気づいたら、教室に阿部の姿がなかった。
それは移動教室から帰った後、4限目の担当だった教師が「阿部は欠席か」と呟いた時に気づいた事で、すぐに目があった花井も俺と同じ心況らしい。
目配せにより会話を試みたが、互いに首を振るばかりで、なんの情報も得られなかった。
ただおかしな点があるとすれば、阿部の机の傍らに、見るからに重量のある野球バックが掛けられたままであるという点だけだった。
【秘密】
それから、いつも通り校舎は授業終了のチャイムを鳴らす。
掃除も、HRも、阿部の空席に関わらず、平凡と淡々と過ぎていった。
きりーつ、きをつけ、礼。今日も一日お疲れ様でした、さようなら。
一日の締め括りであるそれは、俺達の始まりの合図でもある。
「阿部どうしたんだろ、体調不良?」
「さぁな……てか、それなら俺達に一言声掛けてくだろ」
「だよねー。しかも野球バック置きっぱでさ」
「三橋、心配で泣き出すんじゃねぇの?」
「腹痛で帰ったとか適当に理由づけといた方がいいかもね」
花井と並んで廊下を歩きながら、突然の阿部の失踪について話をする。
勿論同じ立場の人間二人が討論した所で答えが出る筈もなく、しかし深刻に捉える事もなく、俺達はいつも通り部室へと辿り着いた。
一応一番乗りではあったものの、時を待たずして他のクラスの部員達が次々と顔を出す。
その中に三橋の顔を見つけた俺達は、一度だけ目を合わせて、声を掛けようとした。
―――が。
「ちわー」
それは無気力に投げかけられた声により、遮られてしまう。
「阿部!?」
「……?おー」
特に変わった様子も見せず、さも今し方いつも通りの学校生活を終え部室に出向いたといった様子の阿部は、眠たそうに俺達の顔を見た。
「おま……っどこ行ってたんだよ!」
「あー、まあ……ハライタで」
阿部はあからさまに適当な事を言い、話題を続ける余地もなく自分のロッカーへと歩いて行った。
俺達は再び互いの顔を見合わせ――…でもやっぱり、答えは出る筈もなく。
それからの部活も、普段となんら変わりはない。
阿部からは一切、体調不良の様子は見受けられない。
いつも通りの日々。
ただ阿部の存在だけが抜け落ちた4限目から帰りのHRまでの時間以外、何も異変のない一日。
花井も俺も、不思議には思った。だけど日常を取り戻した今、それをわざわざ掘り返す気も起きなかった。
「じゃあ今日の練習はここまで!皆、今日もお疲れ様!」
「あざっしたー!」
練習を終えた俺達はグラウンドに一礼し、部室へと戻る。
阿部の姿を探すと、その後ろ姿は先頭にあり、一番に部室の扉を開ける所だった。
「やっぱなんか、おかしくね?阿部」
「だねー。いや普通なんだけど」
「まぁな。……なんもないなら良いんだけど」
集団から少し遠ざかった後方を花井と歩く。
謎を解決しないまま、一日が終わろうとしていた。
しかしもうあと数歩で部室に辿り着く、という所。
他の部員は全員、既に部室の中に収まっていた……その中から、扉を開き出てきた阿部が、俺達の横を足早に通り過ぎた。
俺達はまた、顔を見合わせる。
それから阿部の後ろ姿を目で追い、どちらからともなくその後を追いかけ始めた。
阿部は部室裏の木陰に身を潜め、何やら電話で話をしていた。
俺達の存在には気づいていないようなので、悪いとは思いながらも息を殺し、会話に聞き耳をそばだてる。
「だから、前も言ったでしょう――…」
「違います、もう、変な勘違いしないで下さいよ」
「はい、分かりました……だから――…」
途切れ途切れに聞こえてくる内容からして、電話越しの相手は年上である事、またとりあえず家族ではない事が伺えた。
花井が怪訝な顔をしているように、俺にも、今阿部が話している人物、阿部が今わざわざ電話をしなきゃいけないような相手が思い浮かばなかった。
しかし次の言葉で、俺達は昼の真実を知るのだった。
「昼間抜け出して会うのはもう勘弁して下さいよ。アンタも内申に関わんだし。……つーか、もう帰るんでまた帰って連絡します。それじゃ」
唐突に終わりを迎えた電話に、俺達は慌て出す。
しかし時既に遅く、次の瞬間には振り向いた阿部とばっちり視線を交わす事態へと陥ってしまった。
俺達がそうである以上に、顔を青白くさせる阿部。
といってもそれは比喩のようなもので、実際はこの暗闇の中、阿部の顔色までは伺えなかった。
「な……っ、お前ら、何盗み聞き……!」
阿部は口をぱくぱくさせて後退する。
お互いに気まずすぎる状況の中、とりあえず普段それっぽい役割を果たしている俺が、勇気を振り絞って先陣を切った。
「……えと、年上の彼女?」
沈黙。
阿部は表情を固めたまま、花井は存在を消すかの如く身動き一つせず、その場は静寂に包まれた。
今の出だし、間違った!?と焦りながら俺は第二手を模索した。
しかしそれは俺よりも早く、阿部によって紡がれる形となる。
「ざ、けんなよー……」
しゅるしゅると阿部はその場に尻を落とし、体操座りの形で頭を垂れた。
その行為を皮切りに、俺達は阿部の元へと駆け寄る。
表情を見せない阿部に
「なぁ今の彼女!?」
「てか学校抜け出して会ってたの!?それって他校生?」
「そんな無茶しなくても会う機会あるだろ!けどどういう出逢いだよ」
と次々に質問を投げかける。
誰にも気づかれぬ内にちゃっかり彼女なんて作っている阿部に尋問するかのように。
「ちがう!彼女なんていねーよ!つか出来るか!」
「うっそだー!会話ちゃんと聞こえてたぞ!」
「ああもう……っだから……」
こんなに取り乱している阿部も珍しい。
羞恥の色に染まる(これも比喩だけど)その顔は、紛れもなく恋人の存在を肯定するものだ。
「じゃあ履歴見して!彼女の名前見てやる」
「お前意外と性格悪いな……」
「やめろ!見んな!」
阿部の手に握られた携帯を奪おうとすると、必死の抵抗を受ける。
ますます怪しい。こりゃ黒だ。
阿部の抵抗を回くぐり、その携帯が俺の手に渡った時。
突然それは光源となり、振動音を辺りに響かせた。
「えっ……」
「ああもう!!」
一瞬俺が怯んだ内に、阿部はすごい勢いで携帯を引っ掴み、憤然とした表情で画面を突きつけてきた。
CALLINGの文字と共に俺達の目に飛び込んで来たのは、思いもよらない人物の名前だった。
「もしもし元希さん今アンタのせいで取り込み中ですのでそれじゃあまたさようなら」
一息で捲し立てる阿部はそれだけ告げてすぐさま通話を絶った。
固まる俺達に目を向け、溜め息とも呻き声ともつかぬものを吐き出し、阿部は再び項垂れた。
着替えを終えた帰り道、何かとこじつけて三人で帰る事になった俺達は、阿部から色んな話を聞いた。
阿部は普段あまり進んで自分の話をしないタイプだが、俺達の質問攻めに遭い、また嘘をつく事も儘ならず、素直に全てを打ち明けた。
ただ核心である榛名さんとの関係については、暗黙の了解と言った感じで触れずにいた。花井は終始ぎこちない態度を取っていたけど、とりあえずサボりはよくないとキャプテンらしい注意だけはっきりと口にして、別れ道を反対方向に帰って行った。
星屑を散りばめた夜空の下、閑静な住宅街に数回、携帯の振動音が鳴り響く。
愛されてんねぇ、と思わず呟くと、阿部が携帯を地面に叩きつける動作を取ったので、慌ててそれを制する。
これ以上阿部を引き止めるのは誰の為にもならないな、と珍しく空気を読んで俺は自転車のサドルに跨る。
そんじゃあまた、と漕ぎ出そうとした時、阿部が俺の動きを制した。
「水谷!」
「ん、なにー?」
「いや……その」
「言わないよ!今日の話は7組男子だけの秘密ね!」
阿部の言わんとしていた想いに先手を打って、ペダルを大きく踏み込む。
今日、いつもの日常を少しだけ変えたその真実は、言わずとも俺と花井の胸の奥にしまわれる。
明日からも、いつもと変わらぬ日常が続く。
俺も、花井も、阿部も、今まで通り変わらない。
阿部の秘密は、今日一日の出来事の中にそっと包み込んで、秘密のままにしておこう。
阿部が自ら惚気話を始め出す、ありもしなさそうなその日まで。
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