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月の残り香
V
 

「ああ、何だって今日はこんなに忙しかったんだ」

 溜息をつきながらミカエルは首を回し、コキコキと音を鳴らすと両手を組みそのまま頭の上までぐうっと持ち上げた。

 ラジエルが居ない今日、謀ったように何人も休まれ、すべき事を後回しにして奔走した。そのお蔭で余計な事を考えずに過ごせたが、どうやらもうひと踏ん張りする必要がありそうだ。



 もう一度大きく溜息をつき、さて何から片付けようかと考えたその時、まるで弾丸のような勢いで白い塊が執務室へ飛び込んできた。

 驚いて立ち上がった拍子に椅子が物凄い音を立て背後に転がった。
 
「!なっ!何だ?…総悟?…」

 目の前の塊はゼイゼイ肩で荒い息を吐き、両手を膝に乗せたまま此方を見上げた。
 癖のない栗毛は汗で顔に張り付き、ブランデー色の瞳だけが異様な輝きを放っている。

「…顔…貸して…もらいやす…」

 ハアハアと苦しそうな呼吸をしながらも有無を言わさぬと眼差しはきつい。

「…顔?…何言ってんだ。俺は今から……」

「貸してもらいやす」

 まだひと仕事やるのだからお前に付き合ってる暇はないと言いかけたが、その言葉を告げる前に遮られ、むんずと腕を掴まれる。

「!おい!いきなりどうした?離せ!」

 わけのわからぬ展開に戸惑ってはいるが、ラファエルの暴挙に眉を寄せながら声音は強くなる。

 しかしラファエルは掴んだ腕を離そうとはせず、ぐいぐい引っ張りながらこちらを見ず抑揚のない声で言った。


「退が……早く来なせェ」

「…………えっ?」

 ラジエルは北にいるはずで、しかもそれはラジエルと己しか知りようのない事だった。
 しかしラファエルのいつにない様子と今その口から出た名前が頭の中で繋がり、急に胃から何かが込み上げるような気がした。

 抵抗しなくなったミカエルをチラリと見て、ラファエルはさも嫌そうにフンと鼻を鳴らす。

「…ったくアンタはいつもいつも。ちったァ俺達も信用して下せェよ。一体アイツと何やらかしたんでィ」

「…退は…どうした…?」

 聞くのも恐ろしく、縋るような声が出るのが情けない。
 ラファエルは歩みを止めず、でも此方を振り返ると

「…はぁ?こっちが聞きてェや。ったく、小太郎さんとこで洗いざらい話してもらいやすからね」

 とにかく急ぎやしょうとバサリと翼を広げた。



   *****


 昏々と眠るラジエルの顔をみつめ、ガブリエルは腕を組みながら何が起こったのかを考えていた。

戦闘における傷ではなく、まるで一方的に痛めつけられたような傷。己の予測通り、情交の後も窺えた。
 情交?違う。あれは合意の上であれば出来るものではない。
 両膝の裏はドス黒く腫れており、どこから戻ったのかよく歩いて此処まで来れたものだと感心する。
 言うまでもなく、羽根があの状態では羽ばたくことはおろか、動かす事も出来なかったはずだ。

 意識を失う前に言ったあの言葉は、おそらくあの花を指しているのだろう。
 珍しくルシフェルから此処を訪ね、時間を過ごしたあの時に、自分が教えたあの花を。




「よっヅラ」

 前触れもなく訪ねてきたのはひそかに想いを寄せる双子の片割れの銀色。その姿を見た途端、心臓が跳ね上がった。
 しかし、その後ろにいつもは黒真珠がいるはずだと、自然と銀色の背後に視線がいってしまう。
 そんなガブリエルにクスリと笑うと、

「今日は俺一人。十四郎は神殿行ってて何日か戻って来ねーんだ」

 だから暇でよぅ、とルシフェルは言った。

「暇つぶしに俺を使うな」

 と素っ気ない返事をしたものの、今日はラファエルも下界に行っており、二人で過ごせる滅多にない日になりそうで心が弾む。

「んな事いうなよ、じゃ、あれだ。お前が詳しい薬草とかさ、そんなやつ教えてくんない?十四郎がいつも、お前はすごいってそりゃもうベタ誉めなのよ。手伝うからさ?で、そしたら稽古でもしねぇ?」

 何だか複雑な気持ちでもあるが、悪い気はしない。銀色と剣を交えるのは楽しいし、この男がその手で土をいじるのを見るのも、興味がある。

「お前が?稽古はともかく草木をいじれるのか?」

 揶揄うように言ってやると、大袈裟に胸を張り、

「任せろよ。俺に出来ねぇこたぁない」

 と宣った。

 その姿に威厳も何もなく、あの黒真珠もこれを見て心に灯が燈るのだろうか、とチラリと思考を過ぎったが、

「…二言はなかろうな、銀時?」

 とニヤリと笑ってみせた。



 ガブリエルは森をゆっくり進みながら時々立ち止まると、この木の皮は煎じて飲むと良いから、と小刀を出し幹を削り、開けた野原に行けばしゃがみこみ、ルシフェルにひとつひとつ指差しながら教えていった。 予想に反してルシフェルは模範的な生徒であり、葉や茎を指で扱いて香りを確かめてみたり、「これは知ってるぞ」と自慢気に笑ってみせたりしていた。


 天界ではルシフェルとガブリエルは甲乙付け難い剣士と言われ、何かの折には必ずと言ってもよいほど、剣舞を披露させられる。鋭い刃物を扱うそれは並みの剣士がすれば大怪我になりかねないが、大ぶりのその二本の剣は寸分の狂いもなく舞い踊る。

 そんな二人が腰を屈め、草木について語っている姿は知らない天使が見れば随分と滑稽に見えるだろう。

 しかしガブリエルは実力こそあれ、本来は剣を取るよりも癒者としての姿の方が落ち着く。

 ガブリエルは、この来訪が、決して日常にならないのは百も承知にもかかわらず、ルシフェルがそんな自分の領土に踏み込んでくれたように思え、なんとも言えない幸せを噛みしめていた。



 陽が傾けかけた頃、「さてそろそろ行くか」と声をかけつつも、もう少しこの時間を楽しみたくて少々遠回りをしながら四阿へ向かおうとした時、ふいにルシフェルがガブリエルの腕に手をかけ、鼻をひくつかせた。

「なぁ、ヅラ…。この香り、何?」

 ああこれかと笑うと、ルシフェルは笑わないで教えてくれよと重ねて聞く。

「…これか?…これは幸せの香りだ」

 目を細めながら応えると、

「あ?わっかんねーよ。ちゃんと教えろよ」

 何の香り?どこから漂ってんの?と焦れた様子で言い募る。


 クスリと笑いルシフェルの手を取ると、目立たない低木の茂みへと連れて行く。

「銀時、これだ。梔子という花だ。素晴らしい芳香を放つだろう?花言葉は、『幸せを運ぶ・私は幸せ』というのだそうだ」

「…私は幸せ…か」

 ガブリエルの言葉を聞いたルシフェルは、その白い花をじっとみつめながら何かを想い浮かべ柔和な笑みを見せた。
 それは今日一緒に過ごす間見たものとはまるで種類が違い、黒真珠はその存在が此処になくても銀色にこんな顔をさせる事が出来るのだなと、胸がズキリと痛んだがそれには気が付かないふりをする。

「香りだけでなく、美しい花だろう?こんなにひっそりと咲くのにな。どうだ、十四郎殿への手土産にしては?きっと喜ばれるはずだぞ?」

 美しい彼にピッタリではないか。微笑む己のその顔に寂しさや悲しみは浮かんでおるまいな、と考えつつそう言うと、




「…お前も美しい男だよ?」

 ニッコリ笑って銀色が言った。

「―――!」

 ガブリエルはその瞳を大きく開き、口をあんぐりと開けたまま頬を染め上げた。

「なっ!何を言っている、銀時!」

 その動転ぶりが可笑しかったのか、してやったりと言わんばかりの顔をしてルシフェルはニヤニヤと笑っている。
 この男は全く、此方の気も知らずにいきなり何を言うのだ。


「クククッ。ヅラでもそんな顔することあるのな。けどよ、お前もお前が思ってる以上に綺麗な男だよ?
ほんとにそーいうとこ、お前と十四郎は似てる。自分だけわかってねぇの」

 (お前を慕って止まねぇヤツもいんのに、気付いてねぇだろ?あの栗毛くん、とかな。ま、わかってねぇもん俺がどうこうするわけでもねーけど)


「…十四郎殿と俺が似ているのなら、きっと彼はこの花が好きになるだろう」

 (人の事をそんな風に言うお前が一番わかっておらんのに。どれだけ此方の気持ちをかき乱せば気がすむのだ、この銀色は)

 苛立ちを隠し、労わるように花を枝から切ると、とにかく持って帰れとガブリエルはルシフェルの手に梔子を握らせた。



「…ああ、きっとアイツも好きになる」

 手の中の花をみつめ、少し照れたような顔でルシフェルは呟いた。



 あの花が枯れるとラジエルは言った。それは…何らかの裏切り?…なのか?
 そのために今目の前で眠る男はこんな酷い有り様になったのか?
 誰が?誰を?もしくは―――何…を?





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あきゅろす。
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