月の残り香
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聞きなれた羽音が聞こえ、ラファエルがミカエルを連れて戻ってきたのだとわかった。
さて、どうしたものか。あの言葉だけでどこまで繋げる事が出来るのだろう。
ラファエルがまた感情的にならずにいてくれれば良いのだが。仮にミカエルが絡んでいるのなら、あの男の事だ、こんな状態のラジエルを知れば心を痛めるに違いない。
ただ…。このままにしておけるものでもない。
「…小太郎?退は…」
緊張した面持ちでミカエルが声をかけてきた。その後ろには眉間に皺を寄せたラファエルがいる。
「ひとまず、出来る処置は施した。しかし今は寝ているのでな。あちらで話そう」
「…わかった。でもその前に退に会いたい。顔だけでも見せてくれ」
「小太郎さん、俺も…」
ミカエルとラファエルにそう言われ、ガブリエルは頷くと、かつてラファエルの部屋だった扉を示した。
二人は静かに扉を開けると奥に眠るラジエルの下へ進んだ。
ラジエルの姿を見た途端、ミカエルの顔はラジエル以上にみるみる蒼白になっていく。
「…そんな…」
そう呟いたミカエルはラジエルの前にカクンと膝をつき、肩を落とした。
「俺達がコイツを見つけた時、コイツは虫の息でした。後もう少し遅かったら…」
ラファエルの言葉にミカエルはビクリと身体を震わせる。
「…俺が…頼んだ。俺が行かせた。兄上の様子がおかしかった。それに…晋助が北にいた」
まるで血を吐くような苦しさを滲ませミカエルは言い続ける。
「小太郎に…頼もうかとも考えた。いや、俺がもっと危機感を持つべきだった。もっと俺がやれる事があったはずだ。俺は…自分の不安を退に押し付けた。退ひとりに…」
「…十四郎殿…」
あまりに苦しそうなその声に思わずガブリエルが声をかける。
しかしミカエルはその言葉を振り払うように首を振ると、そっとラジエルの手を握ろうとした。
その指先が触れた瞬間、
「…はなせっ!はーなーせぇぇぇ!!!しんすけぇぇぇーーー!!!」
バタバタと身体を捩りながら意識が戻っているはずのないラジエルは絶叫した。
「やめろーーー!!いやだっいやだぁぁぁっ!!うわぁぁーーー!!」
慌ててガブリエルはラジエルの下へ行き、諭すよう、安心させるよう低い声で語りかけ、ラファエルを見る。
わかったというように、ラファエルは歌を奏で始めるが何かを堪えるかのようにその声は上擦ってしまう。
ミカエルは、想像した以上にラジエルが傷つけられた事を知り、呆然としたまま動けなくなっていた。
思いつめた貌をしたミカエルを見遣り、悲痛な表情を浮かべたガブリエルは口を開いた。
「十四郎殿…。俺達に話してはもらえまいか」
ラジエルをどうにか落ち着かせると、ガブリエルは気持ちを宥める薬湯を入れミカエルとラファエルに飲ませた。
三人とも沈痛な面持ちのまま何も語らず、ラジエルの眠る部屋の向かいの部屋で座ったまま時間だけが過ぎていた。
「十四郎殿。…退は意識を失う前、お前の花が枯れると言った。心当たりがあるのではないか?」
ガブリエルの静かな問い掛けにハッと顔を上げたミカエルの双眸は揺らめいて見えた。
その奥にある消す事の出来ない痛みも隠せずにいるようだ。
しかしミカエルはラファエルとガブリエルを交互に見つめながら、ラジエルが北に向かった理由を話しだし、「あんな姿でラジエルが戻ってきたという事は、花が枯れるという事は、兄が北に居る理由が祝典のためではないと確信した」と最後に言った。
そしてそのまま両手に顔を埋め、それきり口を噤んでしまった。
重苦しい空気が流れる。ミカエルに掛ける言葉もなくルシフェルの照れた顔ばかりが思い浮かんでは消え、ミカエルと同じくらい己の心も砕けたのだなとガブリエルは思った。
その空気を破るようにラファエルが静かに席を立ちあがる。
「……?総悟?」
その音にミカエルが顔を上げ、訝るようにラファエルに問い掛ける。
「…起こしてきやす、アイツを」
真剣な顔でラファエルはそう言うとそのままラジエルの眠る部屋へ向かおうとした。
「――っな、何をするのだ総悟殿!ようやく落ち着いたというのに!」
ガブリエルも立ち上がりラファエルを止めようとその肩に手を伸ばす。
しかし
「…アンタら凹む暇があったら、あんな風になりながら此処まで戻ってきたアイツが何を伝えたかったのか、きちんと聞いてやりなせィ。色惚けしてる場合じゃねェでしょうが。退をあんな風にした奴は、俺がキッチリおとしまえつけてやりますゼ。前から気に入らねェ奴だったんでね。けど、「花」と「晋助」だけじゃこっちは動くに動けねェじゃねェですか。こいつはヤバイ感じがするんでね」
そう言いながらラファエルは優しくガブリエルの手を離し、視線をミカエルに向けた。
「……ああ…」
暫く考えた後に、ミカエルは頷いた。
「…総悟殿…、わかっているだろうが……」
「安心して下せェ、小太郎さん。無茶はしないで。…十四郎さん、いいですね?」
決心が鈍る前に済ませたいというようにラファエルは二人に薄っすらとした形だけの笑みを送り、付いて来てくれと手振りで告げた。
しんと静まり返ったその部屋に入ると、今は穏やかな寝息を立てているラジエルを少しの間じっとみつめ何かを考えていたラファエルは、意を決したように手を伸ばし、ラジエルのその顔から胸にかけてゆっくりと撫でていく。
「退、起きなせェ。俺達がいるから安心して目を覚ましなせェ」
囁くようにそういいながら両手でラジエルの瞼にも手を翳す。その動きには無駄がなく、ミカエルとガブリエルはその背後で何も言わず見守っている。
幾許もなく、左肩を下にして眠っていたラジエルの瞼がその手に導かれるようにピクリと動くと、何度か睫毛を震わせた後、見事な孔雀石が現れた。
まだぼんやりしている様子だが、はじめにラファエルの姿を捉えると、そのまま視線をその後方へゆっくりと向けていった。
「…ああ、夢か。ミカエル様が見える…」
まだ少し掠れた声で言った後、ギョッとしたように目を見開き、飛び起きようとする。
「!馬鹿かお前は!そのまま寝てなせィ!」
慌てたラファエルは、口調はキツイが優しい仕草でラジエルの身体をそっと寝台へ押し返した。
ミカエルは、すっとラジエルのすぐ側に歩みを進め、視線が合うように床に膝をつく。そして労わりと愛情を込めてラジエルをみつめた後、
「…まだ顔色が悪い。そのまま聞いてくれ。…退。すまなかった…」
と苦しそうに口を開いた。
「お前がこんな事になるなら俺はっ―――」
真摯なその瞳には深い後悔が見える。しかしミカエルの言葉は何かが込み上げたのか途中から続かなくなってしまった。
「そんなっ。違います!違うんです。俺が…俺が軽率だった…それだけ…なんです…」
慌ててミカエルの謝罪を否定したラジエルだが、そのまま目を逸らしてしまう。
その声に脅えを感じたミカエルは戸惑いを隠せないままガブリエルを振り返る。
ガブリエルはラジエルの悲痛な表情とミカエルの困惑を認めると
「…十四郎殿。悪いが少しだけ席を外してもらえないか?しょご君、お前もだ。すぐに呼ぶのでな」
と少し困った顔で言った。
何かを言いかけたミカエルだったがガブリエルのその顔を見て、「わかった」と諦めたように応えると、不満気なラファエルと共に部屋を後にした。
二人が出て行った後ガブリエルはラジエルの前に座り、その手を軽く握ると穏やかな顔できりだした。
「晋助にやられたのだろう?わかってると思うが手当をしたのは俺だ」
「…はい。ガブリエル様。感謝しております」
「…お前も困ったヤツだな。感謝して欲しくて言ったのではないぞ?お前の傷は…目に映る傷は全て見た。これで意味がわかるか?」
ガブリエルは逃げようとする瞳を決して許さず、静かに続けた。
「―――ルシフェル様を奪った者に抱かれたのがわかれば、ミカエル様は俺を許さないだろう。アイツはそう言いました…俺っ俺の身体なんかいいんです!どうなったって!それにもっと大切な事を伝えなきゃならない。わかってますけど…けど、軽蔑されてしまう。――――アイツの臭いがついた俺はもう見て貰えなくなる!傍に…傍に居れなくなってしまう!…それがっ…怖いんです…」
ラジエルはその希有な翠の双眸を涙で一杯にしながら苦しさを吐き出した。
「…呆れたヤツだな。お前の孔雀石は飾りものか?」
フッと笑いながらガブリエルはラジエルの髪を優しく撫でる。
「…ガブリエル、様?」
キョトンとした顔をして此方を見るラジエルに
「…お前の大切な十四郎殿はそんな薄っぺらな男か?お前の想い人は強く高潔で美しい男ではないのか?…今回の事でお前が辛い思いをした事は、皆残念だ。しかしな、お前が受けたのは暴力だ。ただの暴力で、お前はあの男の被害者だ。それを受け止めるには時間が必要だろうが、それが事実なのだ。わかるか、退?」
そして、
「お前が一体どんな思いで此処まで戻って来たのか、何故こんな身体になってまで伝えようとしたのか、わからぬ男ではあるまい?晋助を、あの男を軽蔑する事があってもお前を軽蔑などするわけがなかろう?あの男に暗示でもかけられてしまったか?お前のその叡智の瞳は曇ったのか?」
そう言って雫の伝った両頬に触れるだけの口づけを落とした。
ガブリエルは二人をラジエルの居る部屋に呼び、ミカエルをラジエルの側に座らせた。
「大丈夫か?」と目配せをするミカエルに大きく頷いて応える。
ミカエルがラジエルを見下ろし、柔らかく微笑むとラジエルは少しぎこちなく笑みを返し、その後三人に森の中から北への出来事を淡々と語りだした。
この森の中で出会った天使は変化をしたベルゼブブだったこと。それに全く気が付かなかったこと。
此処で出会ったのは偶然ではなく、神に反旗を翻すため有力な天使達を誘惑する目的で中央に入り浸っていたこと。
ルシフェルがミカエルに宛てた手紙はベルゼブブにとっては大きな誤算のようだったこと。
この中の誰かが北へ行くだろうと予想されていたこと。
…力が足りず暴力に屈したこと。
北の宮殿で見た天使達の姿やその数。その中には仲間だったはずの者が何人も居たこと。
皆戦いに挑む前のように興奮していたこと。
そして…
ルシフェルが別人に見え、そのルシフェルが言ったこと…。
「…で、気が付いたらこの森に入っていて、それでガブリエル様の声が聞こえたと思ったら、そしたらそれから…わからなくなっちゃいました…すみません」
「―――で、お前はどうやって宮殿を出れたんでィ?」
黙って聞いていたラファエルは、「変化もバレて、アイツに引っ張ってかれたんだろう。何でそれで宮殿を出られたのか聞いても当然だろう?」と問い掛けた。
「…あっ。それは……」
急に恥ずかしくなったのかラジエルは視線を泳がせ、自分が大勢の前でルシフェルに対しどんな啖呵を切ったのか、呟くようにつけ加える。
それを聞いたラファエルは傑作と大笑いし、ガブリエルはこめかみを指で押さえながら、笑いを堪え、ミカエルはよく戻れたものだと苦笑した。
話を終えて俯くラジエルの頭をポンポンと叩いたミカエルは
「ご苦労だった、退。よくやってくれた。お前のお蔭でこちらも準備ができる。辛い思いをさせて済まなかった。しばらくゆっくり休め。元気になったらまた忙しくしてもらうぞ?いいな?」
ニッコリ笑って言った。
ラジエルに笑いかける顔には両手に顔を埋め心痛に耐えようとしていた面影はない。
その笑顔を見たガブリエルは、その表情が霊力を使って完璧に見せている事がすぐに分かった。
今ここで笑えるわけなどない。
当たり前だ。誰より愛する相手が事もあろうに神に叛逆しようとしている。それは神への裏切りであると同時に恋人や友への裏切りでもあるのだから。
『十四郎とお前は似てるからな』
ミカエルの苦しみがそのまま自分の心にも苦痛を与えたその時、銀色が優しい笑顔で言った言葉が此処でまた聞こえたような気がして、
(ああ、その通りだ。俺達は似てる。同じ男を想い、気持ちを痛ませながらも笑うのだ。それがどんな事かお前にわかるか?…銀時…)
そうガブリエルは心の中で呟いた。
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