月の残り香
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天界の門番にいつも通りの挨拶をしたラファエルは、回廊を優雅に飛翔していく。
高く積み上げた大理石の白い壁は下界でいう巨大なアーチ形をしており、遙か頭上に見える天井は透明な一枚の硝子で出来ていて、壁との境には繊細な彫刻が施されている。
陽の差す時間にはそこがプリズムの役割を果たし、冷たく感じさせる御影石の床に様々な虹の模様を描き出す。
この時刻には壮大な星空を映していて、等間隔におかれた松明が月明かりを助けている。
その造形は優美そのもので、決して狭苦しさを感じるはずもないのだが、ラファエルにとっては空気の流れぬ地下牢の如く、何度行き来をしていても好きにはなれない場所だ。
何より音がしない。風も木々の香りも温もりも此処にはない。
エデンは大好きな場所だけれど、此処がもっと開放的で、こんなに無機質でなければいいのに。大理石と硝子で出来た巨大なトンネルではなく、下界で見る度に惚れ惚れする、川に架かった美しい橋のようなものであればいいのに。
「だいたい、思いきり上昇したら頭をぶつけちまうじゃねェか…」
言うまでもなく回廊を通る度にアクロバットを披露する必要は全くない。安全性と美観を大切にして造られた事も、誰に説明される必要もない。
けれど押さえつけられるような息苦しさをいつも感じてしまう。
そう思いながら出た言葉は遠くまで反響していった。
「おぅ!総悟くんか?こんな時間に何しちゅうが?」
目の前に立ち上がった大男を見上げ、「あっ、着いた…」と他人事のように思ったラファエルは、応える前に、いきなりその大きな手で栗色の髪をわしゃわしゃと撫でられ苦笑した。
「止めて下せェ」
笑ってそう言いながら身を捩る。ウリエルはラファエルがお気に入りらしく、その大きな身体にしては優しい仕草で会う度こうして愛情表現をする。
しかし今日はその灰がかった青い瞳に笑みを浮かべながらも怪訝そうな顔をしている。
「今日は大事な仕事なんでねィ。アンタと遊びたいのは山々なんですが、そうも言ってらんねェんでさァ」
いつもなら何のかんのと引き止めるウリエルが、ラファエルの深刻な声にその身体を屈めて真顔になった。
「…まだ詳細は話せやせんが、十四郎さんからの伝言です。これから小太郎さんの軍の一部がエデンに配置されやす。アンタは、小太郎さんの軍を通したら、小太郎さん、十四郎さん、退以外の天使をこっから通さねェで下せェ。特に…旦那とアイ…晋助さんはダメですぜ」
思わずアイツと呼びそうになり慌てて普段のまま言い直す。今の時点ではラジエルに何が起こったのか、何を見てきたのか、この男にも洩らすわけにはいかない。
祝典準備の盛り上がりをラファエルから散々聞いていたウリエルは、今のラファエルの言葉に口をポカンと開けている。
「…金時と晋助か?しかし、何でまた…」
「いや。今はとにかく、それだけ頼みやす。俺はこれから「ヒト」に会ってきやすが、用件が済んだら、小太郎さんと合流しやす。んで、辰馬さん、この話は内密に」
わけがわからないという顔をしているウリエルに一気にそう言うと、わからないなりにそれでも頷くウリエルに再び、「頼みやすよ」と言い残しラファエルは夜の帳が降りたエデンへ入っていった。
*****
自軍の中でも変化の得意な部下達を北の近くへ潜り込ませ、自分もそちらで指示を出していたガブリエルに伝令が来たのは、ラファエルがエデンに去ってから三日後の事だった。
あの後ミカエルは、弱さを見せた事を恥じるように背筋を伸ばし、軍の配置やその装備についてガブリエルにも意見を求めながら詳細をテキパキと決めていき、ガブリエルの不在時は、時間を作りラジエルの様子を見に来るから必要な処置を教えて欲しいと言ってきた。
回復にはまだ時間が掛かりそうで、この状況でいつまでもラジエルが動けないと、攻め込まれる際一番最初に犠牲になってしまう。
ガブリエルの四阿は高位の天使の中では北の宮殿を除くと中央から特に外れていて、この森を通れば北とそれほど距離はない。
考えたガブリエルは、ミカエルに「これから一日だけ時間が欲しい」と告げ、その間だけ此処でラジエルを看ていてくれないかと頼んだ。
「一刻も早く中央で指揮を執る事が大切なのは勿論だが、せめてラジエルが自力で動けるようにしておかないと、お前も俺も気がそぞろになりはしないか?」
ミカエルは承諾し、ラジエルが目覚めるのを確認してから中央に発つとガブリエルを安心させた。
その間にガブリエルは、信頼できる部下数名に北近郊とエデンに分かれ警護を怠らないよう指示を出し、半日遅れで北へ合流するのでそれまで持ちこたえてくれと頼んだ。
そして四阿へ戻ると霊力の殆どをラジエルに注いだ後、「では頼む」と憔悴しきった顔でミカエルに言うと、よろよろと自室に入り、そして泥のように眠った。
ゆっくり覚醒していくガブリエルの耳に控えめな声が聞こえる。
どうやら誰かが呼んでいるらしい。
(しょご君か?)
ふと思った後、
(ああ、しょご君はエデンか。そうだ、十四郎殿と二人でしょご君をエデンへやったんだった)
と思いだす。
「……ガブリエルさま?」
その柔らかい声にゆっくりと瞼を開いていくと、まだ顔色の悪いラジエルが心配そうに此方を覗き込んでいる。
(…あっ……)
それまでの記憶が繋がり、ラジエルに微笑みながらまだ少しふらふらする上体を起こし、ぎゅっと目をつむると少し乱暴に頭を振った。
「…ガブリエルさま?」
「…大丈夫だ。退、お前はもう起きて大丈夫なのか?羽根の調子はどうだ?」
グッと背中を伸ばした後寝台を降りたガブリエルは、確かめるようにラジエルの傷を見ていく。
「…俺、俺……。あの、ええ。まだ飛べるかどうかはわかりませんが、動かせるようになりましたし、足もこの通り。ゆっくりなら歩けます」
「ほらね」とぎこちなく動かしてみせる。
「…でも、とてもお疲れのように見えます。俺のせいで、迷惑をかけました。あの…、お二人は一体どこに? ミカエル様は俺が目を覚ますとすぐに此処を出て行かれましたが」
自分の方が今にもまた倒れそうなのに、此方を気遣う様子がいかにもラジエルらしく、フッと笑みが漏れた。
それに情けない笑みを返したラジエルに、「心配するな」と声を掛け、ミカエルとラファエルの居場所と、ラジエルが寝ている間の取り決めを聞かせてやる。
ガブリエルの話を静かに聞いていたラジエルは、ラファエルの言うように自分は身を隠している方が今は良いのかもしれない。お役に立てないのはとても心苦しいが。とガブリエルに告げた。
それに対しガブリエルは、もう幾日もせず動けるようになるだろうし、それから手を貸してくれれば十分であること、最悪のケースを想定し今はとにかく力を戻す事がお前の仕事なのだと、ラジエルの目の下の隈を指でなぞりながら言い聞かせた。
「俺はこのまま北へ向かう。十四郎殿は中央にいるがお前の様子を見に此処へ来るだろう。その時少しでも元気になっている姿を見せてやる事がアイツの重荷を減らす助けになる」
そう言葉を重ねると、ラジエルは真剣な面持ちで大きく頷いた。
必要最低限の説明しかしなかったにも関わらず、北に居た自軍の部下達は、咎めもせず質問も寄越さずにキビキビと動いてくれていた。
不在を詫び、各々を労いつつ、今後の指示をしていたガブリエルは、慌てふためいた伝令の言葉を聞き、とるものもとりあえずエデンへと向かった。
『ガブリエル様っ!ウリエル様から早急にエデンへお越しくださるようとの伝言です。何者かが我々の中の誰かを偽り、エデンへ侵入したそうです。お急ぎ下さい。』
『―――わかった。俺はすぐにエデンへと飛ぶ。お前はこのまま十四郎殿にそのままお伝えしてくれるか?十四郎殿は中央におられる。』
(早い、早すぎる。まだ漸く警護の準備が始まったばかりだというのに。エデンへ入ったのはどちらだ。晋助か?銀時か?晋助なら総悟殿が危険だ。あの辰馬を欺く変化をしたというのなら、晋助なのか?エデンならばまだ危険が少ないと考えた十四郎殿と俺の大きな誤算だった。総悟殿と晋助を会わせてはならない。「ヒト」を盾にとられたら総悟殿とて普段のようには動けまい。それに、晋助の事で頭に血が上っているはずだ。頼むから接触していないでくれ)
心臓がドクドク音を立てているのがわかる。
脳裏に森の中でのラジエルが何度も浮かび、それがラファエルの姿と重なる。
血を流し虚ろな目をして倒れていたラジエルと。
*****
ガブリエルの到着を落ち着かない様子で待っていたウリエルを、長い黒髪を後ろで結びながら睨みつける。
がっしりとした体躯を穴があったら入りたいと言わんばかりに丸め、どちらが不審者かと思うほど、瞳はせわしなく動く。
いつもは豪快に笑う大きく形の良いその口は固く結ばれ、拳を握りしめては開き、仕置人の面影は全くない。
お前ならと信頼していたのにと口に出さなくても表情が告げていたのだろう、ウリエルは項垂れた様子でガブリエルに報告する。
「…すまん、小太郎。ワシの失敗じゃ。おんしの部下じゃと思うたんじゃ…」
聞けばガブリエルの部下達が通った後、一人だけ遅れてきた下級天使が来たらしい。
「もうガブリエルの部下達はとっくに此処を通ったから帰れ」と言ったウリエルに対し、「ガブリエルからの伝言をエデンの兵士達に伝えなければならない」と応えたという。
下級天使はしごく申し訳なさそうな顔をしながら、「このまま帰ったらガブリエル様に叱られてしまう。早急に伝えなければならないのだ」と懇願したらしい。
ラファエルから、ガブリエルの部下とガブリエル、ミカエル、ラジエル以外は通すなと言われていたウリエルは、暫く考えたが、ガブリエルの部下なら仕方ないと、その力を使う事もなくあっさりと門を開いたと言うのだから、ガブリエルは額に手をやり溜息し、肩を落とすしかなかった。
ウリエルは、エデンが創られてからこれまで、一度たりとも不審な者を通した事がなかった。
その者に邪な心が見えればその炎が牙を剥き、エデンの平和を担っていたわけだ。
にも関わらずの今回の失態は、ウリエル自身その矜持を傷つけられたようで、その狼狽ぶりは見ているこちらも辛くなるものだった。
ガブリエルはそれ以上咎めだてするのを止め、もう一度大きく溜息をついた後ウリエルに聞いた。
「で、辰馬。お前は何故その者が偽者だと気付いたのだ」
「それがのう…、偶然だったんじゃが」
ガブリエルの言葉に、少しでも失態を挽回したいウリエルは饒舌になった。
その下級天使を通して暫く経った後、エデンにいる「本物」のガブリエルの部下がウリエルの下へ来て、「ガブリエル様がいらしたら、自分達は東西に分かれ茂みや木陰で「ヒト」に悟られぬように待機をしている、どちらかにお顔を見せていただければこちらの状況はわかるようにしてあると伝えて欲しい」と言ったらしい。
その時に「さっきの伝言は受けたか?」とウリエルが何気なく問うと、その天使は眉を顰め、「伝言など聞いていないし、伝令は万が一を考えて寄越さないと元々ガブリエル様から言われている。作戦は中央で全て聞いてきたから」と応えたという。
それを聞き青褪めたウリエルは、偽者の天使を見つけ出すようにと伝え、至急ガブリエルを寄越すよう頼み今に至るのだ。と告げた。
「…事情はわかった。で、その不審な者は捕える事は出来たのか?総悟殿は知っているのか?」
「いや…、偽者は捕まったようじゃが、総悟くんが知っているのか、総悟くんが捕まえたのか、それがワシにはわからん。小太郎、すまんかったのう」
本音は不味い事になったという思いで一杯だったが、心底すまなそうな表情のウリエルには、
「起きてしまった事は仕方なかろう。これから先また手を貸してもらう事もあるだろうし、その際は今度こそよろしく頼む」
そう言葉を掛けた。
そしてガブリエルは気を取り直すように一度深呼吸をすると、眦をあげエデンへ足を踏み入れた。
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