[携帯モード] [URL送信]

月の残り香
U
 

 階級も下で大した武力も持たない己が吐いた言葉に茫然としたのだろうか。
 ルシフェルもベルゼブブも言葉を返す事もなく、その場で粛清されるわけでもなく、気が付けばベルゼブブに凌辱された森の外れに来ていた。


 振り返れば宮殿の松明は先ほどと変わることなく赤々と燃え、遠くに彼等の雄叫びが聞こえる。誰も追いかけて来る気配はない。
 ルシフェルの魅力とベルゼブブの誘惑に囚われた彼等にとって、己は負け犬でしかなく、それよりもルシフェルの言う天使の誇りを取り戻す事で頭が一杯に違いない。

 一体ミカエルに何を言えばいいのだろう。どう伝えればよいのだろう。
 暗雲は散らせず、ミカエルと自分だけではなく、更にこの天界全体を覆う事になるのだろう。

 本気だったのだろうか、ルシフェルは。本当に叛逆するつもりなのか?
 ベルゼブブは彼に一体何をしたのだ?

 突き動かされるかの如く、あの場であんな風に言いはしたものの、未だ信じる事が出来ない。否、信じたくない。



 ベルゼブブ…。その名が頭に浮かんだ途端、散らされた羽根と己のか細い悲鳴、そしてそれを嘲笑う紫水晶のどこまでも冷たい瞳を思いだし、カタカタと身体が震えだす。

 (…しっかりしろよ、俺。まだ駄目だ。考えちゃ駄目だ)

 そう自分に言い聞かせ、宮殿に背を向け森へと入って行った。この先にはあの岸辺がある。
 そしてその先まで行けばもう一人ではなくなる。あともう少しだ。よし、と重い腕を上げ頬を叩き気合いを入れようとして、

 (……あっ……)

 両頬が濡れていることに初めて気がついた。
 
 いつから泣いていたんだろう…カッコ悪過ぎだろ、俺。と自嘲するように笑おうとすると、表情筋は引き攣ったようにしか動かず、傷だらけの身体は凍えるように冷たくなっている。
 きっと酷い顔をしているんだろう。せめて涙を拭かないと。とぼんやり考えた時。


 背後に物音が聞こえ、途端に心臓が激しく音をたてた。

 また誤信したのか?追っ手が気配を消し追跡していたのか?嫌な汗がじんわり身体を濡らしていくのがわかる。

 戦えるだろうか。それともミカエルに伝える前に此処で結局消されるのだろうか。
 いや、何も役に立てなかった己に出来るのはもう、事実をミカエルに伝えることだけだ。

 やるしかない。腕すらまともにあげられそうにないけれど…。

 声のした方向へ向き直り、拳を堅く握りしめた。



「……其処にいるのは誰だ?隠れずに出て来い」

 言葉の主をその声だけでわかりえたことで、ラジエルは言い知れぬ安堵を覚えた。

 途端にそれまでの緊張が嘘のように解け、まるでぜんまいの切れた人形のように、へなへなとその場へ倒れ込んでしまった。

 考えてみれば、ベルゼブブと対峙した時からずっと気持ちを張り詰めていたわけで、満身創痍になりながら、あの孤立無援の状態でルシフェルに正面切って堂々と反論したわけだ。今まで立っていられただけでも奇跡に近い。
 「ああ」と声が漏れた途端、世界はぐるぐる回り出し、やっとの思いでその名を口にした。


「…ガブリ…エル…さま…」

「―――退殿っ?!おい!退なのか?!」

 ラジエルの小さく掠れた声を頼りにガブリエルは慌てて駆け寄った。

「どうしたっ!何があった?おいっ総悟殿!来てくれ、退がっ!」

 何故か焦点の合わなくなった孔雀石で懸命に確かめる。
 そうだ、この瞳は間違いない。

 (ご本人だ、良かった……)



 (…ああ、ラファエル様もおられるのですね。もう俺、大丈夫だ……。うん、大丈夫。でも、こんなに近くにおられるのに…何故だろう、お二人の声は水の中から聞こえるみたいだ。―――あ、何か聞かれてる?応えなきゃ…俺。…あ、ガブリエル様、駄目ですよ、何で泣いてるんですか?お綺麗なその瞳に涙は似合いませんから…。―――あれ?…ラファエル様怒ってらっしゃる。ごめんなさい、俺失敗しちゃった。………何だろう?俺…何を失敗したんだっけ?何だっけ…大事な事を伝えなくちゃ。えーと、今言いますら。……あれ?お二人で喧嘩なんかしないで下さいよ。ほんと仲が良いですよね…ルシフェル様とミカエル様みたいだ…ん?ああ、そうだった、ミカエル様に何か伝えなきゃならないんだけど……)



「…はなが。みかえるさまの……かれてしまう…みかえる…さま………」


 漸く発したラジエルの声にならない声に、ガブリエルとラファエルが蒼白になる。
 二人は顔を見合わせ、口を開けたままラジエルに向き直る。

 ぼんやりとした視界の中に二人の真っ青な顔が大きく映ったのを最後に、ラジエルの意識はなくなっていった


   *****


 神殿の警護をこの時間の責任者に任せ、問題があればすぐ伝令を寄越すようにと言い含め、さて帰ろうかと四阿へ向かおうとしたガブリエルは、森の入り口で栗色の髪の天使の柔らかい微笑みを見つけた。

「小太郎さん!」

「…しょご君ではないか。もう随分前に帰っただろうと思っていたのだが」

 終わるには終わったのだが何となく人恋しくなり待っていたのだ、と愛らしい口を尖らせ上目使いでボソボソと言う様が、幼い頃温もりを求め甘えてきた時と重なり、疲れも忘れ、思わずプッと噴き出してしまった。

「な、何でィ!」

 途端に顔を紅くして怒り出す。ああ、本当に可愛くて堪らない。

「まあそう怒るな、しょご君?俺のところで神酒でも一緒にどうだ?」

 宥めながらもクツクツ笑いが止まらず、ラファエルのブランデー色の瞳にキッと睨まれる。
 悪かったと何度も笑って言えばようやく機嫌を直し、じゃあ、とニッコリ笑う。
 


 ラファエルはもう立派に自分のすべき事、出来る事をこなしているし、それを誇らしくも思っているが、己にとっては自分の名を「そうご」と発音出来ず「しょーご」と言っていた頃のままだ。
 無論それを彼にわざわざ伝えはしない。
 こうして甘えてみたり拗ねてみたりしていても、このところやけに、子供扱いするな、とムキになるから。
 
 二つの祝典への期待で天界はいつにない盛り上がりを見せている。それは決して悪くはないが、興奮し過ぎた天使達の悪ふざけ、勢い余って喧嘩をする者達、摂政に会いにいこうと神殿に入ろうとする不埒な輩。それらを自軍の部下達は厳しく取り締まっている。

 今朝、実際警護する者達を纏めてくれている部下に、「当番の者が何人も出てこないのです」と泣きつかれ、ならば仕方あるまいとガブリエル自らその任に就いた。
 それほど大変な事が起きたわけでもないが、行く先々で天使達に呼び止められ変化や癒しについての質問に応えたり、初めて会った下級天使達からは握手を求められたりと、警護よりも他の事で気疲れした一日だった。

「…で、今日は何でまた小太郎さん自ら、あちこち飛び回ってたんですかィ?」

「ああ、それか?南ブロックの者が2人、神殿前広場で1人、それから救護班で1人だったか。休みの者がいたんでな」
 
 彼が気付くほど飛び回っていたのだろうか。

 まあ仕方ないだろう?と微笑んで応えると、それまで子供のような無邪気な笑顔を見せていたラファエルが、ん?と顔を顰めた。
 
「…?しょご君?」

 急にどうした?と尋ねると

「…俺んとこも何人か来なかったんですよねィ…」

 何で今日に限ってこう重なるんかな。もう祝典間近だってェのに。十四郎さんとこはどうだったんだろう?ただの偶然かな。と首を傾げた。

 確かにミカエルも今日は忙しそうにあちらこちら動き回っていたようだ。
 何度かすれ違った折に、退はどうした?と聞くと、今日に限って所用でいないのだと苦笑していた。
 そう教えると

「まあ、アイツはいつも動きが読めないですからねィ。けど、ただでさえ北に人手を取られいつもより廻せるヤツが少ない上、アノ人のとこも俺達のとこみたいだったんなら、アノ人の事だ。アンタと同じように自分一人で何役もこなすんでしょう。だとしたら、らしくもなくバタバタしててもおかしくねェや。でも退のヤツはこんな時に何をやってんだか」

 とラファエルはどこか上の空で応える。

 まるで自分は誰が休もうが関係ないと言ってるように聞こえ、ガブリエルは全くお前はと言わんばかりに眉を上げた。



 せせらぎの音がはっきり聞こえるようになり、さわさわと風に揺れる木々の囁きにほうっと溜息が洩れた。
 大勢の天使達と過ごす事は決して苦痛ではないし、己の使命に不満などないのだが、この静寂に癒される。
 この気質を知っていたからこそ、ラファエルは成人すると同時にここを離れたのだろう。
 それは全く予期していなかったことで、最初に聞かされた時は驚いたものの純粋な思いやりと独立心なのだとすぐにわかった。

 いつでも戻ってきていいのだと言葉にはしなかったが、ラファエルの部屋は居た時と同じまま、何も手を加えずにそのままにしてある。

 この森もラファエルにとっては広い庭のようなもので、どこから見つけてくるのか良い香りのする草や、何故か小さい頃から夢中になって集めていた綺麗な小石を、お気に入りの木の洞に仕舞いこんだりしていた事が脳裏に甦る。



 懐かしい想い出に顔が綻んだその時、ラファエルが突然殺気を漲らせ囁いた。

「…小太郎さん。誰かおりやす」

 その声にハッとなったガブリエルの表情が一瞬にして難くなる。
 口には出さず視線とそぶりでラファエルにあちらから回れと示すと、ラファエルは小さく頷く。

 二手に別れ、何者かの気配を探りながら木立の間を進むと、細い枝が羽根を掠め、カサリと音を立てた。 思わず舌打ちしそうになりグッと堪える。暫くそのまま周囲を窺うと、前方にラファエルのものではない殺気を確かに感じた。


「……其処にいるのは誰だ?隠れずに出て来い」

 ガブリエルは静かに声をかけた。

 すると何かがくしゃりと倒れ込む音がして、そのまま耳を澄ませると、ようやく聞こえるような声で己の名を呼ぶ声がした。

「…ガブリ…エル…さま…」

 それを聞いた途端、弾かれたようにその声の下へ急ぐ。
 気配を消すのももどかしく、ただその声だけを頼りに必死に瞳を凝らし進んでいくと普段は輝いているだろう羽根が視界に入った。


「―――退殿っ?!おい!退なのか?!」

 目の前には血の気が失せ真っ白な顔色のラジエルが、身体を小刻みに痙攣させながら倒れている。

 その身体をそっと抱き上げ呼び掛けると、虚ろな孔雀石の双眸が懸命に己の瞳に何かを捜し、フッと緩い笑みらしきものを浮かべた。
 頬には幾筋も涙の跡があり、今もぱたぱたと音をたて、ガブリエルの腕を濡らしている。

「どうしたっ!何があった?おいっ総悟殿!来てくれ、退がっ!」

 鋭い声に応えるようにラファエルの羽音が聞こえ隣に立つのがわかる。
 見上げるとラファエルは愕然とした面持ちでラジエルを凝視している。

「何があったのだ。誰がこんな酷い事を…」

 ラジエルの羽根は乱れ、羽根の内側には乾いた血が幾筋もついている。
 片翼はどうやら折られているようだ。首の付け根や手首には黒く変色しつつある痣が幾つも見え、投げ出された掌を開いてみると、どれだけ力を込めたのか、草の汁や泥汚れの中に血が混じっていた。
 そのあまりの痛々しさに、知らずとガブリエルの頬にも涙が伝っていった。

「おい退!お前一人で何してやがった!誰がこんな事をしたのか言え!」

 同じものを見てとったのだろう、ラファエルはいきなり怒鳴り出した。

 ラジエルは濡れた瞳で大儀そうにゆっくりと二人を見るがその視線は此方を見ているようには見えない。

「聞いてんのか、退!答えろ!おい!」

 ワナワナと震え、今にも掴みかかりそうなラファエルの怒りが自分にも感染しそうで

「…止めないか、総悟殿」

 と努めて静かに諌め、

「今手当をしてやるからな。大丈夫だ、大丈夫」

 ラジエルではなく己に言い聞かせるようにガブリエルは何度も繰り返した。


「小太郎さん!何悠長な事言ってんですかィ!見なせェコイツを!羽根はボロボロで右はポッキリいってらァ。有り得ねェとこから血が出てる。身体ん中だってどうなってんだかわかりゃしねェ!!こんな風にしたヤツを、俺は!俺はっ!」

「…止めろ、総悟殿。お前が今騒いだところでどうにもならん、落ち着け」

 ガブリエルのその冷静な声に、ラファエルは尚も息を荒くしながらグッと唇を噛み締める。

 とその時ラジエルが何かを言いたげに口を開く。

「無理をするな。今俺の所へ運ぶから。安心しろ、ゆっくりでいい」

 ガブリエルはラジエルの濡れた頬を優しく拭う。しかしラジエルはガブリエルの制止にいやいやとゆっくり首を振ると、

「…はなが。みかえるさまの……かれてしまう…みかえる…さま………」

 聞き取れるか否かの小さな声で確かにそう呟いた。


 先程の諍いを忘れ、息を飲んだ二人は顔を見合わせ、不穏な空気を確かに共有する。
 同時にラジエルを見下ろすと、彼はほぅっと小さな吐息を一つ吐き出した後、くたりと首を後ろへ傾け動かなくなってしまった。


 ガブリエルはそうっとそのままラジエルを抱き上げ、「俺はこのまま退を四阿に連れていく。総悟殿は一刻も早く十四郎殿を連れてきて欲しい」とラファエルに告げた。

「…わかりやしたが…」

 ラファエルは後ろ髪引かれる様子だったが

「俺が出来るだけの事をしておく。お前も戻り次第手を貸して欲しい」

 ガブリエルが重ねてそう言うと、漸く頷き、何度も振り返りながら飛翔していった。




[*BACK][NEXT#]

2/7ページ

[戻る]


第3回BLove小説漫画コンテスト開催中
無料HPエムペ!