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月の残り香
U
 

 乱暴な足音が聞こえ苦虫を噛み潰したような顔で戻って来たルシフェルを見て、ベルゼブブは暖炉の前から立ちあがった。

 兵士達は宮殿の広い庭に各々テントを張り、熾天使でも有力なものは各部屋を宛がわれていた。

 ベルゼブブは自室はいらないと固辞し、毎夜この部屋の大きなソファで眠っている。鷹揚なルシフェルだが彼の寝室だけは別だ。決して誰も入れない。

 あわよくばと考えていたベルゼブブも今は諦め、傍に居る事だけで今は満足しようと敢えてこちらから誘惑しようとはしなかった。
 喉から手が出るほど欲しくはあるが、そうだからこそ仮初めの関係は不本意極まりなく、後の寂寥感が分からぬ程愚かなつもりもないからだ。

 かといって、変化でミカエルになり済ますのはご免被る。ルシフェル相手にそれがどこまで通用するのかも疑問ではあるが。



「銀時、どうした?エデンで「ヒト」と遊んで来た割には、つまんねぇ顔してんな」

 揶揄うように言ってやると、眉間に皺を寄せたまま

「…うるせーよ、晋助」

 とぞんざいな応え。

「…何か、あったか?」

 此処であの話を聞かせた後から、ルシフェルは兵士達の前を除いては滅多に笑顔を見せなくなり、その双眸にも暗い影が付きまとっている。
 簡単に他者へ手を上げる事こそない男だが、暗い瞳で見られると時々柄にもなく怖気が走る事がある。

 こうしたのは俺だ、と思う。

 何としても手に入れたかったから。そして話して聞かせたのは世迷言ではなく、隠された…あるいは知る必要のない事とされている真実でもある。

 時々ぼんやりと宙を眺めている時もあるが、その時ルシフェルが考えているのは自分の事ではないともわかっている。
 でも、もう元には戻れない。ミカエルの所には帰してやらない。
 そこが地獄だろうが、俺がこの男の隣にいるのだ。

 ミカエルを見る時のような優しい眼差しは決して手に入らなくても。

「…あ?…ああ、あったねー」

 フッと自嘲するように言うと、そのままルシフェルはベルゼブブに顔を向けた。

「…エデンでヅラに会った。話はしなかったけど、総悟くんも居たね。なーんかよぉ、全部知ってたぜ?…お前、退に何したの?」

「まあ、ボロボロだったアイツをそのまんまにした俺が言うことじゃねーけど?つか俺もヅラに酷ぇことしてきたけど?…アイツ死ぬとこだったって言ってたからよ。ヅラがそれ言うって事は今頃、退のヤツはピンピンしてっかもしれねぇけどな」

 何も言わないベルゼブブの返事を待つ事もなく、ルシフェルはそう言葉を重ねた。

 そして紫水晶を暗い瞳で捕えると、ちょいちょいと手招きをした。


 何だ?と言うように首を傾げながらルシフェルに近づくと、いきなりぐいっと手を引かれる。

 思わずよろけたベルゼブブの身体を抱きとめるようにしながらも、感情のこもらない瞳でベルゼブブを真っすぐにみつめ

「…確認しとくけどよ?晋ちゃんのアノ話、嘘じゃねーんだよな?嘘だったら俺、晋ちゃんでも殺っちゃうよ、きっと」

 と静かに告げた。

「!!銀時っ!お前っ!俺を疑ってんのかよっ!洒落で言える話じゃねぇってお前もわかんだろ?!」

 ベルゼブブはルシフェルの手を払い、怒りを滲ませて反論した。
 冷酷非道な暗殺者の自分が、今感じたこれは何だ。ちくしょう!こんな一言で傷ついたような気持ちになるなんて、それじゃどこぞの王子と一緒じゃねぇか。

「……。そんなにムキになんじゃねーよ。確認しただけだ。…明日俺が起きたらそろそろ本格的に動くぞ?…でな、晋助。お前……十四郎には手ぇ出すんじゃねーぞ?」

 ルシフェルは感情的になられたのが面倒なのか、鬱陶しそうに手をぱたぱた振りながら返事を寄越し、もう話しは終わりだという意味なのだろう、目を合わせる事もなくベルゼブブに背を向けた。

「…手ぇ出すなって、お前それ、どういう意味だ、銀時」

「…あっ?どういう意味ってお前、…十四郎は俺が殺るんだよ?」

 なっ?イイ子にそれは俺に譲れや、わかったな、晋ちゃん?とルシフェルは投げやりに笑い、そのまま振り返りもせず、その部屋を出て行った。


   *****


 腕を頭の後ろに組み、窓から見える月を眺める。

 ガブリエルの傷ついた瞳、怒りに震えたラジエルのあの言葉。遠くから聞こえたラファエルの悲痛な叫び。

 そして…

 生まれたその時から愛したミカエル。

 その全てを捨てた。

 あのまま無かった事にする事は出来なかった。他に方法はあったのだろうか。
 忘れてしまえば、もしくはそのフリをして過ごせば良かったのだろうか。
 一度はそうしようと考えた。けれど、巧みに隠していたはずの痛みをミカエルは気付き、あの美しい瞳は不安に揺れるようになった。

 手を貸したいと思っていたはずだ。出来うる限りの事をしたいと願っていたはずだ。
 そうするのは当然だと、何でも言って欲しいと、本当は真っすぐに此方を見て言いたかったのだろう、きっと。

 けれど、「何よりも愛するお前の存在」が、同時に己の心を削っていると話す事は出来なかった。

 それに、その発端など思いつきもしないだろう。当の本人のミカエルはきっと何も知らないのだから。

 今もまだ、この月を見上げながら自分の帰りを待っているのかもしれない。泣いているかもしれない。

 しかし、きっと優しいラジエルはこれから先どんな時もミカエルを支えてくれるはずだ。
 ラジエルは誠実で優しい男であり、見てるこちらが歯がゆくなる程無償の愛を注いでいる。
 きっと此処へもミカエルの笑顔を見るために単身来たのだろう。

 何があったかベルゼブブは言わないつもりだろうが、無事で良かった。
 ラジエルがいれば少なくとも心から気遣う者がミカエルの傍にいるということだ。
 武力では少々劣るが、その辺りはガブリエルやラファエルが補ってくれるはずだ。

 ―――でも願いが叶うなら、己のこの空虚をミカエルも感じて欲しい。それを埋められるのは互いだけなのだと思って欲しい。

「……なぁんてな。……んな事、今更無理だっつーの……」


 きっと今頃ガブリエルに言った伝言を聞いたはずだ。
 此処でラジエルにも聞かせた己の宣言と、あの伝言を聞いたらミカエルは剣を取るだろう。
 どんなに泣いたとしても、立ち向かってくるはずだ。


 幼い頃いつも己の背に隠れていた恥ずかしがりやの天使は、能力を発揮できるようになると、私生活以外の場では巧みにそれを隠せるようになった。
 自分から目立つような事は極力避けているが、公と私の姿を使い分けている。
 ガブリエルと己のように、観衆の中で剣を振るう事はしない。しかし日々鍛錬し、決して己やガブリエルに劣るような事はない。

 たまに手合わせすると、しっかりとした手応えを感じる事もあり、その時垣間見る僅かな興奮の色は、普段は隠していても実力は十分であることの紛れもない証拠のひとつだと思っている。



「…あー見えて大人しく殺られるヤツじゃねーもん…そんなやわな奴じゃねーって俺は知ってるからな。俺に簡単に殺られるんじゃねーぞ?俺をしっかり……」



 もう間もなく戦いは始まる。

 けれど今この瞬間だけは、このひと時だけで良いから、無くせぬ想いをもう一度だけ噛みしめたかった。

 そして明日目覚めたら、今すぐその身体を抱きしめたいと思うこの理不尽な気持ちが失われているといい。いや……消してしまおう。

「…今夜は…月が綺麗だ……十四郎…」

 他には誰もいない暗い部屋の中、ルシフェルの僅かに震えた声は静かに夜闇に紛れていった。






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