月の残り香
V
膨大な数の本が溢れる書庫で、ラジエルは何を探せばよいのかわからないまま、普段はあまり踏み入れない禁書を集めた棚の並ぶ薄暗い場所でその背表紙を目で追っていく。
「見えてない」ものが何だとしても、それが仮に絶対的な力の産物なのだとしたら、こんな場所にいても答えは見つからないだろう。
そうは思っても、この不本意な戦いのその原因を探るのが、もしかしたら唯一の止める手段ではないか。という願いにも似た気持ちが止められない。
馬鹿だな、と思う。少なくともルシフェルが敵方になる事で、ミカエルの傍にこれまでとは違った形で居られる可能性も無いとは言えないのに。
傷心したミカエルをそのまま抱きとめて、代わりで良いからもっと愛情を表現したいと思わないわけでもないのに。
(だって、何でも出来るんだから。代わりに死ぬ事も恐れていないし、微笑んでくれるなら羽根を斬り落としたって構わない。でも…)
「………馬鹿だよなぁ、俺って。それでもやっぱり本当に望むものを戻してあげたい。なんて思うんだから。ほんと、俺、救えない。あー、もう馬鹿」
大きな溜息とともに漏れたその声は、微かに埃の臭いがする書庫に響いていく。
そのまま馬鹿だ。俺は馬鹿だ。と呟きながらラジエルはあてもなく探し続けた。
疲れきり、寝台の代わりに置いてある大きめの古びたソファに腰をかける。
そのまま肘掛に固いクッションをいくつか宛がい頭を乗せると片膝を立て、転がり出たクッションを抱え天井を見上げる。
その姿勢は背中の羽根が邪魔になるけれど、うまくするとその羽根が肩から腰にかけて毛布代わりになり、窮屈にも関わらず実は好きな体勢だったりするのだ。
外では天使達がバタバタと慌ただしく動いているのだろう、時折何かの声が聞こえたりドドドと駆け抜けるような振動を感じる。
あの二人が今どう過ごしているのかは定かではないが、何故俺を凌辱してまでミカエルを傷つける必要があったのだろう。ルシフェルが羽根を置いていった時点で、ミカエルは十分傷ついたはずなのだ。
ベルゼブブが拘ったこの瞳。何故あの時この瞳に拘った?確かに珍しいけれど、瞳のみならず、姿形はベルゼブブの方が数段美しいはずだ。力もミカエルやガブリエルと同等のはず。
(階級も俺より上だし…まあ、性格は悪いけど)
でも何故ミカエルにあれほど執着しているのだろう。それは随分前からなのか?
ミカエルとベルゼブブに特別な接点があるようには見えなかった。
恋敵だから?ベルゼブブならば、恋敵云々ではなく、好きな相手に直接アプローチしそうなものだ。
その相手がルシフェルだからか?だとしたら何故、ルシフェルと一緒に戦まで起こそうとするのだろう。
「……何の為に生まれて、何をするべきか、か。だとしたらルシフェル様はそれが原因で暴挙に出たのか?……何故?」
誰よりも寵愛を受け、誰もが当然に得られるわけではない愛を手にしていたはずなのに。
そして一見恋敵への憎しみに見えるベルゼブブのミカエルへの執着。
ルシフェルとベルゼブブを繋ぐものは一体何だろう。
*****
エデンは昨日の出来事がまるで無かったかの如く、平穏でほのぼのとした空気が流れている。
「ヒト」はラファエルの来訪を喜んだが、珍しく疲れた顔を見せるラファエルを気遣い、同時にラファエルの言った危機がすぐそこまで迫っている事を感じ取ったらしい。
気取られるなんて、と自嘲したが心の滓はそう簡単に無くなってはくれない。
ミカエルの四阿から急いで戻ったラファエルを待っていたのは、とりつくしまのないガブリエルの拒絶だった。
話はしてくれた。あの口付けとそれに纏わるだろう話以外の事は。
本当の心の痛みは、何があっても己に見せないつもりらしい。
諭すよう、宥めるよう、手を変え品を変え問い掛けてみても、ガブリエルは口を噤んだまま、その事だけは語ろうとしなかった。
見られなかったとでも思っているのだろうか。それとも、己に見られたところで関係ないという事だろうか。言葉を重ねていくにしたがって、胸が締め付けられていった。
「この話はもう終わりだ」
冷ややかな目で苛立ち混じりに言われた途端、胸の奥がツキリと酷く痛み、堪え切れず責めるような口調で問い詰めてしまった。
いつまでも子供扱いするなと。それほど頼りないかと。どうしたら一人前として認めてくれるのかと。
応えは長い沈黙の後の一言だけだった。「エデンへ戻れ」と。
柄にもなくグッと涙が込み上げ、悔しさのあまり、勝手にしろと四阿を飛び出した。
護らせてほしいと、己の前で、胸で、泣いてほしいとそう思っていたのに。ただ、それだけだったのに。
やるせなさと腹立たしさでどうにかなりそうだったが、それでもやはり苦しむガブリエルを一人にはしたくなくて、叱られた子供のように門戸の下で蹲まった。
しばらくエデンから動こう。きっと今戻ったところで同じことを繰り返してしまう。
本当に頼りないのかもしれない。ガブリエルがきっと思っているように、自分は子供なのだろう。
けれど戦いが始まるその時には必ず先陣を切ろう。いくら護りたいとガブリエルやミカエルが願ったところで、天界自体を揺るがす戦いで剣をとらないでいられる訳はないのだから。
感情的にならず本気で直談判すれば、ミカエルとて首を横に振ることは出来ないはずだ。
あのルシフェルも認めてくれるほどに剣の腕もあがったのだから。
これは、同族の戦いだ。見知った顔も斬ることになるのだろう。それは敵だといくら言い聞かせても、忘れる事の出来ない痛みを心に残す事になるはずだ。
けれど避けられない戦いならば、少しでも敵の数を減らすのが今の己に出来る事だ。後から続く仲間達のためにも。
そして、一人前だと認めてもらうためにも。
*****
その日目覚めるとそこは書庫でもなく、ガブリエルの四阿でもなかった。
滅多に帰らない冷えた空気の漂う部屋でラジエルは昨日の事を思い出した。
ガブリエルは四阿ではなく、水仙の薫る岸辺にラファエルと共に居た。
寄り添うように居るラファエルは先日のような悲痛な顔ではなく、ただ、ガブリエルを労わるように優しい表情をしていた。
それに胸中で安堵したものの、いよいよルシフェルとミカエルの対峙が避けられなくなった事で、取り乱した己をラファエルは抱きとめてくれたのだった。
(そうだ、今日北が進軍すると情報があり、それをミカエル様にお伝えしたんだった)
眠りながらその名を呟いた日以来、ルシフェルの事は一言も口にされなかったけれど、昨日ミカエルは言ったのだ。
「兄上は俺が斬る」と、それだけを。
そう告げたあの美しい顔はその胸の内を一切見せず、冷たい彫刻のようだった。
ラファエルは多分今頃もう戦っているはずだ。あの様子ではガブリエルにはその事を敢えて昨日まで伝えていなかったのだろう。己の言葉でガブリエルが目を見開いた様子でそれが窺えた。
「どうぞ、ご無事で。総悟様…」
祈りが届くようにと願いを込めて言葉にすると、ラジエルは起き上がりまた書庫へ向かった。
エデンはあのウリエルがガブリエルの兵士達と守りを固めている。
ラファエルの軍勢を両翼から守るようにガブリエルとミカエルは控えているのだろう。
本来ならば己もその何処かで武器を持っているはずだが、今戦うべきは其処ではない。
「生まれたわけとその使命」それが鍵なのはもうわかっている。
裏側で大きく動きがあったのは「ヒト」が摂政になった時だろう。ルシフェルは「ヒト」の事はどうでもいいと言っていたようだが、きっと「ヒト」も無関係ではない。
あの時北でルシフェルが言った「自由じゃない」という言葉を聞いた時は、天使達全体を指していると思ったが、きっと自由じゃないのはルシフェルだ。
ガブリエルとルシフェルの会話が正しいのなら、使命、もしくは生まれたわけがルシフェルを拘束しているのだろう。
ベルゼブブが公の場に姿を現したのが摂政の祝典を決めた後。だとしたら、ベルゼブブはその時、もしくはエデンが出来た時からルシフェルに動きをかけていたに違いない。
「ヒト」が絡んだ時から何かが進行し始めたと考えても良いのではないだろうか。
ベルゼブブとルシフェルが仲が良いのは知っていた。何故だかはわからなかったが、それはルシフェルの大らかさなのだと勝手に思っていた。
けれど、きっとそれ以外に今回の戦に至る過程があったのだ。
ベルゼブブとルシフェルの間で、見え隠れするのはミカエルの存在だ。
となれば、ミカエルがどう生きてきたのかを知るべきなのだろうか。
そう思い立ち、ラジエルはそれまでも目の前にあった一冊に恐る恐る手を伸ばした。
それはあまりにも当たり前に陳列されていて、良く知る(知っていたと今まで思っていた)二人が綴られているはずの物だったので、気にもとめていなかったのだ。
しかし二人に比べれば年若い己が天界に生まれる前に、二人がどう過ごしていたのかは考えもしなかった。
少し緊張しながら、頁をめくる。「幼少の二人」が綴られた一冊を。
「…えっ?」
読み終えた後、思わず出た言葉はそれだけだった。
何故?遙か昔、ベルゼブブはルシフェルだけではなくミカエルとも仲が良かったのか?そのきっかけを作ったのはミカエルだったのか?ベルゼブブはいつも二人の傍から二人を見ていたのか?
じゃあ、何があって己の知るベルゼブブになったというのだ。
どう見ても幼い頃のベルゼブブと、憎しみを露わにする今のベルゼブブが同一人物だとは思えない。
確かに大人になってからもルシフェルとベルゼブブの仲の良さは変わらないように思う。そこは納得できたが、ミカエルとの距離はなんだ?
ミカエルはベルゼブブがどんな態度をとっていても、挑発に乗り相手を貶めるような言動をとってはいなかった。少なくとも己が知る限り。
北へ行く事になった時、確かにミカエルは「晋助が北にいた」とは言った。
けれど、単純にベルゼブブが居たからそう言ったわけではなかったのか。
「愛情を裏切られた者が堕ちるのが地獄」ベルゼブブがミカエルにそう言ったからこそ、ベルゼブブの名を出したのだろう。しかし、裏切られるためにはそもそも信じる何かがなければならないはずだ。
ルシフェルに裏切られた事が地獄を見せているのだとしたら、ルシフェルの愛情がベルゼブブに向かっていた事実がなければならない。
けれど、それはずっとミカエルに向いていたのだから、ルシフェルがベルゼブブを裏切った事にはならない。
…そうか。だから腑に落ちなかったのか。
ルシフェルが裏切ったのはミカエルだ。そして、状況からするとベルゼブブのいう地獄を今見ているのはミカエルだ。
けれど、ベルゼブブがそれをミカエルに告げた時点で、「お前にはわからない」と言っていたのだから、『それ以前から』ベルゼブブはそれを見ていることになる。もしくはルシフェルも。
「…だとしたら…」
空気を求めるように呼吸が荒くなる。ドクドクと胸が脈打つ音が聞こえる。
気付きたくなかったと思うのは間違っているのか?
この仮定が間違っていて欲しいと願ってはいけないだろうか。
怒涛のように起こったこの一連の事件の衝撃で痛みに耐えかね「流されて」しまってきたが、単純な嫉妬や妬みが引き起こした事ではないのだ。
「彼等は父なる神に裏切られたと嘆いている。そして二人を繋いでいるのはミカエル様なのか?生まれた理由とその使命はミカエル様に繋がっている?」
在り得ない。そんなのはあり得ない。仮にそうだとしてもミカエルは全くわかっていないように見える。
知っていたらあんなに悲嘆に暮れる事はないだろう?その使命が仮にミカエルに繋がっているとしても、誰もが納得できるものならばこんな事態にはなるはずがないだろう?
それに、あのルシフェルがミカエルの傍を離れるなど、ルシフェル本人だって爪の先ほども思っていなかったはずだ。少なくとも北の祝典準備が始まるまでは。
最早答えを知るために出来る事はひとつだった。
身繕いをすませ、失礼のないよう正装をする。
この天界の何処かで始まってしまった戦いは止める事は出来ないだろう。
しかし、「ルシフェルとミカエル」の戦いは止める事が出来るかもしれない。
尤も止める事で得られるものは何もないかもしれないが。
此方から出向く事は生まれて初めてだ。でもきっと、己がその御前に首を垂れ、膝を折り問う事は、既にご存知なのだろう。
大きく深呼吸するとラジエルは神殿へと飛び立った。
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