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誰も知らない彼の情事(H→A)


奴の挙動を不審に思い始めたのは一ヶ月程前の話だ。
やけにふらふらと浮わついた足取りで俺の横を通ったかと思えば、10メートル位先で唐突に頭を抱えて何事か呻いてそのままピタリと止まり、暫くして今度は肩を落として俯きながら見た事もないくらいの狭い歩幅でじりじりと去って行ったのだ。

不審に思わない方が馬鹿だ。



【誰も知らない彼の情事】



彼の名は榛名元希。
弱冠14歳。華の中学二年生。うちのエースピッチャー。
「天才」と「極端な馬鹿」両方兼ね揃えたAB型。




好きな言葉:唯我独尊(予想)
好きな食べ物:キシリトールガム(常備)
好きな女性のタイプ:巨乳(噂)
性格:悪い(断定)


その榛名元希が、最近おかしい。目に見えておかしい。理由は不明。



今日いつものように練習場であるグラウンドに訪れた俺は、重たいバッグを肩に掛け直して更衣室の扉を開けた。

更衣室はもうぼちぼち人が集まっていて、皆が談笑しながら着替えをしている最中だった。

俺はその中の誰よりも、ロッカーの前で一人、ぽけーっと惚けているある人物が目についた。
紛れもない、榛名元希だ。



榛名元希がそうしているのは極めて珍しい事で、だがしかしここ一ヶ月の中では日常的に見られる光景だった。
何か考えているのか何も考えていないのかすら分からない意識の分散した目は、首と同様に天井へと向けられている。
…大丈夫なのか、この人。



俺は試しにその、まさに魂が抜けたと比喩するに丁度良い榛名元希に声を掛けてみた。
後ろから一声、特に感情もないいつも通りの、ちわ、だ。

その瞬間榛名元希が物凄い勢いで自らロッカーに頭をぶつけた。実際はバァン!とかガァン!みたいな音がその場にいた全員を仰天させ、更衣室を無音へと導いたのだが、その榛名元希の状態に効果音をつけるなら、俺は「びたん!」かなと思った。

榛名元希は暫くロッカーにへばりついたまま静止していた。その間に水を張ったような静けさだった皆が、段々と元の和やかなムードを回復させていった。
何故なら皆の気持ちは一つだったからだ。
「触れてはならない」と。



さてこの状況を打破出来ずにいるのは、なんだかこの状況を作り出した原因となったらしい俺と、伸びた蛙のようになったまま動かない榛名元希だけとなった。
気まずい。実に気まずい。

榛名元希が余りにもアクションを起こさないので、ちょっと面倒臭くなってきた俺はもう一度彼にちわ、と声を掛けた。
そこでようやく潰れた蛙は命を吹き返し、ぱっと俺の方を向いた。
俺はそこでまた驚いた。
榛名元希はありえないくらい顔を赤くしていた。

自らロッカーに激突した醜態はそんなに恥ずかしかったのか、と少し哀れに感じていると、榛名元希の眉間に深い皺が刻まれた。
あ、これは怒られる前触れだなと俺はその慣れた事態に対し身構えた。

「テメェいきなり声かけんじゃねぇよ!びっくりすんじゃねぇか!!チビ!」

俺は突如に、コイツめんどくせぇー!と思った。
お前の驚きっぷりにこっちは更に驚いたんだよ。ていうか声掛けたっつってもそんな大きい声じゃなかったし、ていうかお前のキレっぷりの方が唐突だ。
あと補足しておくが、俺に対して文句を言った後に語尾のようにして「チビ!」と付けるのは出会った当初からの榛名元希の癖だった。


不服だが、一応スミマセンと謝っておく。これが一番手っ取り早い方法と俺は学習している。
すると今度は怒りに溢れた榛名元希の顔が、みるみる内に崩れていった。
まるで母親の大切にしているマグカップを落として割ってしまった子供のような顔だった。



しかし俺はこれ以上この人に付き合うと疲れる、と察知してそそくさと着替えに取り掛かった。
榛名元希とはロッカーが隣り通しで、未だ硬直して口だけパクパクさせている榛名元希が横目に入ったが、無視する事にした。




結局榛名元希を無視したまま、俺は着替えを済ませた。
ペットボトルに入れた水を一口喉に流し込んだ後、ロッカーを閉める。キャップを被り直して、トンボをかけに行こうと出入口に向かった時だ。

いきなり左手首を後ろから強く掴まれた。再びびっくりして振り向くと、榛名元希がいた。

「隆也…」

神妙な面持ち…と言うか殺気溢れる顔だった。即座に俺は恐怖した。またこの人の癇に障るような事をしただろうか、と考える。

「あ…た…隆也…」

ギラギラと睨み付けられ、俺は恐怖した。怒った榛名元希には近寄らないのが一番だ。触らぬ榛名に被害なし。

俺は用なら後で、と言って振り払うように榛名元希の手から逃れ、走ってグラウンドに出た。
後ろを振り返ってみて、追って来ないと分かり安堵した。



グラウンドで俺がトンボをかけていると、また後ろから声をかけられた。

「た、隆也…」

トンボをへし折らんばかりに握り締めた榛名元希だった。
まだ練習は始まってないのに、物凄い汗だ。顔が青ざめている。相変わらず眉間に皺が寄って恐ろしい顔だ。

なんですか、と平静を装って聞くと、榛名元希はトンボをいじいじしながらあっちを向いたりこっちを向いたりしている。
…誰だこいつ。
どんなキョドりっぷりだ。


俺が寛大な精神と親切心を持って待っていると、何かを決心したように榛名元希がこちらを向いた。
汗やべぇ汗。

「隆也…さっきはご「隆也ァちょっと良いかー!」

榛名元希の言葉は更衣室前からの先輩の声によって掻き消された。
反射的にはい!と返事をする。
そして再び榛名元希の方を見ると、顔に両手を当てて天を仰ぎ、今にも「ジーザス!」と叫びだしそうだった。
かと思えば般若のような顔でトンボを地面に投げつけ、のしのしと俺を呼んだ先輩(榛名元希にとっては同輩だ)に向かって突進していった。

今日の榛名元希は忙しいな。
そう思っていると、前方で叫び声がした。
榛名元希が先輩にチョークを決めていた。



練習中も榛名元希はおかしかった。
今までなら地球がひっくり返って逆立ちしても榛名元希は俺に優しくなんてした事がなかった。
それがどういう訳か事ある毎に俺を気遣ってくる。
大丈夫かとか、無理すんなよとか、手痛くないかとか、お腹減ってないかとか、正直うんざりする位心配してくる。
なんなんだこいつ。いや優しくされるのは嫌じゃないし、ちょっと嬉しい部分もあるんだけど、なんかこう、うざ。

大丈夫です、心配しないで下さいと軽くあしらうと、そ、そうか…とがっかりというかしゅんとしたように肩を落とされる。
逆に扱いに困る。



「元希さん今日なんかおかしいですよ、どうしたんですか」

俺が精一杯の優しさを持ってして聞けば、なんでもねぇよ!と唐突にキレられてしまった。
しかもその直後榛名元希は全力でしゅんとする。
キレたすぐ後に魂が抜けたような顔をするもんだから、その変化に思わず吹き出してしまう。
しかし扱いに困る。
それにしても、今日の榛名元希は変だ。

「…もしかして元希さん、熱でもあるんですか?」


ふと思い立ってそう問いかけてみた。俺にはそんな理由しか思いつかなかった。
今の季節風邪が流行っているし、まぁ馬鹿は風邪を引かないと言うが、例外もあるのだろう。

俺は少しだけ背伸びをして、榛名元希の長い前髪を掻き分け、額に触れた。
瞬間カッと榛名元希の目が見開いた。
榛名元希のデコは尋常でない位熱く火照っていた。頭から湯気が出そうなほど顔が赤い。
予想以上だ。俺は焦った。


「元希さん!これ絶対熱ありますよ!今日は帰った方が良いです」

「は!?いやッタカ…ちが…」

「大丈夫っすよ!俺監督にちゃんと話して来ますから!」

俺は榛名元希が何やらもごもご話をしているのに構わず、監督のいるベンチまで駆けて行った。
今日の榛名元希はおかしい。いや、一ヶ月前からおかしかった。それは風邪のせいだったのだ。

それにしても長引いてるが、まぁ馬鹿がたまに風邪を引くとこういう事態になるのだろう。勉強になった。
理由は分かったし、早く奴を休ませねば大変な事になりそうだ。急げ、俺。

「待てよ!隆也!」

すると突然後ろから余りにも大きい声がしたので、俺は驚いて振り返った。
榛名元希が俺に向かって走ってくる。相変わらず顔が赤い。無理しない方が良いのに…どうしちまったんだよ。今日はそんなに投げたい気分なのだろうか。
アイツも変わったな…って、うわ、なんか泣きそう。


「良いですって元希さん!また元気になってからいっぱい投げれば良いじゃないですか!」

「何言ってんだお前!?ちげーよ!さっきのはそのッ!俺がお前を…!」

追いかけっこのような形で会話する。これ以上無理させるのは危険だ。早く監督に知らせないと…

「俺は…俺はずっと隆也の事、す」



ドンガラズッシャー!
その時、盛大な音を立てて榛名元希の声と走る音は途絶えた。

どうやら奴はボールの入った箱に躓いたらしい。
転々と転がるたくさんのボールと、地面に伏せる榛名元希の図。集まる視線、それに加わる俺。


マヌケだ…マヌケすぎる…
いたたまれない程に。



榛名元希は、しばらくそのままピクリとも動かなかった。





その後、榛名元希は帰っていった。監督に聞くと、熱など無かったらしい。
それなのに榛名元希は一週間も練習をサボった。やっぱりアイツは嫌な奴だ。


けど俺も、一週間奴に欠席されると、なんかこう練習が物足りないように感じる。
居たら居たで、うるさいしワガママだしアホだし、面倒臭い奴なんだけど。



今日コンビニで何か買って、奴がまた練習に来る様説得してみよう。

そう考えながら俺は、今日も元希さんが登るマウンドを、丁寧にトンボがけしていたのであった。





あきゅろす。
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