブブの舌打ちを聞き、ラファエルは薄い笑みを敷いた。
剣のぶつかる鈍い音と互いの殺気で夜明け前の暗闇がぼんやり光を放っている。
余裕の表情だったベルゼブブもラファエルの猛攻は予想外だったらしく、ラファエル同様に息があがり、額から汗を滴らせている。
「はっ、なかなかやるじゃねぇか。親切できさく?友愛の天使?その仮面の下にこんな凶悪なツラが隠れてるとはな。巧く隠してたもんだ。坊っちゃんは。俺より暗殺者向きなんじゃねぇのか?ヅラが泣くぜぇ?」
「―――黙ってこのまま俺に斬られなせィ」
「でもなぁ?いずれにせよ、お前はヅラを泣かす事になるぜ?退を逃がして周りが見えなくなっちまったんだろうよ」
まだまだ若いねぇ、と嘲笑いながら、見ろとばかりラファエルの後ろを顎で示す。
それでも尚、斬りかかるラファエルの剣を煩さそうに押し遣り、いいから見てみろと酷く嬉しそうにラファエルの背後を見ている。
ベルゼブブは既にラファエルに剣を向けてはおらず、意を決して振り返ったまま、固まったラファエルの背後から高笑いが聞こえた。
それは見たこともない大きさの鉱物の塊に見えた。ラファエルの居る場所から右手に薄ら朝焼けが見えるという事は、この塊は北から来たという事だ。深夜から此処へ飛び込むまで聞こえていた地鳴りの正体はこの塊の音だったのか。
巨大な筒に見えるそれは、ゆっくりとこちらへ標準を合わせている。
「ま、まさか…」
天使達は、その中で最弱の者であっても四大元素を駆使する事が出来たと昔話で聞いた事があった。
その名残で炎を自在に操るものや、風や水を操るものがいると知っている。もっともそれは自分の支配できる領域に限るのだが。
かくいう己が常に身につけているスポーランに入れた「ガブリエルの涙」を創った力も土を操る力のひとつと教えられた。
これは北に居る天使達がその力を使い、地中から作り上げたに違いない。これを使うために昨日はあっさり退いたのか。これがあったから北からの斥候は必要なかったのか。
どうりで、この男以外は見付けられなかったわけだ。 呆気にとられたままラファエルは何故か納得していた。
「わかったか?昨日の戦いは余興みてぇなもんだ。さっきの話をどこから聞いてたんだか知らねぇがな、退が何を知ったところでこの戦いは止まんねぇんだ。此処(天界)をブッ壊すんだよ、俺達はよ」
わかるだろ?お前独りじゃあれは叩き斬れねぇ。短い人生だったな、坊っちゃん。もしお前がこの中で生き延びられたら、決着をつけてやってもいいぜぇ?
そう言うが早いかベルゼブブは目にも止まらぬ速さで空高く飛翔していく。
唖然としてしまったのが逃げるタイミングを喪失させたのだろう。その姿を追いかけようとした瞬間、その塊から天界を震撼させる爆音が聞こえた。
咄嗟にスポーランを握りしめたラファエルは、その凄まじい衝撃から何とか身を護ろうとしたが、為す術もなく爆風に呑まれていく。その風圧と熱に捲かれ翼を動かす事はおろか、目を開けることすらままならない。大波の中で、水面が分からず溺れていく者のような感覚に、これはマズイと本能が知らせている。
何かがおかしいと気付いていたのに。
ラジエルとベルゼブブの声を聞き、その様子に気を取られた事で、怪しい地響きの事を失念していた。
(小太郎さん…)
一瞬、ガブリエルの姿が脳裏を過ったのを最後にラファエルは意識を失っていった。
*****
東の空にはいつもと同じように太陽が顔を出したのだが、その日の天界は厚い雲に覆われ、視界は不明瞭になった。
中央軍は先発隊が北に向かい出立してしばらく経っていた。
ラジエルが中央に戻った直後にその爆音は聞こえ、真っ青になりへたり込んだラジエルを避けるよう救助の兵士達がバタバタと向かって行くのがわかった。
震える足を叱咤し、ガブリエルとミカエルを探す。
行き交う兵士の一人を捕まえ、二人の行方を聞くと、ミカエルの向かった方角はあの爆音が聞こえた方角とは違うのがわかり、安心するものの、ラファエルを想うと震えが止まらない。
まだ確実にあの場所にいただろう。中央よりかなり北寄りのあの場所で、ベルゼブブと戦いながら逃げる事が出来た確率は低いだろう。
これだけ離れていても足を掬われるような衝撃だったのだ。そして何より、自分の身代りになったようなものじゃないか。
(嗚呼……、何て事だ…)
『お前が止められるんなら、この戦いを止めてみやがれ!行け!』
ラファエルは何も知らないはずだ。この戦いのカラクリも、何故あんな場所に居たのかも。
にも関わらず躊躇なく信じてくれた。
これほどの破壊が可能な代物がなくても、あのベルゼブブと戦う事は決して簡単ではないはずだ。
それでも迷うことなく………。
(そうだ、ラファエル様の言う通りじゃないか。い、急がないと…。俺が止めないと…)
今さら北へ行く事もままならない。となると、ルシフェルを見付けるよりもミカエルを見付け、二人が接触するのを防ぐしかない。
この騒ぎの中で震えていても誰も気付かずにいてくれるのが有り難い。煙は大分空へ流れて行ったが、まだ霧のように足に絡みつく気がした。
と、良く知る薬草の香りが薫った気がした。
「―――あっ」
煙の切れ目に見知ったフランベルジュが見えた。刀身が波打ち、その揺らめきが炎のようにも水面のようにも見えるその両手持ちの長剣の持ち主は一人しかいない。慌てて駆け寄ろうとした時
「無事だったか、退。爆音を聞き、お前を探しに書庫へ行っていた」
と、柔らかい声がしたが、まるで近付くなと言われたようにラジエルはそのまま佇んだ。
「……総悟…を知らないか?昨日の戦いで無事だと聞いてはいたが、十四郎の出した者の代わりに中央に戻らず斥候役を引き受けたと聞いたが。まだ、姿が見えないのだ…」
「ラファエル様は………」
「おかしいだろう?アイツは何があっても帰って来るのだ、いつも。何故今日に限ってまだ戻らない。―――おかしいだろう?」
まだ薄靄のように流れる煙のせいで、ガブリエルの表情はハッキリと見えない。
けれど、ガブリエルはきっとラファエルがどの辺りを偵察したのか想像出来るのだろう。
穏やかだが抑揚なく聞こえるその声は…拒絶している。ラファエルが戻らない事は断じて受け入れないと言っている。
「…ガブリエルさま…」
「昨日の戦いは見事だったと聞いた。俺はまだアイツに何も言っていないのだ」
「…ラファエルさまは、………神殿入り口より北の方角へ飛翔して約1時間ほど行った先の桂枝(アカシア)の木立の近くにおられました。……あの、俺が。あの、俺の……」
「―――そうか。では俺は総悟を迎えに行って来よう」
「ガブリエル…さま…?」
「十四郎殿に、すまないと伝えてほしい。総悟を迎えに行ったら合流する。今日はエデン軍もこちらへ合流する。辰馬も一緒だ。お前も気をつけろ。まったく総悟は困った奴だ。心配ばかりかけおって。叱ってやらねばな」
ガブリエルのその声音に、ラジエルが思わず一歩を踏み出そうとすると、来るなとその綺麗な手で制止した。
何も言えないラジエルの横を通り過ぎる時、それまでのようにラジエルの頭を優しく叩いてくれたのだが、その指先が頬そ掠めた時、氷のように冷たくなっていた指先は震えていたのがわかった。
そして視線は煙の彼方を見据えたまま、ラジエルを見る事はなかった。
しばらく両手に拳を作り、ガブリエルが立っていた場所を唇を噛みしめ凝視していたが、堪え切れず振り向いた時は既に、ガブリエルの翼が作った小さな風の波がラジエルの前髪を撫でただけだった。
北が作った塊は、下界でいうなら巨大な大砲のようなもので、そこから吐き出されたものは中央軍を壊滅状態に陥れていた。
きらびやかな天界はその塊により、小川の水は蒸発し、木々は焼け爛れ、花々は塵となった。
昨日の戦いでも空には焔が吹き上げていたが、今は、塊から放たれた物で煙と炎が渦巻き、かろうじて火炎から逃れた者も煙により動けなくなっていた。
ミカエルとガブリエルの軍は白兵戦に切り替える他なくなり、塊の被害の少ない場所から北の軍勢を迎え撃つことになった。
ラジエルはそれでも尚、悠然とそびえ立つ神殿の丘をみつめてから、ミカエルが向かっただろう方角へと向かって行った。
其処此処で激突から生ずる騒音が聞こえる。
天使には地上も空中も関係ない。ある者は土を踏みしめ剣を振るい、あるものは翼を駆り戦う。
あの不意打ちにも関わらず、ルシフェルを「叛逆者」と考えている中央軍は怯むことはないのだろう。
痛ましいことではあるが、ルシフェルの戦術は見事なものだと思う。
捨て身だからこそ出来た策ではあるが。これで終わりだと思っているからこそ、この美しい楽園もかつての仲間もここまで凄惨に攻撃出来たのだろう。
ルシフェルはわかっているだろうか。歳の離れた弟のように可愛がっていた天使を自ら殺めてしまったかもしれないと。
視界が悪くていつもの様に遠目が効かないのが困るが、ルシフェルはミカエルの居るところに必ず来る。 ミカエルはルシフェルの力を理解しているだろうから、きっと単独で動くだろう。他の者を巻き添えにしないために。
二人が出会うとしたら一体どこなのだろう。
止めなくては。ラファエルのためにも。何としても。
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