時は九月、たまに思い出したように鳴く蝉の声が頭上にあった。
木の葉模様の俺達は、制服姿でフェンスの向こう側を眺める。
見慣れたユニフォーム、見慣れたグラウンド、その光景は過去を鮮明に想起させたが、決して本物ではなかった。
俺は野球部を引退した。
隣りに佇む隆也は、二度目の夏を終えていた。
【夏空の蒼】
「いきなり呼び出すもんだから、何かと思いましたよ」
久しぶりに二人で会うのに、隆也はずっと顔をしかめたままでいる。
フェンスに手を掛けて、小さなボールを目で追う。
以前俺が登ったマウンドを、以前隆也が座ったホームを、辿るように見る。その目は無感情だ。
「自分が気持ちよく引退したからって、何の関係もない俺を付き合わせるのは止めて下さい」
変わり気のない生意気、意地っ張り。
普段なら食ってかかる所だが、今日はそんな気にもならなかった。
三年前にはフェンスの内側だった俺達も、今ではあの場所がとても遠い存在であるような気がする。
決して戻れない、巻き戻せない、場所はどんなに変わらずとも、そこは俺達にとって過去でしかない。
じわじわじわ、と頭上で弱々しく蝉が鳴いた。
「いいじゃん、もう、許せよ」
苦笑いでごまかしても、隆也は一切表情を変えなかった。
実は切実な願いだけど、面と向かって真剣に言えるほどには、俺は大人じゃない。
だけどほっといて知らん顔していられるほど、子供でもない。
「全部、終わった事だろ」
言い聞かせるように呟いた。
「これからも、ないんだから」
なのに、隆也には聞こえないで欲しいと、矛盾した事を思った。
俺達の過ごした季節は、高校の煌びやかな思い出の裏側で、少しずつ色褪せていった。
仲間と笑ったのも、泣いたのも、ほとんど覚えていない。ほとんど無かったのかもしれない。
ただ隆也の事だけ、点々と覚えている。
隆也が笑ったのも、泣いたのも、いくつでも思い出せる。
その原因は全て俺だったのも。
今に塗り替えられていく過去は、たまに思い返すとよく自分の都合のいいように美化されている。
俺はたくさん覚えているんだ。
隆也の笑顔を、笑い声を。
はにかんで笑った顔。
噛み潰しきれなかった笑顔。
挨拶をしながら笑いかけた顔。
堪らなく嬉しそうな、泣き顔混じりの笑顔を。
その全てが、好きだったから覚えているんだ。
カキン、とボールが空へ舞う。
俺が確かに口にした言葉を、隆也は無視した。
或いは、聞こえなかったものとして無に還した。
残ったのは蝉の鳴き声だけだった。
こんな風になりたくて呼び出した訳じゃないのに、何も変わらず時は過ぎる。
隆也は変わらぬ無表情で、グラウンドを見つめる。
突然にバカみたいな事でもすれば、吹き出して笑ってくれるだろうか。
そんなので良いのに、気持ちがついて行かない。
本当は、俺は、隆也と。
「あのさ」
「……はい」
「お前がいたから、俺は今日、こうしてんだ」
「………」
「だけど、俺がいなかったら、隆也は今頃どうだったんだろうな」
「そんなの、分かりません」
「俺は最低なんだろ。なら俺以外の投手は、全部俺より上じゃん」
「………」
「そんでさ……隆也」
フェンスを握った手から血の気が引いて、感覚が無くなった。
九月の空は今尚青く、高い、夏空だ。
蝉は鳴くのを止めて、俺の声を掻き消してはくれなかった。
ずっとずっと思っていた事を。
俺が抱え込むには重すぎた想いを。
こうして吐き出したのなら、夏の終わりを清々しく迎えられるのだろうか。
なぁ、隆也。
ごめんな。
「俺なんかに、出逢わなきゃ、良かった?」
次の瞬間、微動だにしなかった隆也の表情が歪んだ。
しゃくりだしたそいつの顔はまるで子供で、揺さぶられるほどの懐かしさを覚えた。
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