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月の残り香
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 情報の通り、夜明けとともに北の軍勢は一気に押し寄せた。
 ラファエルの予想に違わず北の軍勢はエデンと天界の境に程近い場所から進軍してきた。

 朝日が昇る頃、遙か北の地平線上から、見渡す限りの光が目に映った。
 空に向かい真っ直に突き出された無数の武器。様々な紋章の入った旗や盾。



 あのルシフェルが理由もなしにエデンへ侵入したわけがない。エデンを取られると此方は中央から離れたエデンに気を取られ、力が分散してしまう。その隙を衝き、中央を落とすつもりなのだろう。

 そうはいくか。
 それまでのルシフェルとの付き合いの中で、彼はあれほどの力があるにも関わらず、決して周囲を侮るような真似はしないと理解っている。
 だとすれば、この戦いも確実に勝つ方法を考えるだろう。



 ミカエルに先陣を切らせて欲しいと話した時、案の定渋い顔をされた。無論それも予想はしていたが、エデン近郊はラファエルに一番地の利がある。

 ルシフェル以上に。

 きっとエデンを落とすのを前提として中央に攻め入るはずだと力説した事によって、結果的に軍隊を率いて此処で一番に戦う事を許された。



 空を仰ぎ、切なさを封印する。悲しむのは後でいくらでも出来る。



 戦闘開始の吼号が聞こえた。ラファエルは大きく息を吐き、手に馴染む剣を一度強く握りしめると迷いなくその渦中に身を投じていった。



 紅蓮の焔が大空を包んでいる。これまでにどれだけの敵方を屠っただろう。
 愛する天界の自然は見る影もない。飛び散る羽根が視界を狭くし、死にきれない天使達の呻き声と、どこか甘く感じる血の臭いが吐き気をもよおす。
 傷付いた味方を癒してやりたいが、斬っても斬っても湧き出るルシフェル勢を薙ぎ倒すのが先で、とてもそこまで行き着く事が出来ない。


 気が付くと、遠くで歓声が聞こえ、それと同時に周囲の殺気が散っていった。
 朝から休息もろくに取れず、剣を振るっていたため、身体は疲れ切っているはずなのに、気分が昂揚しているせいなのか疲れたと認識出来ない。もっともここで倒れるわけにもいかないのだが。
 しかし周囲の静寂と遠くの歓声がゆっくり馴染んでくると、どこからかハアハアと荒い息使いと、ポタポタと何かが小さな音を立てているのが聞こえた。

 怖々と剣を掴む両手に視線を落とす。

 己の両手は固まったように剣から離れず、その剥き出しの腕まで誰のものともわからぬ返り血で染まっているのに気が付いた。

 息使いが己のもので、垂れるのは汗と傷から滲み出た血だと理解した時、目の前に広がる悲惨な光景がそれまで以上に突き刺さってきた。

 天使と天使が戦う、しかも激しい白兵戦を交えるとは何と馬鹿気た事だろう。元は神の下に心をひとつにしていたはずで、愛を謳歌し、神を賛美していたはずなのに。



 剣を支えに膝をつくと殺気を纏わぬ気配を感じ、振り向かずに問い掛けた。

「…誰だ。何の用だ」

 その声は掠れていて別人のように聞こえた。

「ラファエル様。ご無事でなによりです。ミカエル様、アスマダイ様に勝利。ガブリエル様、モーロック様に勝利。ミカエル様とガブリエル様の勝利によって、北の軍勢は殆どの防御力を喪失し、退却いたしました」

 伝令の天使は、かつては仲間であった強大な座天使二名が敗れた事を告げ、次いで此処はウリエル様に任せ、中央に戻られるようにとラファエルに伝えた。


「……勝ったのかィ?」

 ガブリエルとミカエルが無事で良かったと安堵しながら、ラファエルは尋ねた。

「はい。情報によりますと、北の軍勢の約半分がラファエル様と戦っていたようです。しかし、ここまで此処が守りを固めていたのは予想外だったのでしょう。敵方の座天使二名を大将とした軍勢も、当初はミカエル様、ガブリエル様両軍と互角に戦っていたようですが、こちら(エデン近郊)の旗色が悪くなると、体勢を崩したようです」

「そうかィ。ってことは『あの二人』は今日は高みの見物ってヤツだねィ…」

 嬉々として報告した伝令は、ラファエルのその素っ気なさに戸惑っている様子だったが、ラファエルがそこで振り返り、「ご苦労だったねィ。俺もこれから戻る」とニッコリ笑って見せると、ホッとした顔をし、ラファエル軍の兵士達に指示を出し、傷ついた者を運ばせ、ウリエルがこれから指揮をとる旨を伝えていった。



   *****
 

 (そんな馬鹿な話があるか!…いや、俺は直々に聞いたのだからこれが真実なんだ。でも、駄目だ、どうしても止めなくては。この争いは不毛だ)
 
 思っていた通り、神殿ではラジエルが来る事がわかっていたようで、厳重に警備されている扉の前の兵士達はラジエルを見ると膝を折り、「中でお待ちです。お入り下さい」と、丁重に声を掛けてきた。

 生まれたその日に、優しい眼差しで声を掛けられて以来、大掛かりな書庫の改変がない限り、此処に呼ばれる事もなく、随分と懐かしいと思いながら扉を開いた。

 初めて見る摂政は、父なる神と変わらぬ穏やかな笑みを浮かべ、丁寧に挨拶したラジエルに頷くと、席を外し、奥へ消えて行った。ラジエルの要件もきっと知っていて、敢えて二人にしてくれたのだとわかると、その気遣いが沁みるような気がした。

 摂政の後ろ姿はエデンの「ヒト」とは違い、神にも似た静かで堂々とした佇まいがあり、きっと今回のこの争いのきっかけになった原因であるにも関わらず、ラジエルの心を捕えた。


 摂政が奥へ消えた後、神はラジエルの瞳をみつめ、此処へ辿り着いた事をまず褒めた。「お前を記録家にして間違いがなかった」と。
 しかし、今欲しいのは褒め言葉ではなく、三人の関わりだ。きっとその気持ちがわかったのだろう。少し悲しそうな顔をすると、ラジエルの求める答えを話し出した。



 ベルゼブブとルシフェルはミカエルという存在を守るために創られた天使である事。

 守ることにはその「死」までが含まれていること。

 二人の力のその理由。

 そして成人してからベルゼブブは正確にその使命を知っていること。

 ラジエルは何度も「何故?」と問い掛けそうになったが、その都度それはただ首を振られる事で遮られ、言葉を飲み込んだ。



 神が話を終えた後、ラジエルは神の右側をじっとみつめた。
 摂政の座るべき場所を見たまま言葉を失くしたように動かなかった。
 しかし、その瞳が意思を持ち、使命そのもののように光が宿ると、真っ直ぐ神に向かい口を開いた。


 それを聞いた神は僅かに目を見開いたがやがて頷き、ラジエルを抱きしめた。



 神殿を出るともう辺りは暗くなっていた。

 どのくらい居たのだろう。
 中では全く外の音がしなかったが、其処此処で燻ぶるような煙が上がり、風向きのせいだろう、血の臭いがする気がした。
 しかし戦につきものの音は一切しない。己が神殿にいる間に争いは終わったのか?まさか。
 中央の軍勢の数は北より少し上回るが、ルシフェルとベルゼブブ相手にこんなにあっさりと決着がつくはずがない。

 (休戦?と言ったところか?)

 神殿からミカエルの執務室やガブリエルの部屋、己の書庫がある建物までは長い階段を下る。
 飛んでしまえば良いのだが、そうはせず、階段からラジエルは北の宮殿をみつめた。

 ベルゼブブの過去は心が痛んだ。あれほど美しく生まれたというのに、きっと独りだったのだ、ずっと。 己に対する暴力はそれでも簡単に許せるものではないが、ルシフェルに執着した理由はよくわかる。

 摂政を見て、その大きさを実感したけれど、それでもルシフェルは神の右手に座るだけの懐の深さのある男だ。大らかで、強く、優しい。ベルゼブブが惹かれる事はおかしくもなんともない。けれど、少しづつ、歪みが生じていったのだろう。


 ベルゼブブを止める事は己では出来ない。けれど、ルシフェルならその可能性はあるかもしれない。
 多分どこかでベルゼブブはルシフェルに話したのだ。自分達の運命を。
 そしてルシフェルはそれをミカエルに告げるのを拒んだ。
 きっとそうなんだろう。
 どう考えてもミカエルへの愛情が失くなったとは思えない。

 それが愛情でなくて何だというのだ。ミカエルはそれを知ったらこの争いを拒否しただろう。天界を揺るがす戦いで自分以外の者達が傷つく事を諾としたわけがない。自分だけで答えを出そうとしたはずだ。

 ならば。

 ここまでお膳立てしたルシフェルの狙いは…

「憎まれたままで構わないから、ミカエル様に……」

 仮定でしかないが、多分間違っていない。ルシフェルはミカエルを殺す事などできやしない。そう、出来やしないんだ。
 出来るくらいなら、自分達の関係をミカエルに告げていたはずだ。ベルゼブブとルシフェルと立場は違っても、三人は深く関わっているのだから。

「…きっと、ルシフェル様はミカエル様のところに現れる。出来ればお二人が会う前にルシフェル様を見つけて……」



「おっと?それをされると俺ぁ都合が悪いんだがなぁ」

 忘れたくても忘れられないその声が聞こえた途端、ラジエルの全身に鳥肌が立った。

 (ここは神殿だぞ?在り得ない。…いや、きっと本物だ。この前と同じように)

「随分と元気になったじゃねぇか、退」

 変わらぬ侮蔑を交えたその口調と、夜の帳の中で深紫に見えるその双眸は、今しがた己が胸を痛めた孤独な少年ではなく、闇に心を囚われた天使だ。

「アンタ、こんなとこで油売ってていいんですか?まだ戦の最中なんじゃ?敵陣にのこのこ一人で何しに来たんですか」

 脅えの色を見せず、冷静に応えたラジエルに、ヒョイと片眉を上げ、ベルゼブブは応えた。

「言うねぇ。俺の下で泣き喚いていたヤツが、随分とでけぇ口たたくじゃねぇか」

「ええ。俺はアンタに犯られた。だけどそれが何だって言うんです?俺は今急いでるんで、アンタの相手をする暇はないんですよ。ルシフェル様を止めるつもりなんで」

「……だから俺ぁそれを止めに来たんだろ?まあいい。ここでお前を殺るつもりはねぇよ。騒げば神殿からいくらでも加勢されるからな。お前を動かさねぇようにすりゃいいんだからよ。ちょっと場所を変えようや」

 そう言って嗤いながらベルゼブブは短剣を煌めかせラジエルを誘導していく。

 (くそっ。時間がないというのに)

「アンタ、何で俺が神殿に居るとわかったんですか?」

 それでもまだ平坦な声を出すラジエルにベルゼブブは目を細める。

「書庫へ行ったんでな、お前を殺りに。この戦のカラクリを暴くとしたら、そりゃお前しかいねぇだろ?だから北で散々痛めつけてやったのによ。ヅラの奴だろ?お前を元に戻したのは。銀時からお前の事を聞いてなぁ、書庫へ行ってみたらもぬけの殻。で、コイツを見つけた。コイツを見たらお前のその先の動きなんて知れてるじゃねぇか」

 ベルゼブブの手にある本は、確かにルシフェルとミカエルの幼少の記録で。その中に出てきたベルゼブブの頁がわかるように羊皮紙の端キレを一枚挟んでいたわけで。

 本を凝視した後ベルゼブブを見たその翠の瞳が全てを語ったのだろう。

「賢いラジエルさんは、俺達の関係を知り、その上でコレを止めようとしてんだろ?」

 させるつもりはねぇけどな。ベルゼブブは妖艶に笑ってみせた。


   *****


 北の軍勢の防御力を喪失させた中央の軍は、活気に満ち、祝杯をあげているのだろう、天使達の笑い声の中にまだ冷めきらぬ興奮が伝わってくる。

 上空から近づくと兵士達の中にミカエルとガブリエルが見えた。
 確かに己も勝ち戦をしたのだが、二人の所へ行くのは躊躇われた。戦況は伝わっているはずだし、無事もわかっているだろう。
 此処は今日戦場にならなかったため、まだ緑が残っている。良かった。そう思いながらわざと梢に姿を隠し様子を窺う。

 二人は周囲の興奮の中にいても、厳しい表情のまま、何かを話している。
 それはそうだろう、どんなに敵を斬ったとしてもベルゼブブとルシフェルが健在ならば、この先幾度でもこの戦いは続いていくのだから。そして、今日の敗退のまま大人しく引き下がる可能性は無いと言っていい。

 と、その時、ミカエルが一人の天使を呼び、何か耳打ちするのが見えた。
 それを黙って見ているガブリエルの顔色は隣のミカエル同様、優れないのがわかり、少し胸が苦しくなる。

 不毛な戦いだ。勝たなければならないが、勝ったところで失ったものの大きさは変わらない。

「…斥候、か?」

 ラファエルの予想は当たっていたようで、その天使は中央軍の中から静かに独り動いていく。
 斥候の天使と二人を交互に見た後、二人の下へ帰らねばと思いつつも、衝動のままラファエルはその天使を追い掛けた。



「おい、ちょっと待ちなせィ」

 中央軍に声が届かない距離まで離れた事を確認してから、ラファエルは声を掛けた。
 気配を消して近付いたラファエルのその囁きに、天使は肩を震わせ振り向いた。

「俺でィ。心配すんな」

 ラファエルはいつもの微笑みを貼り付け、天使に告げた。

「あっ、ラファエル様。どうして?ミカエル様達が、ラファエル様のお戻りを今か今かと待っておられましたよ?どうして此処に?」

 ラファエルと分かり、緊張を解いた天使は、矢継ぎ早に質問を投げかけてくる。

「…お前、これから偵察に行くんだろィ?」

 質問には答えず、ラファエルは聞いた。

「は、はい。ミカエル様のご指示で、北のこれからの動きがわかればと。今日はどちらかというと、こちらの一方的な勝利だったため、逆に心配されているご様子でした」

「…俺が代わりに行ってくる。お前は十四郎さんに俺が行ったと伝えろ」

「えっ!しかし…」

「気になる事があるんでねィ。わかったら早く戻れ」

 何故強引に斥候を引き受けたのか、ラファエル自身にもよくわからなかった。
 一見、中央軍の勝利に見えるが、今日の戦いは、なんの事はない、ルシフェルもベルゼブブも姿を見せなかった事による勝利だろう。それ自体は理解していた。が、とにかく何かがしていたかった。

 明日の朝になれば、ミカエルかガブリエルの軍と一緒に交戦するのだろうが、出来る事ならその前にルシフェルかベルゼブブ、あるいは両方に会いたかったのかもしれない。

 何故、ラジエルをあそこまで傷つけたのか。何故ミカエルとガブリエルを傷つけたのか。両者へ対する想いは全く違うが、問うてみたかったのかもしれない。

 斥候役の天使はラファエルの口調に怖れを為したのか、小さく「わかりました」と応えると、それ以上抵抗することなく頭を下げ、ミカエル達の下へと踵を返した。

 エデン近郊の自然は昨日の戦いで見る影もなくなってしまったが、神殿周辺はまだ緑が残っている。
 煙と血の臭いは己の鼻腔から未だ剥がれてくれない。しかし、さわさわと音を立てる木の葉の音に少しだけ癒される。

 斥候役の天使が、中央軍から一番離れた松明を揺らしたのが微かに見えたのを確かめると、

「…さて、買って出ちまったもんは仕方ねェ。しっかり偵察に行きますかねィ」

 そう呟き、ラファエルは夜闇に紛れて行った。






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