月の残り香
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陽の光を受け、輝いていたはずの草原は、薄暗い中でまだシューシューと音を立て燻ぶり続けている。
かつてベルゼブブがその蔭からこちらを覗いていた大木は無残に倒れ、それでも残っている逞しい根が傷ましい。
草原の外れはあの「塊」の砲弾が抉ったのだろう、どれだけの破壊力なのか、空が見えている。
皆は無事だろうか。昨日の勝利でルシフェルが攻撃の手を止めるとは考えていなかったが、この楽園ごと破壊するような暴挙に出るとは思わなかった。
あの日から、ルシフェルが手紙と羽根を残したあの朝から、その意味を呆れる程考え続けてきたが、次いで起こった数々の事件はミカエルの心を更に動揺させた。
息をしているのかわからない程に痛めつけられたラジエル。
憔悴し、ふとした時にその瞳が虚ろになるガブリエル。
やるせなさと憤りを滲ませ続けたラファエル。
己の元から離れるならば、何故ルシフェルはあんな手紙を残していったのだろう。
一体何をしてここまで憎まれてしまったのだろう。
「……そうだな、晋助。今の天界はお前のいう地獄絵図だ。満足か…?」
北で会ったベルゼブブの言葉を思い出し、誰にともなく言葉が漏れた。
幼馴染だったベルゼブブのはにかんだ笑顔と、成人してからの冷たい双眸が脳裏を過ぎる。
今回と同じように、ベルゼブブが離れていったのも突然だった。何度も本人に理由を聞こうと言い募ったが、造られた壁は決して崩れる事がなかった。
あの時はそれぞれに一人前の天使としてやっていく期待と不安があったため、大人になるのと同時に、ベルゼブブの中で何等かのけじめをつけたいのかとも思ったが、ルシフェルとは変わらずにいる姿を見て、寂しさを覚えたものだった。
ただ、それでもルシフェルはいつもあの優しい笑顔と一緒に溢れんばかりの愛情を隠そうともせず己に向けてくれていた。「心配するな」その一言があるだけで、どんなに心が温まったことだろう。
友だと思っていた男からの拒絶も辛かったが、ルシフェルとの別離はその比ではない。
引っ込み思案だった己の手を引き、いつでも護ってくれていた幼い頃、勇気を出し一歩進む度、自分の事のように喜んでくれていた。明るく大らかな兄のようになりたいと悩んだ時も、「お前はそのままでいい」そう言って抱きしめてくれた。
それは互いに成人してからも変わらず、ミカエルが唯一素顔でいられる場所がルシフェルだった。
ルシフェルの魅力は十分わかっているが、反対に自分のどこに愛される価値があるのかはよくわからなかった。
けれど、とても幸せで。姿がない時ですら、手を伸ばせばすぐ其処に居ると思える事が幸せで。この天界で永遠にそれが続く事が堪らなく幸せで。
なのにどうして今、焼けただれた此処で、一人で居るのだろう。天使である事を誰よりも誇りに思い、この天界を愛していたはずの男が、何故自分の隣に居ないのだろう。
あのとてつもない爆撃で、いつも四阿に持ってきてくれたあの花の茂みも無くなってしまっただろうか。
ラファエルとラジエルがルシフェルの伝言を携えて来た翌朝、あの花の芳香に堪え切れず、家中の花を処分した。この戦いがどのような結末を辿ろうとも、もうあの四阿には帰りたくなかった。
ルシフェルと一緒に居た時間が長すぎて、銀色の残像があらゆる場所にあり過ぎて、もう堪えられそうになかった。
ルシフェルはベルゼブブを選んだのだろうか。二人はあの北の宮殿で閨を共にしているのだろうか。それならば、そうはっきり告げられた方がどんなに良かっただろう。
「お前はもう、いらない。愛していない」
そんな台詞を言われる日が来るとは夢にも思っていなかったが、それならそれで………。
諦められるのか?と問われればその答えは「否」でしかないが、仕方ないと自分を説得させられるはずだ。想いだけは自由でいさせてくれと、開き直る事が出来たかもしれないじゃないか。
「―――殺したい程、憎いのか?」
そう呟きながら腰を屈め、茶色く変色した草を撫でると、生暖かい風とともに散り散りに流れていく。
見上げれば雲のような煙とあちらこちらで戦っている印でもある焔しか見えない。
いっその事ひと思いに殺されてしまおうか。そんな弱気な考えが浮かぶが慌ててそれを押し遣る。
ルシフェルの個人的な憎悪で自分が狙われているなら、大人しく殺されても構わない。
むしろ息の根を止めて欲しい。もう愛されていないなら。
あの大好きな優しい眼差しが、他の誰かに向けられているのを近くで見るくらいなら、この瞳もいらない。
柔らかく深いあの声が、誰かの身体を震わせるなら、何も聞こえない方がいい。
いつまでも血を流し続けるこの心も何も感じなくなればいい。
けれど、それを選べないのが恨めしい。
ルシフェルが(その影にはベルゼブブも居るのだが)牽いた引き金は、天使達のこの先を決めるものになっている。仲間であった天使達を巻き込み、天界と「ヒト」、そして神をも巻き込んだこの戦いで、自分は「個」であってはならない。
「こんな事になるのなら、こんな使命は欲しくなかった」
とはいえ、放棄できるものでもなく、己はそれを護り続けるのだろうけれど。
それが存在理由なのだから。
相手からの愛情が無くなったとはいえ、愛する者を裁くのは辛すぎる。けれど、今回のこれはどう考えても有耶無耶に出来るレベルではない。
せめて、理由が聞けるだろうか。
何故ラジエルをベルゼブブがあれほど、痛めつけたのか。
何故ガブリエルにあんな顔をさせる真似をしたのか。
何故ラファエルの無条件の信頼を裏切ったのか。
そして、何故自分を憎むようになったのか。
最後に、聞けるだろうか。我儘な願いだろうか。
カサリと焼けた草を踏む足音が聞こえた。聞こえた足音はひとつ。その方向へ集中して感覚を研ぎ澄ます。
カサリッ。やはり足音はひとつ。周囲からも上空からも他に気配はない。
それまで遠くで聞こえていた合戦の音は足音の主を認識した瞬間、聞こえなくなった。
(―――父なる神よ)
思わず胸中で祈る。今までにない哀しみが押し寄せ、ミカエルはギュッと瞳を閉じた。
ゆっくりその双眸を開き、表情を消す。持ち馴れたクレイモアは鍔の模様がルシフェルのそれと対になっているものだ。その見事な彫金に、目を向けないように気をつけながら、ミカエルは足音の主にその刀身を向けた。
*****
それを許可したのは間違いなく自分自身だ。
手持無沙汰に宮殿の庭で、地面から鉱物を掘り出し、手を翳してぼんやりとしていた。
何故だか幼い頃からそうすると、自分の両手の中で鉱物は浮きながら次第に形を造っていく。その様が何とも面白くて、たまにそうして楽しんでいた。
自分の他にはガブリエルが水を操れるのを知っていたが、彼はあまりその力は使わないようだった。
初めてルシフェルのそれをラファエルが見た時、ラファエルはそれに魅せられ、どうやるのかとしつこいくらいに強請られた。
形のよい唇をギュッと一文字にし、額に汗を浮かべるのが何とも可愛くて、時々ラファエルにはこっそりと教えていた。
「古代の魔法のようなもんだ。あまり大っぴらにやるんじゃねぇぞ?」
そう言うルシフェルに、まるで二人だけの秘密が出来たような笑みを浮かべたラファエルが、その後自在に操るようになったのかは聞いていない。
栗色の髪とブランデー色の瞳を持った愛くるしい天使。元庇護者は心配性でなかなかあの天使の翼を自由にしてやらなかったようだが、天性の剣の使い手で、霊力のセンスも非常に高い。適切な機会を与えてやれば、間違いなく自分達に並ぶ実力を身につけるだろう。
そしてどれだけ切なくガブリエルを求めていたのか、ガブリエルはわかっているのだろうか。
あの回廊で感じた殺気は、本物だった。それだけガブリエルが大切で、大切な相手を傷つける自分に怒りを覚えたのだろう。
元よりこの状況は作戦通りだった。
鉱物で遊ぶルシフェルを凝視した後、ベルゼブブは「こりゃいいな」と一人ごち、霊力の高い者を集めると、ルシフェルに操らせて巨大な大砲を造り上げた。
北の宮殿と同じ位の大きさのその「塊」に、初戦で退却してきた兵士達を集め、疲れきり倒れる寸前まで残る霊力を注がせた。
炎の使い手であるウリエルのような火力は、一介の天使達は持ってはいないが、小さな力でも纏まれば強力なそれになる。
勝利したとミカエルやガブリエルは素直に思わないだろうが、大勢の天使達は浮かれているだろう。そこを一気に突く。中央がどんな戦術を用いようが、この「塊」の衝撃力と殺傷力の前では意味がない。混乱を極めれば、彼等は白兵戦を選らばざるを得ない。
天界も天使達も好きだった。此処へ生まれた事と傍にある幸せに感謝していた。
けれど、それは等しく己にも与えられたものではなく、何も知らなかったからそう思えただけの事だった。知らなければ良かったとベルゼブブを恨みもしたが、それももうどうでもよい事になってしまった。
平穏で温かな日常はただの夢のように思える。
生まれ落ちて初めて見たのは不安に彩られた大きな黒い瞳。瞬きもせず、凝視するその瞳に、自分の姿が映っていた。思わずその白い頬を撫でると首を傾け、その瞳を見開き、しばらく躊躇った後、小さな手が自分の髪に触れたのがわかった。
その手の温もりがとても嬉しくてニッコリ微笑むと、相手は戸惑ったように瞳を揺らした後、恥ずかしそうに笑ってくれた。
神の咳払いでそのひとときは途絶えたが、あの時からミカエルに囚われた。この笑顔のためなら何を犠牲にしても構わないと。どんなに言葉を尽くしても、その気持ちを表せないくらいに。
裏切り者と蔑まれ、憎んでくれて構わない。
長い年月捧げてきた愛情に嘘はないが、ミカエルだけはこの仕組まれた真実を知らずにいて欲しい。 「塊」はこうして天界を壊し、幾千万の天使を殺めたが、きっとミカエルならば今まで以上の楽園を率いていけるはずだから。
どんな言い訳だと言われてしまうだろうが、壊したいのは自分が存在していたこの楽園。幸せだと錯覚していた自分。
「わかってくれ、なんざ言うつもりはねぇけどな」
剣の鍔を撫でながら歩みを進める。きっとミカエルは一人で来るだろう。きっと一人で来る。
想い出の場所は山ほどあるが、多分…あの草原へ。
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