月の残り香
U
一人で歩くのは久しぶりで、長い眠りから漸く覚めた気がした。
あの暴力の後、意識を取り戻したのはガブリエルとラファエルのお蔭で早かったはずだが、気持ちが落ち着くには時間が必要だった。
ミカエルに呼ばれ北へ向かったのはそれほど前ではない。けれど北から戻ってからの記憶はぼんやりとしていた。ガブリエルの処方してくれる薬湯を飲むと、うつらうつらしてしまい、物事を深く考えられなくなっていた事も理由のひとつではあるが。
心地良い波に浮かんでいるような感覚の中で感じたのは、気遣いと悲しみと抑えた怒り。どこにぶつけてよいのかわからぬような痛み。
周囲から笑い声は一切聞こえなくなってしまった。
多分、いや確実に戦いは始まる。
同じ天使なのに。しかもただ同族というだけじゃない。
己にとっては敬愛する男。ガブリエルにとってはきっとかけがえのない友。ラファエルにとっては兄のような存在。そして…ミカエルにとっては……。その男と戦うのか。
まだ信じられないが、それが現実だ。
何が出来るのだろう。本と羊皮紙に埋もれ、たまにスパイの真似事をしてるだけの己に何が出来る?
こうして自由に歩け、翼を駆る事がまた出来るようになったとはいえ、まだ武器を取るのは足手まといになるだろう。請われれば勿論戦線に立つつもりだが。
しかし…。
止める事ができない位に急速に転がったこの事態は、一体何が原因だったのだろう。
何故戦わなければならなくなった?ルシフェルはそんなに浅はかな男だろうか。それともそれまでのルシフェルが幻想だったのだろうか。
(…何かを見落としている…のか?見落とす?おかしくないか?俺は此処(天界)の記録屋だろう?見たくないものも見てきたはずだろう?そしてそれを綴るのが俺の使命のはず。なのに何故こうなった原因も、その意味もわからないんだろう)
ぼんやりとそんな事が思考を過ぎった時、ラジエルはハタと立ち止まった。
(見落としているのではなくて、何かが見えてない?)
冷静に最初から考えよう。死にそうな目に遭って屈辱と羞恥心でいっぱいになった後、気がついたらガブリエルの四阿で看病されていた。
起きたら、ガブリエル、ミカエル、ラファエルが居て、北での出来事、ベルゼブブの事を話した。
次に起きたらガブリエルは霊力を注いでくれた後、北へ向かった。
ガブリエルが居なくなった後は、ミカエルが様子を見に来てくれたはずだ。
北へ向かったはずのガブリエルと共に、ラファエルがエデンから戻って来たと思ったら、ルシフェルの伝言をミカエルへ伝えに行く事になり…。
その伝言はエデンでガブリエルとルシフェルが対峙した際、一方的に寄越されたもので…。
いや待て。
ガブリエルがルシフェルの伝言を、ミカエルに…
何かが腑に落ちない。
何だろう。俺は何が気になっているんだろう。
不協和音はいつから鳴っていたんだろう。あの時ルシフェルは北で何と言った?
ミカエルは何を理由に、何があったから北へ行ってくれと言った?
ベルゼブブはあの時何を言った?
何故わざわざルシフェルはガブリエルに伝言したんだ?ルシフェルなら寝首をかく事くらい出来るじゃないか。宣言して、争いを起こしてミカエルを殺す必要はないだろう?
変化してあのウリエルを騙しエデンに入ったんだぞ。
霊力も武力も桁外れなルシフェルなら、隙をついて直接ミカエルと向き合う事も可能なはずじゃないのか?
何故ここまでお膳立てする必要があった?この戦いの意味は何だ?
長い年月の間の、変わらぬ日常の中で何かがあったに違いないのだ。
ひっそりと誰にも知られぬところで。
きっとそれが原因だ。
今己に出来る事は、与えられてる断片を全てかき集め、その中から鍵を探す事かもしれない。
戦は止められないだろう。北で見た限り、たとえルシフェルが何等かの形で意趣返しをしたところで、天界の1/3もしくはそれ以上の天使が動き出してしまってる。
そしてそれ以上に中央のミカエルは止める術を持たない。「叛逆」の狼煙を上げた者を不問に付す事は、それが神への叛逆になるだろうから。
けれど、この戦いはやはりおかしい。
そこまで考えたラジエルは、それまでと打って変わったように何度か翼の具合を確かめる。
(そう言えば、今朝四阿から『あの花』の薫りはしなかったな)
その事がチクリと胸を刺すような気がしたが、その気持ちに蓋をして、ラファエルが付き添っているだろうガブリエルの下へ急いだ。
*****
「ラファエル様?」
森の四阿の外で所在無げに膝を抱えているラファエルに気付き、ラジエルはそっと声をかけた。
「…ん?ああ、退か。昨日はお前を残して悪かった。十四郎さんはどうしたんでィ?」
ラファエルは笑みを浮かべようとしているものの、あまり上手くいってない。
「あっ、いや、俺は大丈夫です。ガブリエル様が心配だったのでしょう?ミカエル様は…今朝はお会いせず戻って来ましたが。お一人になりたいかと思いまして。でもラファエル様はこんな所で何を?ガブリエル様は中に?」
「…いや、ちょいとしょーもない喧嘩をしたんでねィ。かといって、お前が戻る前に此処を離れるのはどうも…。小太郎さんは中に居るはずだし、お前の事を待ってるはずだ。薬の時間じゃねェか?」
ラファエルは、それ以上聞いてくれるなというように薄らと笑い、四阿の扉をのっそりと指差して見せた。
「喧嘩?ですか…?」
と返事はしたものの、それ以上問い掛けるのはまずい気がして、ラジエルは躊躇いながら扉を軽く叩いてみた。
中からガブリエルの声が聞こえると、
「俺ァ、まあ、経緯は聞いた。お前は小太郎さんと話をしたら、十四郎さんにそのまんま伝えて来い。小太郎さんの傷は大したことねェし、これから俺はエデンへ戻る」
ラファエルはそう言って此方を見ることもなく立ちあがり、ガブリエルがその扉を開く前に去って行った。
ガブリエルとラファエルの諍いは今に始まったことではなく、普段のそれは微笑ましいじゃれ合いだと思えていたが、今のラファエルの様子は気に掛かった。
昨日のラファエルはどう考えてもガブリエルを心から心配していたはずで、一晩の間に何があったのだろうとラジエルは訝しげに眉を顰めたが、まだ少し顔色のすぐれないガブリエルに「入れ」と促されると、ラファエルが飛び立った方を肩越しに振り返った後、四阿に足を踏み入れた。
「………何のために生まれて何をするべきか?それを考えた事はあるか?ルシフェル様はそう言われたんですか?「ヒト」の事はどうでもいい、と?」
ガブリエルの話を黙って聞いていたラジエルが、暫く難しい顔をした後で発した言葉を聞いて、それまでぼんやりしていたガブリエルはもの問いたげに口を開きかけた。
「あ、いや。いいんです。ミカエル様への伝言、ルシフェル様がミカエル様の首を取ると言われた事を回避することが大切だとわかっています。ただ、何だかしっくりこない。まだそれが何かって言えるわけでもないんですが…」
「…銀時が十四郎殿の首を取ると言った事が嘘だと、そう思えるという事か?」
ガブリエルは慎重に言葉を選び、ラジエルに問い掛けた。
「ああ、えーと…。そうではないんです。勿論嘘なら良いですよ、けど、俺が北で見た限り、虚言だとは思えません。北のアレは確かに戦の前のように感じましたし、事実斧や槍、剣を持った天使達が沢山いましたからね。ガブリエル様にルシフェル様が話した事は、宣戦布告なんだと思います。ただ…」
「…ただ?」
「ただ、わからないんです。それなら何故北で俺を殺さなかったんでしょう。赤子の手を捻るくらい簡単だったはずです。それに、それなら何故、ミカエル様に手紙など残したんでしょう。そして、貴方を殺す事もなかった」
ラジエルは事実のみを伝えるよう、淡々と告げた。
「それは…………あの時は総悟殿がたまたま駆けつけてくれた。その事は銀時にとって計算違いだったのだろう、きっと。そうでなければ、わからなかった…」
「本当にそれだけでしょうか。昨日の貴方は霊力が完全ではなかったはずです。俺に与えてしまっていたのだから。それはルシフェル様もすぐにわかったはずです。…その…、貴方が易々と組み敷かれた時点で。…ラファエル様もお強いですが、貴方を殺めた後、ラファエル様と対峙したところで、そう簡単にルシフェル様が負けるとも思えないんですよ。でも…」
「…それを避けた。と?そう言いたいのか、退」
「わかりませんが、その考えも間違いとも言えないかと。戦は避けられない。それは俺もわかります。ただ、戦ならば、甘えは許されません。チャンスがあれば、核になる天使を一人でも亡き者にした方が相手の陣営を御し易い。そう思いませんか?それに、本当に「ヒト」が原因ではないとしたら、何故戦う必要があるんでしょう。それがわからないんです」
ラジエルの言葉はゆっくりとガブリエルに浸透したらしく、まだくっきりと残る喉の痕に手をやり、ラジエルをみつめた。
「…そうかもしれんな、何等かのわけがあるのかもしれん。しかし俺が銀時を止められなかったのも事実だ。俺の問いかけはアイツの逆鱗にふれただけだったのだよ。そして戦いは始まる」
「…ガブリエル様…」
「そう気に病むな。俺は大丈夫だ。これからどうするか十四郎殿の所へ行ってくる。お前はどうする?」
ガブリエルは優しく微笑み、膝をポンと軽く叩くと立ちあがった。
その姿はいつもと変わらず、凛としていて、昨夜のような心許なさは見えないが、諦めに似た空気があり、それがラジエルを不安にさせた。
しかしその不安を悟られぬように隠し、それまでと同様に静かに応えた。
「俺は…、ちょっと調べてみたい事があります。考えてみたい事も。書庫にいますので、何かあったらそこに居るとミカエル様にも伝えていただけますか?それと…あの…ラファエル様と何かあったのですか?」
「………総悟の事は俺が悪かったのだ。まあ、お互いに少々時間が必要な事かもしれんな。心配するな。お前の事は十四郎殿に伝えておこう。くれぐれも無理はするなよ?」
「はい、ありがとうございます。……あの、ラファエル様は貴方の事を本当に心配して」
「わかってる。それはわかってる」
ガブリエルは寂しそうに笑って見せると、もう一度、心配するなとラジエルへ声を掛け、時間毎に飲むようにと薬を渡すと、静かに出て行った。
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