月の残り香
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ミカエルの言葉で不安が拭えたわけでもなさそうだったが、しかしそれまでより穏やかな顔になったラジエルに、それぞれ無理をさせてすまなかった、しっかり休むように、何かあれば遠慮なく声をかけろと伝えると、やはり疲れたのかラジエルはコクリと頷いた後ゆっくり瞳を閉じ、その寝顔を後にして三人はまた向かいの部屋に腰をおろした。
「まさか晋助があそこまで非道な真似をするとはな…しかし銀時はどうしてしまったのだ。信じられん…」
ガブリエルは誰にというわけでもなく、口にした。
「…ですが、理由がどうあれ、こいつは大変な事になりましたねィ…」
ラファエルは天井を仰ぎながらそれに応える。
「……北が戦闘も辞さないつもりであれば、こちらもそれに備えなければならないな。…総悟。お前はエデンの住人に念のため警告してくれ。…小太郎。エデンと北の近辺の警護を頼めるか?俺は中央で指揮をとる」
つい先程の動揺が嘘のように、ミカエルは淡々とガブリエルとラファエルに告げた。
「…アンタ。…いきなり…。言うことはそれだけなんですかィ?」
確かに間違っちゃいねェですがね。と冷静なミカエルの言葉にラファエルが声を尖らせる。
「おい、総悟殿、止さないか」
「…いや、総悟の言う通りだ。…小太郎。総悟。言葉が足りなくてすまなかった。お前達が居てくれたお蔭で、退は助かった。何とか少しでも事態を好転出来るよう、手を貸して欲しい」
ガブリエルに礼をするよう微笑んだ後、ミカエルは俺が悪かったと、二人に頭を下げた。
「…敵わねェや、十四郎さんには。そう素直に言われちゃ、責めらんなくなるじゃねェですかィ…」
チェッ、つまんねぇの。と面白くなさそうにラファエルは言う。
「十四郎殿。あまり自分を責めるでないぞ?退の事は十四郎殿の所為ではないだろう?それに今考えねばならぬのは北の動きだと総悟殿もわかっておるだろうに…」
ガブリエルの言葉にミカエルは目を伏せ、ラファエルはへーいとそっぽを向きながら返事をした。
「で、祝典はどうするのだ、やはり中止か?」
ラファエルの態度にチラリと苛立ちを見せたガブリエルだったが、あらためてミカエルに問い掛けた。
「…それなんだが…」
とミカエルは眉根を寄せる。
「…こうしたらどうですかィ?」
真顔になったラファエルは、提案した。
ミカエルとガブリエルは自軍だけ静かに準備させ、表向き祝典の準備は進める。ルシフェルはベルゼブブとラジエルの一件をどこまで知っているのかわからぬが、おそらくベルゼブブはラジエルが生きて戻ったとは考えていまい。
とすると、此方は北の出来事を知らない事になる。
ならばラジエルはこのままこの四阿で静養させ、此方が知っていると敵方に覚られぬように動けば良い。
「中央がいきなり祝典を取り止めたら、こっちが臨戦体制を整える前に叩こうと、すぐにでも何か仕掛けてくるんじゃねェですかィ?まあ、これも賭けですがねィ」
「…そうだな。小太郎、どうだ?」
ラファエルの提案を吟味していたミカエルは、ガブリエルに水を向ける。
「うむ…。退はこのまま暫くうちに居て貰おう。総悟殿はやはりエデンへ行ってもらった方が良いだろう」
浮かれてる天使達の中にあちらが仕掛けてきたら、ひとたまりもあるまい。かと言って祝典を取り止めたと公にわかれば、混乱が生じ統制がとれなくなりかねない。その機に乗じて攻められれば取り止めた此方が敵だと見做す者も出ないとも限らない。
確かに賭けで、うまく行ってもどれだけ時間が稼げるかはわからないが。
ラファエルの提案が今は最善の選択肢なのだろう。
ミカエルはガブリエルの返事を合意と受け取り、小さく頷くと真っすぐ二人をみつめ、まずラファエルに告げた。
「総悟。今から飛べるか?」
「勿論でさァ」
「エデンの入口で辰馬に伝えてくれ。兄上と晋助に気をつけろと」
「へィ。んじゃ俺は行きやす。小太郎さん、アンタ無理しちゃいけやせんゼ。十四郎さんもお気をつけて。アイツらにうまいこと警告したら、俺は小太郎さんに合流しやす」
てっきり反論するかと思ったが、思いのほか素直に応えると、ラファエルはすれ違いざまガブリエルの片頬に唇を落とし、片手を上げると四阿を出て行った。
残されたガブリエルとミカエルは顔を見合わせ、安堵の溜息を吐いた。
そして疲れ切った二人はそのまま口を閉ざし、部屋は重苦しい沈黙が支配した。
*****
様々な感情が渦巻き、腹立たしい思いでラファエルは飛翔し続けていた。
あの二人は嫌いだ。
いつも何かがあると笑顔を無理やり貼り付けるか、まったく感情の見えない表情で気持ちを隠す。
此方にはその痛みが、さもバレていないとでもいうような顔をして。
何もかも自分で抱えようとして。
エデンへ、と言われたのはあの二人が己を隠したいからだ。
またラジエルのような姿を見るのが辛いから。愛する者が傷つけられるのを見るのが怖いから。愛する者にこれ以上傷つけられるのが悲しいから。
確かに神を除けば、自分よりあそこに住まう「ヒト」が心を開く相手はいないだろうし、きっと彼等に必要以上脅えさせることなく、重大さを伝えられるだろう。辰馬も己の言葉ならミカエルの意思を違えまい。
しかし…。
まるで雛鳥を守る親のように己を巣箱に入れた。愛されているのはわかっている。だから聞き分けの良い子供のように素直に四阿を後にして来た。
けれど、俺は雛ではなく男なのに…。その気持ちが拭えない。
争いの渦中から離れ、安寧とする事を潔しとするとでも思っているのだろうか。
ルシフェルならこんな時、共に立たせてくれるだろう。「へぇ、やるじゃないか」そう言ってニヤリと笑ってくれるだろう。こんな風に囲わずに。
そう思うと、彼等が感じているであろう悲しみとは別の寂しさがこみ上げてくる。
自分は何も気付かなかった。北での祝典も、粋な計らいだと素直に思っていたし、ミカエルの感じていた違和感も全く感じなかった。
だから今日、偶然とは思えない欠員の多さに不信を抱いたものの、ラジエルのあの姿を見るまでは、水面下で何が起こっていたのかわからなかった。
ラジエルは隠しているつもりだろうが、ミカエルを想っていることは本人以外の近しい仲間は皆気付いていると思う。きっと晋助もそれを知っていたからこそ、ああまで痛めつけたに違いないのだ。間接的にミカエルにも苦痛も与えられるから。
ラジエルのあの献身的な愛し方は到底真似出来ないが、でもだからこそ、多分自分の楽しみのために傷つけた晋助の行為を許せない。
己がラジエルの彼らしさを護りたいと思うのと同様、あの二人に護る価値があると思われるのは幸せな事だとは思うが、直接対峙するのを阻まれた。
認めていると態度に示しつつも盾となり護るべき者と未だ捉えられているのだと、やはり腹立ちを抑えきれず、耳元で煩く鳴る風に向かい思いきり叫ぶ。
「っアンタらなんか!…大っ嫌いだぁぁぁぁ!!」
天界の断崖が見え、そこを目指しゆっくりと舞い降りて行く。
その地面と宙の際に立ち、彼方をみつめると、下界は今日厚い雲に覆われていて、ラファエルの好きな、晴れた夜に見える「ヒト」の営みを示す小さな光は見る事が出来ず、代わりに滅多に吹くことない北風の冷たい吐息が頬や手足を撫でていく。
ウリエルに会う前に此処で少しだけ気持ちを落ち着かせたかった。
*****
ラファエルが去った後の四阿は沈黙が支配していた。
こうして二人きりで面と向かうのは珍しく、考えてみれば今まではいつもミカエルの傍らにはルシフェルかラジエルがおり、ガブリエルの隣には当然ラファエルがいた。
彼等の止むことないお喋りの中で苦笑し合うのが二人だ。求められれば話しするものの、それ以上に口を開く間もない。二人ともどちらかと言えば言葉少なな性格であるからかもしれないが。
だからといって、二人は互いを嫌悪しているわけではなくむしろ認め合っているわけで、多分こんな状況でなければ、こんな沈黙も心地良く感じるはずなのだ。
ラジエルの寝る部屋からも物音ひとつせず、ガブリエルとミカエルは何度か互いを探るように目を合わせては逸らした後、やるせない笑みを浮かべ合った。
「…………俺達は兄上の言ったように怠惰なのか?誇りを失っているのか?」
先に沈黙を破ったのはミカエルの唐突な問いだった。
「…俺も同じ事を考えていたのだが…」
「エデンの「ヒト」の存在が、「ヒト」が摂政になる事が、俺達の誇りに影を落とすとは思えない。お前はどう思う?」
ミカエルはガブリエルに重ねて問うた。
「…そうだな、俺もそうは思わない。誇り高く在りたいと常々思っている。…それを護るための戦いがないとは言えないが…しかし己が戦うべきはまず己の心だと思うぞ。誇りを持つとは、そういったものではないのか?銀時は、俺達が反論ひとつせず、「ヒト」を認めている事に対して、誇りを失くし、怠惰になっていると言っているのだろうが…」
ガブリエルは、これで伝わるだろうかと困惑気味にミカエルをみつめた。
ラジエルに北の出来事を聞くまで、ルシフェルの言った事を一度たりとも考えた事はなかったガブリエルにとって、ルシフェルの発言は理解し難い。
天使達は皆、神の意思で生まれる。
それぞれの使命を持つのは即ち神の一部だということだ。
だからこそ、使命に誇りを持ち司る。
個としての生き方を否定されてはいないが、それはあくまで「親」である神があってこその自由だ。
ルシフェルはそれを否定することで、自分が神となろうとしているのだろうか。
「いずれにせよ大事に至る前に何とか止めたいものだな」
「…確かにな。しかし北で言った言葉は取り消す事はできまい。このままではいられないだろう?兄上も晋助も、今、北にいる仲間達も」
「…そしてそれをお前は裁かねばならない。そうだな?十四郎殿…」
優しくそう言ったガブリエルへ、ミカエルは救いを求めるような悲しい表情を、一瞬だけ向けた。
「…それが俺の使命だ。神への信頼を無くした者は此処にいる事は出来ない。それなくして神の寵愛を享受する事は出来ない」
「……………」
「仮にまだ、そこに望みがあるとしても、大勢の仲間を巻き込んだ責から逃れる事は出来ない。…退は何か悪い事をしたか?立ち上がれなくなる程痛めつけられる何かをしたと言うのか?退に関してはお前達に黙ってあいつを一人で行かせた俺の責任だが…。しかし、あの穏やかな退が大勢の中、たった一人で苦言を提すほどの兄上の暴言を、無かった事に出来るか?お前達が一目見ただけで危険な状態だった退を、兄上も目の前で見たはずなのに何もしなかったんだぞ?あのままお前達が見つけなかったら、今頃あいつはその存在が消えていたんじゃないのか?兄上が直接手をかけなかったにしろ、それでは晋助と同じじゃないのか?兄上というだけで俺が俺の使命を放棄するわけにはいかない。だろう?」
そう言ったミカエルの双眸は、見たことのない愁いに充ちていた。
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