普段と変わらない風景。
冷たい空気。
「ナイスボール!」
三橋にボールを投げ返して声をかけると、耳の奥がキンと痛んだ。
そろそろ冬も本番のようだ。
ボールの感触を確かめる三橋からの返球を待ちながら、何気なくフェンスの向こう側を見る。
その瞬間、俺は固まった。
【その想いを伝えに】
視線の先には、理解したくない光景。
下校する生徒数人に紛れて、明らかにうちのものではない制服を着た男子が校舎に向かって歩いていたのだ。
その人物が、どう見ても俺のよく知る人物そっくりなもので、俺は食い入るようにそいつの動向を目で追った。
高い身長に、いかにもスポーツしてますと言った感じの引き締まった体型、学ランの中で目立つ、紺色のブレザー。
そいつは一人で堂々と他校の敷地に入って来て、しばらくキョロキョロと辺りを見渡していた。
この距離では顔まではっきり見る事が出来ないが、一秒、二秒と経つにつれ、俺の疑心は確信へと近づいていた。
そして、遂にその人物の視線がこちらに移ったのだ。
俺は咄嗟に「やばい!」と思ったが何故か反射で顔を逸らす事が出来なかった。
目が合うと、そいつは駆け足でこちらに向かってきた。
距離が狭まって、顔がはっきり確認出来る。
思い描いていた顔と一寸の狂いもないその人物は、フェンスに指を掛けて顔を近づけ、ニカッと満面の笑みを浮かべてみせた。
俺は一気に血の気が引いた。
「あ、阿部……くん?」
声をかけられて、はっとする。
数メートル先に立つ三橋が、首を傾げてこちらを見ていた。
俺は慌てて前方を向いて、ミットを構え直した。
冷え切った空気を裂いて、白球は俺の手の内に収まった。
今の……どう見ても、榛名だったよな。
混乱した頭で、先程の光景を頭に思い浮かべる。
……どう考えても、榛名だ。
もう一度三橋にボールを投げ返して、ちらりとフェンスの向こう側を覗き見た。
しかしその先には、もう誰の姿も見当たらなかった。
そのまま榛名の姿を見かける事なく、練習は終了した。
外は真っ暗で、身震いするほど寒い。
夕方のあれは、見間違いか幻覚だったのだろうか。
釈然としない思いをかかえたまま、自転車に跨り地面を蹴った。
今日は家族から早く帰るように言われていたから、いつもの寄り道にも参加せず、久しぶりに一人で帰る事にした。
校門を出て坂を下ってすぐの、コンビニの前の信号に引っかかる。
目の前を自動車が通過していき、過ぎ去った空気の冷たさに肩を縮ませた。
そして歩行者用信号が点滅し始めた頃、俺はペダルに足をかけた。
それと同時だった。
「タカヤ!」
聞き覚えのある声に、俺は思わず振り返る。
「元、希さん」
コンビニの照明に照らされた、今日の夕方見たのと同じ人物が、目線の先に立っていた。
「タカヤ!お前遅い!」
駆け寄られて、何故か急に怒られる。
「なっ、なんでいるんすか……」
「お前を待ってたに決まってんだろ!気づいてたくせに、無視しやがって」
その勝手すぎる言い分に、俺ははぁ?という表情を作りながら事態を飲み込もうと必死に頭を回転させた。
待ってたなんて、知らねーよ。
連絡されたわけでもないし。
てかそもそも、なんで俺を待ってんだ、アンタは。
「待ちくたびれたっての。俺がどんだけ立ち読みで時間潰した事か……」
「ちょっと待って下さい、元希さん。全然意味が分からないです。まず、なんで俺を待ってたんですか。しかも、なんで待ってる事知らせないんですか」
まぁ、あの練習の最中に声をかけられても困るが。
すると榛名は、はぁ?と俺と同じような表情を向けて、当然と言わんばかりに言った。
「勘づけ、そのくらい」
勘づけるかよ!!
俺は一気に腹が立ってそっぽを向いて自転車を押した。
意味わかんねぇ、知るか!こんな自己中野郎!!
俺が腹を立てたのに気づいてか、榛名は咄嗟に自転車の荷台を引っ掴んで、
「おい待てよ!こんのバカ!鈍感!」
と急に俺を罵った。
「はぁ!?アンタ意味わかんねーよ!離せ!」
「やだ!!だから、待てって!!」
あまりにも榛名が強い力で荷台を引っ張るもので、俺は渋々逃げるのを諦めた。
「はい、じゃあ聞きますから。……なんですか」
「………」
「早く言って下さい、急ぎますので」
冷たくそう言い放つと、今まで威勢の良かった榛名が急に黙って、暗闇の中沈黙が走った。
俺が渡りたい目の前の信号は、もう三回くらい変わっている。
こいつの我儘に付き合ってる暇は、生憎ない。
急かすように、今一度口を開く。
「元希さ……」
「隆也」
名前を呼ばれ、ドキリとした。
ばっちりと、目が合う。
いつもは目力のある、榛名のキツい目が、じわりと柔らかく下がる。
その顔があんまり優しい表情だから、俺は誰か別人を見ているんじゃないかと思ってしまった。
榛名は大きく息を吸って、それなのに、らしくないほどの小さな声で、呟いた。
「隆也、誕生日おめでとう」
再び信号が、チカチカ点滅する。
それと同じく、俺は両目を瞬かせた。
なんだこの人、これが言いたかっただけなのかよ。
それだけ言うために、わざわざここまで来て、こんな時間になるまで待ってたのかよ。
榛名は顔を隠すように俯いて、掴んだままの荷台をぎゅうっと力を込めて握った。
あまりにもらしくないその行動に、とても違和感を覚える。
だけど、嫌じゃない。
「元希さん」
「……なんだよ」
「やっぱりアンタ、バカです」
なっ!と顔を引き吊らせた榛名を見て、堪えきれずに吹き出してしまう。
そのくすぶったいような、照れくさいような榛名の行為が可笑しくて、俺は腹をかかえてしばらく笑った。
早く帰って来いと言った家族は、家で美味しい料理でも用意して待ってくれているのだろうか。
でも、ごめん。
少しだけ、帰りが遅くなってしまうかもしれない。
俺はこんな馬鹿をするこの人に、今日は少しだけ、付き合ってあげたいと思うから。
[*前へ][次へ#]