雨の日 「今日は一日中ぐずついたお天気となりそうです。念のため、傘を持って出掛けましょう――…」 朝食のチキンカツサンドを頬張りながら朝の天気予報を観ていると、いつものお天気お姉さんがにこやかにそう言った。 すかさず台所で弁当を包んでいたお母さんから「だってよ。傘持って行きなさいね」と口を挟まれる。 外はじっとりとした曇り空で、確かに今にも一雨来そうな雰囲気だ。 先週発表されたばかりの、梅雨の訪れを感じた。 「行ってきまーす」 紺色の傘を手に家を出ると、霧か雨かの瀬戸際のような雫が素肌に纏わりついて来る。 決して雨も嫌いというわけではないが、こんな天気だとなんとなく気が塞ぐ。 こりゃ学校に着くまでに降り出すだろうな。 そう思っていると、ポツポツとした雨粒が降ってきた。 すぐに傘を差して、歩速を速める。 ポツポツの雨はたちまち勢いを増し、激しい雨となった。 登校時間なんて、30分かからない位なのに。 そんな短時間の間にピンポイントで降ってくんなよな。 胸中でぶつくさ文句を垂れながら、ぐずつく所か大泣き状態の空の下、俺は足早に歩を進めた。 家を出て10分程経っただろうか。 未だ衰えない大雨の中を歩いていると、後方から水溜まりを蹴って走ってくる人の気配がした。 力強く跳ねる水の音が、こちらに迫ってくる。 ……嫌な予感。 振り返るか振り返るまいかで悩む事、3秒弱。 聞こえてきた叫び声に、俺は前者を選ばざるを得なくなった。 「ターカーヤぁー!!!」 聞き飽きるほどの呼び声。 振り返らずとも誰だか分かるその人物は、猛ダッシュで駆け寄って来て俺の傘に飛び入った。 「ゼー、ハァッ、……隆也、いいところに」 頭の上に乗せた鞄を下ろし、濡れた髪を掻き上げながらそいつは笑った。 「榛名……何やってんだよ」 「はは、傘忘れた」 そう、いつも俺の隣りで俺を振り回し続けるこの男・榛名元希は、雨の日だって絶好調にマイペースだ。 断りもなくデカイ図体を俺の傘の中に押し込めておいて、悪びれもせずに笑う。 朝からずぶ濡れで災難のくせに、やたら晴れやかな顔だ。 てか、濡れた制服が肩に当たって冷たいんだけど。 「降水確率70%ってなってたじゃねーか。ちゃんと傘持ってこいよ」 「俺天気予報観てねーし。てか、行く時雨降ってなかったらほとんど傘持って行かねーんだよ。邪魔だろ」 「俺はアンタが邪魔だ」 わざと肘で榛名を追しのけようとすると、「お前ずぶ濡れの俺を見て何とも思わねーのかよ!」と嘆かれた。 知るか!面倒臭がって傘持ってこないお前の自己責任だろ。 「あーもー気持ち悪ぃー。制服びしょ濡れだぜ。着いたら体操服に着替えなきゃな」 「俺はそんなお前が真横で密着してくんだからもっと気持ち悪いんだけど」 「隆也ひどいな。俺が風邪引いて学校休んだら寂しいくせに」 榛名がそんな事を言ったので、俺は思いっきり榛名を傘の外へ突き飛ばしてやった。 お前ほんとひでーよ!と慌てて榛名が傘の中に戻ってくる。 風邪でもなんでもなれ、大歓迎だ。 てか、風邪引かねーだろお前は。バカなんだから。 俺達がそんなやり取りをしている間も、雨は降り続く。 学校が近付くにつれて、見かける生徒の数も増えてきた。 意外に傘を忘れた者は多いらしく、榛名と同じように鞄を頭に乗せて走る者もいれば、俺達と同じように男同士で相合い傘なんて気持ち悪い事をしている奴らもちらほらいた。 相変わらず榛名は俺に肩を密着させながら、一限目の教科書を忘れたから見せろだの二限目の宿題をやってきてないから写させろだの勝手にベラベラ喋っている。 わざとらしく大きなため息をついてやると、「あっ隆也ため息なんかつきやがって!」と突っかかられた。 あーもー朝からうるさい、ただでさえ雨が鬱陶しいのに、もう本当お前鬱陶しいからやめてくれよと思う。 俺は肩を落として、傘の柄の持ち場所を少しずらした。 すると、不意に「あ」と拍子抜けした声がして、急に腕の力が軽くなった。 突然なくなった感覚に驚いて、俺は数回瞬きをしてから、榛名を見上げる。 「わり、お前の方が背低いのに、持たせてた」 榛名が俺の手から傘を取って、少しだけ傘を俺の方に傾けていた。 「え……」 「疲れたんだろ。ほら、代わってやっから、手離せ」 そう言われて、素直に傘の柄からするりと手を離す。 今まで意識していなかったが、榛名の背の高さに合わせて傘を持ち上げていたせいで、右腕がじんじんと痺れていた。 「っと……さんきゅ」 なんだよ、こいつらしくもない。 不意打ちの親切に思考が停止してしまった俺は、手持ち無沙汰になった右手で鞄をからい直した。 自由を得た右腕は途端に楽になって、それから、榛名との身長差を思い知らされる。 少しだけ、憎たらしい。 傘持ちをやめると、必然的に意識の矛先は隣りの榛名に向かった。 依然肩同士がぶつかって、そこから榛名の体温が伝わってくる。 教室での隣りの席より更に近いこの距離は、榛名の匂いや呼吸の音まで鮮明に届く。 って、あれ?なんか、頬が火照ってきた。 それに気が付くと、呼応するかのように心臓の動きが加速していった。 ………え? あれ? 何意識してんだ俺。 ばくばくばくばくと、鼓動が喉元まで込み上げてくる。 え、いや、待って。 何、この雰囲気……… 俺が一人で勝手に混乱していると、心臓の音でもバレたのか、榛名がゆっくりと俺の方に顔を向けた。 やばい、目が、合っ……… 「おっ!はっ!よーーーー!!!」 一瞬妙な空気になりかけた場の雰囲気を180度反転させる勢いで、俺は何者かから思いっきり背中を叩かれた。 「は!?いて!?何!?」 「おっはよー!阿部!榛名!相合い傘だな!」 それこそこの雨空をぶっ飛ばさんばかりの笑顔を俺達に向けて来たのは、田島だった。 いや、それはもう晴れやかな笑顔だ。 だがしかし本人はいっそ清々しいまでに、頭の先から爪先までずぶ濡れだった。 「おま……すげー濡れてるぞ」 「うん、今日雨やべーな!教室に着いたら制服絞って干しとかなきゃな」 「え……あ、おお……」 田島はどうやら朝からずぶ濡れな事に全く嫌悪感を抱いていないらしく、その生き様を見ていると、この狭い傘の中で男と二人窮屈になって歩いている自分が酷く滑稽に思えた。 「てか、阿部顔赤くね?」 「なっ……」 田島から顔を覗き込まれると、先程の変な緊張感がフラッシュバックしてきた。 再び顔が火を噴く。 榛名が「え、まじで」と興味津々に俺の顔を覗き込む寸前に、俺は冷えた両手で頬を叩いた。 「赤くねーよ、別に!」 「赤かったよー」 「ちがう!つーかお前、びしょ濡れのまま立ち話してんなっ」 そう上手く切り返すと、田島は思い出したように目を丸くした。 「そうだった!風邪引いちまうなー。じゃっ俺ダッシュで先行ってるから!また教室で!」 「お、おう」 そう言うや否や駆けていった田島の後ろ姿を見送る。 その眩しさに目を閉じてしまいたくなった。 「榛名、お前も多少の雨くらいでぐだぐだ言ってないであの位爽やかに生きろよ」 「無理だな」 間を空けずキッパリ断られる。 とは言え、榛名の濡れ具合も田島とそう大差なかった。 田島が去った後しばらくして、学校の校門が見えてきた。 ああ、なんだかえらく長い道程だった気がする。 そうげっそりしていたら、再び背中を思いっきりぶったたかれた。 「おはよ、阿部、榛名。朝から仲の良いこって」 ひりひり痛む背中を押さえながら振り返ると、傘を差した泉と三橋がいた。 「おー、はよー」 榛名が返す。 「どうしたんだよ榛名、すげぇ濡れっぷりだな。それ阿部の傘?」 「まぁ、隆也の傘だから俺の傘とも言うな」 悠然と言ってのける榛名の腕を思いっきりつねってやる。 「いてぇ!ひっでー!」と榛名が喚く。 すると三橋も話に参加してきた。 「あっ阿部くっ、んも、濡れてるね」 「こいつのせいだ」 「んだよ、ちょっと傘傾けてやってんだろー!俺の優しさに感謝しろ、感謝!」 「ああもうてめぇ出ろ!今すぐ出ろ!それは俺の傘だ!!」 もう、こいつといると底抜けに体力が消耗される。 どっと疲れて顔の力を抜くと、酷い顔をしていたのだろうか、泉が思いっきり吹き出した。 「やっぱお前ら、仲良い」 泉は心底愉快そうに一頻り笑った。 疲れたので、仲良くない!というツッコミは、心の中にしまっておいた。 それから4人で校舎へ向かう坂道を登り、ようやく下足箱へ辿り着いた。 かつてない程の長い通学路だった、と思いながら傘を畳む。 傘からはみ出ていた左肩はびしょ濡れだし、反対の右肩は榛名とくっついていたお陰で湿っていた。 俺はちゃんと傘を持ってきていたはずなのに。なんて仕打ちだ。 しかし隣りで靴下を脱ぎながら上靴に履き替えている榛名は、悪びれもせず「うっわひでー、キッタネー」と顔をしかめている。ホント、殴るぞ! 雨はまだ降り止まずに、廊下の窓を叩いては曇らせていた。 室内のじっとりとした生温い空気が、肌の上を這いずり回って気持ち悪い。 学校全体が、今日の曇天に合わせてどんよりと静まり返っていた。 そう、例の如く、俺達が向かうべき2年9組の教室を除いて、だ。 「誰かーハンガー持ってないー!?」 「体操服もって帰ってた!誰か貸してー」 榛名、泉、三橋と共に教室へ足を踏み入れると、そこはプール場の更衣室を彷彿とさせる状態だった。 各々の椅子に制服や靴下が引っ掛かっており、ひどい奴はシャツをハンガーに掛けて窓の桟にぶら下げていた。 教室内の半数以上が、体操服に着替えている。 メオトに至っては、河合が高瀬の頭をタオルで拭いて乾かしてやっていた。自分で拭け!自分で、とツッコむ。 ―――だが、隣りに座ったずぶ濡れのそいつも、どうやら同じ型にはまるつもりらしい。 「あー隆也ぁ、俺タオル持ってきてねぇわ」 制服のシャツを脱ぎにかかりながら、そいつは鞄の中を引っ掻き回した。 自分の左肩を拭いていたタオルの存在を、少々疎ましく思う。 「お前なぁ……」 「あ。シャツでいっかな。でも濡れてるしなー」 そう言いながら、榛名は上半身裸のまま脱いだシャツで頭を乾かし始めた。 その姿に呆れてタオルを放り投げてやると、サンキュ、と小さな声が返ってきた。 早く何か着ろ、いくらお前っつっても、さすがに風邪引くぞ。 そう胸中で呟いて、身体を拭くのに夢中なそいつの代わりにロッカーへ体操服を取りに行ってやった。 その中で乱雑にくるまっていた体操服を引っ張り出し、机の上に置いてやると、榛名がタオルから顔を出した。 今度は礼もなにもない。 その代わりに榛名は、へら、というか、ふにゃ、と頬を緩め、はにかんだように笑った。 なんだか照れ臭くて、俺は何も言わずに席についた。 その日、雨は一日中降り続いていた。 午前の授業が終わった頃でも、濡れた奴の制服は、さっぱり乾く気配がない。 授業中、榛名は俺のタオルを返そうとせず、ずっと枕代わりにして眠っていた。 窓に滴る雨粒と榛名の健やかな寝顔を交互に見つめながら、俺は今日如何にして一人で帰ってみせるかについて、ぼんやりと考えていた。 |