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月の残り香
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 (なんて貌をしているんだ。いや、俺のせいだよな………)

 ミカエルの姿が白煙の切れ目から見えた途端、他には何も目に入らなくなった。
 ルシフェルにとって、聞こえてくる天使達の怒号や武器のぶつかり合う音は別世界のモノのようだ。

 宮殿の窓で月明かりの下、切ない想いを噛みしめた後、覚悟を決めたはずだった。なのにこうしてその姿を見るだけで、どうしようもなく苦しくなる。
 どんなに消そうとしても心からその姿が消すことが出来ず、愛しさを追い遣ろうとする度、何かが悲鳴を上げていた。

 (………会いたかった)

 「違う」とそう言いたい。「お前は何も悪くない、俺がお前を憎むわけがない」そう言ってやりたい。少しこけてしまったその綺麗な頬に手を這わせ、抱きしめられたらどんなに良いだろう。今でもどれだけお前に触れたいと願っているか、伝えられるのなら。

 けれど、美しかったこの野原をこうして焼き払ったのは自分だ。抜けるような青空を朱と灰で隠し、輝いていた天界を薄闇色に変えたのは自分だ。



 気配を消すのを止め、そのままミカエルに一歩づつ近づく。踏む度に、脆くなった足元の草は此処に居ると音を立てて主張する。

 その音を捕えたのだろう。ミカエルの意識が此方を向くのがわかった。それと同時に一陣の風が吹き、その姿をはっきり捉えることが出来た。

 常に揺るぎない慕情を湛えていた黒真珠には、何の感情も見えない。その事がルシフェルの心を斬り裂いたが、それでいいと己に言い聞かせ、北の宮殿でラジエルを見た時のように傲慢で不遜な表情を張り付ける。

「兄上……」

「………………」

「―――何故なんだ。この戦で此処の平和は乱れ、罪もない天使が幾万と倒れている。俺を殺したいなら、何故仲間達と天界まで巻き込んだ。この悲惨な光景は、兄上がもたらしたんだぞ」

 ミカエルは淡々とルシフェルに語りかけた。

「…おめぇに何がわかる」

「……わかるように説明してもらいたいものだが、そう言っても無駄か?」

 剣を交える構えを崩さないままミカエルは静かに問い掛ける。ルシフェルは片眉を上げ、失笑した。

「呆れたもんだ。ここまで来て、俺が「はい、わかりました」と応えるとでも思っているのかよ。俺の気持ちなんざ、おめぇが知る必要はねぇ」

 その言葉を聞き、ミカエルの瞳は僅かに怯んだように揺れた。

 (ああ、こうしてお前が俺の言葉で傷つくのを見て、まだ想われているのかと思う俺はどうかしてる)

「…確かに神に叛逆する気持ちなど知りたくはない。兄上の力は俺もよくわかっているつもりだ。しかし、兄上自身と配下の者達にとってもこの戦は呪いとなって重くのしかかっているんじゃないのか?俺への憎しみはさておき、神の聖なる平安を乱そうと自惚れるのはやめておけ」

 (頼むからもうこれ以上、神の逆鱗に触れるような真似はやめてくれ。殺したいのは俺だろう?)

「自惚れ?俺が?わかってねぇな。俺に対してそんな口を聞くおめぇが自惚れてるんじゃねぇのか?おめぇは俺の部下の一人でも敗走させた事があったか?俺の部下だけじゃねぇ。ヅラのとこのまだ若い天使相手にだって直接手を下すことが出来たかよ」

「――――っ!」

「俺ならおめぇの言う事を聞くだろうってか?いつまでも勘違いしてんじゃねぇぞ。来いよ、その剣はただの飾りもんか?」

「…立ち去れ、兄上。配下の者を引き連れ、「悪」の住処、地獄とやらへでも行けばいい!これ以上天界で騒ぎを起こすな!」

 ミカエルはそう言いながらルシフェルに一歩近づいた。

 (無理なのか?本当にもう伝わらないのか?ならばお願いだ。神が断罪の裁きを下す前に此処から退いてくれ、銀。何故こんな事に…)


「この戦をおめぇは「悪」と言うが、ならば神のする事は全て「善」だとでも言うのか?本当に「善」だと言えるのか?おめぇは考えた事がねぇだけだろうが!」

「な、何を言ってる」

「俺はこの戦を「栄光の戦い」と呼ぶ。この天界をおめぇの言う地獄に変えてやる。それが悪だと言うならおめぇも全力を尽くせ。俺は退かねぇ。この天界の象徴である「ミカエル」を殺すために、此処へ来たくれぇだ」

 ルシフェルはそう言いながらミカエルと揃いのクレイモアで身構える。

 ミカエルはルシフェルが洩らした言葉に戸惑い、その意味を問おうとしたが、それを堪え、剣を握る力を強くした。

 (胸を痛めるな。ここにいる男は叛逆者で、俺を殺すつもりの男だ)



「話はそれで、終いか?」

 顔色が変わっていない事を願い努めて冷静な声を出した。

「ああ」

 一瞬ルシフェルはミカエルの剣の鍔に視線を送ったが、すぐにまたミカエルを見据え、殺気を漲らせた。


 全能である神の力には及ばずとも、それに次ぐ力を持つ二人はその腕を高く掲げ、相手の隙を狙う。
 ルシフェルは神に叛逆した者として、天使の霊力を失っているはずにも関わらず、その姿は最も神に近い存在そのもので、以前と全く変わらない。

 二人はミカエルの身体の方が少し細身である事を除けば殆ど変りなく、振る舞いも遜色ない。実戦こそルシフェルの方が多かったがミカエルもその武力に於いて負けずとも劣らない。

 互いに支え合い、これ以上は望めぬ愛情で結ばれていた二人の間には今、不安が震え、慄きながら佇立していた。


   *****


 ミカエルが自軍と共に向かった場所は、既に戦闘が終結していたらしく、敵か味方かもわからぬ天使達の屍が折り重なっていた。

 彼方からはまだ戦いの響きが聞こえるが、この方角からすると、ガブリエル軍なのだろう。
 ミカエル軍の勝敗は定かではないが、いずれにせよ、生き残った兵士達はガブリエル軍に合流したのだろう。

 (ミカエル様は何処に)

 僅かに息のある天使の呻き声しか聞こえぬ場所で、焦りを隠せずラジエルは思考を巡らす。

 あまり手間取ると、またベルゼブブに捕まりかねない。勿論あの「塊」をベルゼブブが避けられていたら、の話だが。
 ガブリエルがラファエルを探しに行った今、ラジエルを加勢してくれる天使はいない。
 しかし、ベルゼブブが逃げられたのなら、ラファエルにもまだ可能性があるという事で、ラジエルは複雑ではあったが、二人の無事をあらためて祈った。

 (ルシフェル様とミカエル様がこの広い天界の中で間違いなく出会えるとすると…)

「梔子の茂みか?」

 だとすれば、此処からそう遠くはない。先の爆撃で目印になるものが無くなっているかもしれないが、其処はよく鍛錬していた草原からも離れていない。迷わずに行けるだろう。

 ガブリエルに渡された薬を飲んでから大分時間が経っている。ベルゼブブに折られた方の羽根が、時折鈍く痛むのがわかったが、この期を逃したら取り返しがつかないのは重々承知だ。

 (間に会ってくれ)

 両手を組み天を仰ぐ。確信は出来ずにいたが、ラジエルは梔子の茂みに向かうべく、あの草原を目指し力強く飛翔した。



 高度を上げると白煙のせいで視界が悪くなる。低すぎれば残党に見つかる可能性が高い。気配を消しつつ上昇と下降を繰り返す。

「…あれか?」

 鍛錬の後、ルシフェルが好んで腰掛けていた大木らしきものが見えた。

 今は無残な姿になっているが、多分あれはあの木の残骸だろう。ラジエルはゆっくり下降し、焼け爛れた草の上へ着地した。

 息を詰め、周囲を窺う。此処より少し行った先に、あの茂みはあるはずだ。

 と、其処へと足を運ばせようとした時、剥き出しの二つの殺気を感じた。

 (どこだ!この近くのはずだが。殺気を隠していないという事は、腕に自信があり、邪魔が入っても構わないと思っている証拠。即ち…)



 ラジエルがその殺気の居場所を特定し、二人の姿を認識した時、ルシフェルとミカエルは互いに相手を狙い、今にも高く掲げた剣を振り降さんばかりの態勢だった。
 長く戦う気は毛頭ないらしく、ただの一撃で事を決するつもりらしい。

 ルシフェルの表情は北の宮殿で己が見た時のように、感情が一切見えない代わりにミカエルのそれは、それまで見た事のない苦痛と怒りが混じっている。

「――――っ!!ぁぁぁっ!だ、だめだ!駄目ですっ!ミカエルさまぁぁぁっ!!」
 
 縺れる足で駆けだしたその瞬間、両者は動いた。

 攻撃力、防御力はどちらもそう変わらない。

 ミカエルの振りをルシフェルの剣がはっしと受け止める。しかしその剣はそのまま真っ二つに切断された。

「――――止めてください!お願いですっ!駄目ですっ!いけませんっ!」


 ラジエルの必死な叫びより僅かに早く、ミカエルはルシフェルの折れた剣をそのまま薙ぎ払い、もう一度振りかぶると体制を崩したルシフェルへ振り降ろした。


 息を飲んだラジエルから見えたのは、ルシフェルの満足そうな微笑み。それを目の当たりにして、ラジエルは己の考えに間違いはなかったと確信する。


「―――――ルシフェルさまぁぁぁっ!!」

 斬られたルシフェルが自分に向けた優しい眼差しに愕然とし、その刀身を力なく下げたミカエルを押し退け、ラジエルはルシフェルに駆け寄ろうとした。

 ルシフェルはラジエルの姿を認め、

「………さ、退……十四郎を…頼む……」

 と掠れた声で呟く。

「駄目です!今手当をしますから!お願いです、逝かないでっ!」

 叫ぶラジエルに、ミカエルは信じられないものを見るような貌をしてから、ルシフェルに近づこうとした。

 ルシフェルはミカエルの蒼白な顔をみつめ、ゴボリと嫌な音を立てて胃から逆流した血を口の端から滴らせ、「これでいい」と言葉にならない声を発した。

 そのままミカエルの伸ばした腕を振り払い、その勢いでよろよろと後ずさると、「塊」が抉って出来た空へ身を投じた。


「ぁぁぁっ……、ルシフェルさま……」

 ラジエルは泣きじゃくり、ミカエルを振りかえる。

「ごめんなさい、ごめんなさい。間に合わなかった……」

 泣きながら何度も繰り返す。

「何て事だ…何だって間に合わなかったんだ…ああ、赦してください、ミカエル様」



 (…「これでいい」とはどういう意味だ?銀は何故微笑んだ?何故、退が此処にいる?)



「聞いてください、ミカエル様!ルシフェル様は貴方を憎んでなどおりません!ずっとずっと、苦しんでらしたんです!貴方はずっと、愛されていたんです!」

 ラジエルは目を真っ赤にし、涙で顔をくしゃくしゃにして訴える。

「……何、何を言ってる…」

 ラジエルの言葉を否定しようと口を開いたが、この男は都合の良い嘘をつくような男ではないと、よくわかっている。

 ラジエルはミカエルの両腕を掴み、揺さぶってからその瞳をしっかり捉え、もう一度告げた。

「…貴方は寸分の狂いもなく、ルシフェル様に愛されていたんです」

 (愛、されていた…?)

 ラジエルの言葉は理解出来ない。今目の前で血を吐き、身を投げたのは、神に叛逆した男で、天界をここまで崩壊させた男で、大勢の天使を巻き込んだ男で…。

 ルシフェル自身が自分を殺しに来たと言ったのを確かに聞いた。
 ラジエルも、その渦中に巻き込まれ心身共に痛めつけられたではないか。ルシフェルが直接ラジエルを傷つけたわけではなかったが、そのまま息堪えても構わないとばかり放置したはずだ。
 そのルシフェルを何故ラジエルが庇う。何故、謝る?

 何かが違うのか?愛されていた? 何だ、それは…。



 ミカエルの手からクレイモアが滑り落ちる。その柄が、ルシフェルの折れたそれに当たり、場違いな金属音が響いた。ゆっくりと音のする方へ視線を遣ると、己の手に握られていたその刀身にべったりと血が付いている。

 その血が誰のもので、誰の剣なのか。
 ……わざとなのか?わざと斬らせたのか?

 そう思い当たり、ラジエルの泣き濡れた翠の瞳を見た瞬間、それが現実だとどこかで理解した。

「…何故………」

 そう小さく言葉を漏らした後ミカエルはガックリと膝を衝き、まだ白煙の残る空を見上げたまま滂沱たる涙を流した。



 (この薄闇も、抉られた台地もその空洞から落ちていった銀も、悪夢に違いない。夢から覚めれば隣に愛しい男がいて、天界は光輝き、笑いが満ち溢れているに違いない。そうだ、これは夢だ。酷い悪夢なんだ)



 今、ミカエルの目には抜けるような青空が映り、天使達は肩を叩きあいながら美しい草原を闊歩している。
 ラファエルは唄い、ガブリエルは草花の露で手を染め、ベルゼブブは皮肉気な笑いを乗せ、ラジエルは厚い本を捲っている。
 そしてルシフェルは、傍に居て、いつも自分に語りかけている。


   *****


『ねぇねぇ、ぎん。明日は何して遊ぼうか?』

『そーだなぁ、あの川に行かね?ほら、川底に綺麗な石がキラキラしてるとこ』

『うん!あそこ行こ!あそこでね、ぎんの目みたいな赤い石探す!』

『おれの?とーしろの目の方が綺麗じゃね?』

『おれは、ぎんの目も髪も、一番綺麗だと思う。おれのはどっちも真っ黒だもん』

『そっかな。…うん、とーしろが好きならおれも好きになる!でも、おれは、とーしろの全部が好き!一番好き!』

『おれも!おれもぎんが好き!ぎんが居れば何にもいらないくらい好き!』
  

   *****


『お待たせ、十四郎。おめぇが戻るまでちょっと時間あったからよ、少ししおれちゃったけど、これな、すげー良い匂いする花だろ?』

『ホントだな。どこでみつけたんだ?綺麗な花だ』

『俺がみつけたって言いてぇとこだけど、実はおめぇが神殿に行ってる間にヅラんとこ行って来てよ、たまたま教えて貰った』

『小太郎は元気だったか?アイツは草花に詳しいからな。邪魔しなかっただろうな?』

『ちょ、十四郎くん。邪魔なんかしてねぇって!手伝って来たくれぇだよ?』

『ホントか、銀?』

『ホントだってぇの!笑うなよ。で、どうだ?気に入った?』

『ああ、気に入った。四阿中この香りにしたいくらい気に入った』

『じゃあ…閨は外せねぇな!』

『ククッ。馬鹿銀…』

『その馬鹿を愛しちゃってるのは誰ですかぁ?』

『…俺だな?』


   *****


 戦いはまもなく終息するだろう。

 未だ何処からか、武器が音を立てているが、ベルゼブブは生死不明、ルシフェルが倒れた後、北の軍勢は急速に勢いを欠くに違いない。
 「エデン」は、ウリエルがあの失態の後、それを挽回すべく鉄壁の防御を誇っているはずだ。
 ガブリエルはラファエルを見つける事が出来ただろうか。二人が無事だと良いのだが。

 天界はきっと何事も無かったかのような平穏な世界になっていくのだと思う。
 けれど、「光の使者」を失くしたこの人に、自分は何が出来るのか…。

 ルシフェルは最期に「頼む」と言葉を残したし、出来る限りの事はいくらでもするつもりだが、ミカエルの「光」はルシフェル唯一人だ。

 生気を失い、ただルシフェルの落ちた空をみつめ続けるミカエルに、ラジエルは震えの止まらぬ手をそっと差し延べた。


―第5章・終−



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