月の残り香
U
清冽な流れの辺に咲く香水仙の群生。
夕焼けが闇と交差するこの静かな時間は、その香を一番色濃く醸し出す。
朝日が差すまでのそのぼんやりとした薄い闇の中、流れの側にあるこの岩の上で佇むのが、ガブリエルは好きだ。
熾天使(セラフィム)であり、預言と啓示が彼の任務。『神の英雄』と呼ばれるが、慈愛をも司る。そして今では天使のNO.2などと囁かれている。
長い艶のある黒髪は、今は後ろで束ねられ、整った少し繊細にも見えるその顔には疲労の色がちらつく。 しばらくただ流れを見つめていたガブリエルは、深い溜息をおとすと両手で顔を覆った。
「…銀時…」
悲しみと諦めとが混じるその小さな呟きは悲痛な響きを帯びていた。
やるべき事など承知の上だが、こうなる前に何か出来る事がもっとあったはずだと、あれから何度も考えてきた。
考えたところで起きてしまったのだから、今さらどうしようもないのだが。
啓示?預言?笑えるじゃないか…全くもって可笑しくて堪らない。
肝心な時に意味を為さなかったそれは、崇められる価値などありはしない。
何度も共に剣を握ってきた『あの男』にとって、己がそれ以上の価値がないのと同じように。
(全くもって… 笑えるじゃないか…。)
「………小太郎さん?」
背後に柔らかな羽音と共に遠慮がちな声がかかる。
無理矢理 口角を上げ振り返ると栗色の髪の天使が、そのブランデー色の大きな瞳に悲しみの色を浮かべ、ガブリエルを見つめていた。
ラファエルに会うのは久しぶりだ。ルシフェルを止められなかったあの日、心配するラファエルの好意を強引に払い退け、傷つけてから、ラファエルが会いに来る事は無かった。
エデンに居る事はわかっていたが、此方からも訪ねる事も無かった。
「…ああ、しょご君か…」
「あははっ」
ラファエルは渇いた笑い声を上げ、ガブリエルに近づき、そっと抱きしめた。
強張ったその背中を優しく撫でながら笑いを含めた声で言う。
「…プククッ。ここで、しょご君はねェでさァ…小太郎さんアンタ…大丈夫ですかィ?…」
その声は、先日の諍いの時の尖ったものではなく、「あのこと」に触れるわけでもなく、純粋な気遣いに聞こえて、その優しさに思わず泣きたくなった。
「…何故このような事になったのだ。何故だ…」
ラファエルの右肩に顔を寄せたまま、ガブリエルはラファエルの問いには応えず、逆に答の出ない問い掛けをする。
「…そいつは流石の退でも、ましてや十四郎さんにも、わからんでしょうねィ。」
撫でる手を休める事なくラファエルは清流の向こう岸に視線をやり、「不毛な戦いだとしか思えない。どんな意味があるのかわからない」と小さく答えた。
「…俺は何が出来るのだ。この力の全てをもってしても、十四郎殿を癒すことはおろか、銀時を留める事も出来やしない。…あるいは…差し違えれば……」
その消え入りそうな言葉を聞き、ラファエルはグッと唇を噛み締めた。
そして突然抱擁を解くと、グイッ少し乱暴にガブリエルの両肩を掴み、悲しみに曇る瞳をしっかりと捉え、ラファエルは言った。
「バカ言っちゃいけやせんゼ!!俺達は神の子でしょうが!神の愛から生まれた俺達は、どんな理由があろうが命を粗末にするような事は考えちゃいけやせん!…それも小太郎さんのようなお人が…………アンタがそんな事でどうするんでィ!しっかりしなせェ!!」
滅多にないラファエルの激昂にハッとした様子のガブリエルは、その瞳に美しい雫を浮かべ天を仰ぐ。
見る間に雫は盛り上がり、水晶のような輝きを帯びながら頬を伝っていく。
「………すまない。」
漸く出たその言葉は多分、命を粗末にするような言葉を吐いた事と、あの日の謝罪なのだと気付き、ラファエルは肩を掴む手の力を緩める。
ガブリエルの言葉を諌めたものの、その気持ちはよく理解る。
肩を組み、剣を交え、共に笑った男。
ミカエルとは違った意味でその男の隣に並んでいたガブリエルにとって、ルシフェルと話すチャンスが在りながら止められなかった事は、悔やんでも悔やみきれない事に違いない。
あの日、頑なに本音を見せないガブリエルを責め、怒りに任せてその場を飛び出してしまったが、時間を置いた今はその気持ちも受け止められる。
ラファエルは、しばらく惚けたようにガブリエルの涙を見つめた後、その両頬に優しく両手を乗せると、薄く開いたその唇を己のそれでゆっくりと塞いだ。
「…小太郎さん」
呼びかけるその声と共に、温かなその唇がゆっくり離れていく。
微笑むラファエルの瞳の下に薄っすらとある隈を無意識に指先でなぞっていたガブリエルは、己を呼ぶその優しい声に、ぼんやりと視線を合わせた。
しかしその熟成された芳醇なブランデーのような瞳のその奥に、揺るがぬ決意を見たガブリエルは、少し赤くなった不思議な光彩を持つ曹灰長石色の双眸を見開いて動きを止めた。
いつもは凍えた気持ちを癒すせせらぎの音も、酩酊するような水仙の香りも、己の五感に訴えるのを止めてしまったようだ。
「…そんな…」
掠れたその声に、変わらぬ暖かな声が重なる。
「あれから俺が何をしてたか、ご存じだったじゃねェんですか?」
揶揄うように笑いながらラファエルはそう言った。
確かにラファエルは、あの後、エデンに張り付いた。それはラファエルを護るためにガブリエルが告げた事だったが、同時に確実に戦いを仕掛けるだあろう「あの男」の動きを探るため、ラファエルなりに動いているのは知っていた。
「ヒト」の不安を取り除き、神の教えを説くのにラファエル以上の適任はいない。
様々な楽器を器用に操り、神すら唸らせるその歌声。天真爛漫なその姿は闇すら魅了するだろう。
しかし…
その内にあるのは何より深い洞察と、強い槍だ。それを自分はきっと誰より知っている。
愛らしい顔と聡い知恵を持って生まれたラファエルは、幼い頃その可愛いらしさ故に下級天使達の嫉みの対象となった。
将来の地位は約束されているものの、まだ力も弱いラファエルを、気がつくと、いつもハラハラしながら目で追っていた。
天使の序列は滅多に覆されない。
それを知っているからこそだろう。上位になればなるほど、持って生まれた力が形になるまでは、下級天使達の陰湿な虐めの対象になる事もある。
集団で取り囲み、目立たぬよう、背中側の羽根を何枚となく毟り取られ、止めろと言ったところで
「大好きなラファエル様の羽根を一枚だけ頂きたかっただけですよ?宝物にいたします」
などとしれっと言われるのがオチなのだ。 にも関わらず涙ひとつ零すことなく屈託なく笑うその姿が、ある時自分の何かを捉えた。
ならば、と己の庇護下に置き、悪しき誘惑をする同族達から護り、身を守る手段、神の教え、彼の天命とその意味を伝えてきた。
いつまでも護りたかった、ラファエル。…己の報われぬ欲はただ、ルシフェルに向いているというのに尚、無邪気な笑みを向けるラファエルを、手放す事など考えもせず、腕に抱えていたかったのだ、自分は。
一人前だと認めて欲しい。苦しい胸の内を少しでも労わらせて欲しい。そう懇願していたラファエルに対し、「ここから先は入って来るな」と言葉にせずとも拒絶してきたのは自分だ。
ラファエルが思い詰め、こんな選択をしたのは多分、子供のままでいて欲しいと願う己のエゴの所為だ。だとすれば力尽くで止める事も出来まい。
「アンタはアンタの軍勢を率いて、やるべきことをしなせェ」
目の前にいる己より歳若い天使はそう言って笑う。
「…いつまでもしけた面なんざァ、見たくねェですゼ?小太郎さん?」
少し傷ついたような、諦めをないまぜにしたような、そんな表情を一瞬浮かべ、また柔和な微笑みを敷いたラファエルは軽口をたたく。
そんな顔をさせてしまった事を申し訳ないと思いつつも、言葉が出てこない。
「…人が好すぎまさァ、小太郎さんは。大丈夫でさァ。俺は命を粗末にするなんざァ考えてませんからねィ…ただ…アンタを護らせて下せィ…今まで俺を護ってくれた、…せめてものご恩返し位に。…そう…思って下せェ…」
その悲痛な叫びにも似たラファエルの言の葉が、しっかりと脳裏に浸透した途端、止めたと思っていた涙腺は己の意志に反して決壊していく。
はらはらと流れるその涙を、ラファエルは微笑みながらその細い指先で拭っていた。
何も言えない自分が、どうしようもなく不甲斐ない。
*****
「ガブリエル様、ラファエル様」
気配もなくいきなり耳に響いたその声に二人はハッと振り返る。
「…何用だ、退殿」
我に返ったガブリエルが口許を引き締め、問い掛ける。
「…申し訳ございません。……例の件でございます。明朝こちらへあちらの軍勢が攻撃してくると、つい今しがた情報がありました」
続けてラジエルが言う。
「…既にミカエル様には伝えております。明朝一番に、ラファエル様は予定通り先陣をきっていただき、ガブリエル様においては、所定の位置にて準備をお願いしたく存じます」
(ああ、やはり………)
ラファエルは盾となり、この天界を守るつもりだ。
幾度か戦いの経験こそあるものの、ラファエルはルシフェルと共に出る事が多かった。
ガブリエルは渋々ルシフェルに預けていたが、反面ルシフェルの傍ならばと安心出来ていた。しかし、今回はそのルシフェルとの戦いだ。そう思うと胸がキリキリと痛む。
「…で、十四郎さんはどうするおつもりでィ、退?」
まるで何事もないような声で、ラファエルはラジエルに問う。
「……ミカエル様は…」
ラジエルは言葉に詰まる。 見た目より柔らかな長めの黒髪を持つ青年は、細い肩を僅かに震わせ答えた。
「…ミカエル様は、ルシフェル様だけは自分で斬ると…そう言っておいでです」
ラジエルは地面を凝視したまま顔を上げようとしない。
「…まるで抜け殻のようなお姿ではありますが…そのお言葉に迷いは感じられませんでした。 何故なんでしょう!何故お二人が敵対しなければならないんでしょう!!」
ラジエルは本来ならば聞く者を微睡ませる、その独特で柔らかな声を震わせながら、ずるずるとその場にくずおれた。
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