「でも阿部と榛名サンのバッテリーって、うちじゃちょっと有名だったんだよ」
昼食の弁当に目を向けた奴が言ったその一言に、俺は自分の箸の動きを止めた。
「なんでだよ」
ちょっとだけ、いや結構嫌悪感剥き出しの声色で俺は尋ねた。
これでもちょっとは無関心を装ったつもりだ。
まぁ生半可な演技じゃ、こいつの眼は誤魔化せないだろうけど。
「うん、だって」
栄口ん家の玉子焼きはいつも美味そうだ。
そいつが言葉の合間にそれを頬張るのを見て、とりあえずそれだけを思った。
【キャッチとして】
「ふっざけんなよ!!」
思わず箸をご飯に突き刺して、俺は身を乗り出して叫んだ。
「仲良かっただァ!?どこが!!どこをどう見て解釈すればあの時の俺達が仲良かっただなんて言えんだア゛ァ!?」
「待て待て、落ち着け阿部」
どうどうと宥める仕草をしてから、栄口が箸をケースにしまった。
栄口はいつも好物の玉子焼きを最後に食べる。好きな物は後に取っておく派のようだ。
ちなみに栄口ん家の玉子焼きは甘いらしい。毎朝自分で作るんだって言うから驚きだ。
「俺も友達に聞いただけだから。でも良いじゃん、端から見て仲良さそうなバッテリーなら。…実際はどうであれさ」
「あぁ良いよ、100歩譲ってナカヨシバッテリーに見えるって言うなら…それならそれで良い。まぁそいつの眼は腐ってると思うけどな」
お前そんな…って栄口が表情を強張らせるのが分かった。
でも気にしない為に、視界には入らなかった事にする。
俺は弁当の中の磯部揚げに焦点を合わせて喋った。
「俺等が本当の夫婦みたいだぁ!?んなわけあるか!!ふざけんな!!」
栄口の話はこうだ。
中学の頃の戸田北シニアで、俺と榛名のバッテリーは有名だったらしい。
まぁ榛名はあのチームでもかなり目立っていたから、チームメイトからも、勿論他のチームからも注目されるのは分かる。
でもだからってなんで俺等が夫婦なんだよ。そりゃバッテリーは夫婦に例えられる事が多いけど、でも違う。とりあえず俺達は違う。絶対そんなんじゃない。
「俺がアイツの事大ッ嫌いだったのに、何をどう間違えればそう見えるんだよ」
「いやでもさ、言ってたよそいつ。チェンジでベンチに戻る度阿部が榛名サンとこに駆け寄って、心配そうな顔であれこれ聞いてたって」
俺はポカンとして視線を弁当から栄口に向けた。
そういう栄口も、なんでか心配そうな顔をしている。
「そんなの…」
「そんなの普通だろ」
ガクッと栄口がわざとらしく肩を揺らした。
もう一度磯部揚げを箸に取って口に運ぶ。うめぇ。
「まぁ普通っちゃ普通だけどさ〜…」
「普通だよ、キャッチとしては」
「そか。まぁ阿部がそう言うなら…。キャッチとしてって、他にキャッチとしてやってた事ってある?」
「あー…そうだな」
なんだこいつは。キャッチャーにでもなりたいのか。
そう思いながら俺はご飯をかき込んだ。
思い出したくもないが、頭の中でぼんやりあの頃の情景を呼び覚ましてみる。
だだっ広く感じたグラウンドに、モーションに入る榛名、それからあっという間もない位すぐにミットに伝わる衝撃、背後からのバッターアウト・チェンジの声、度肝を抜かされたように俺のミットの中を見つめてくるバッター、小走りで帰ってくるチームメイト、無愛想な榛名。
視覚的な記憶は結構不確かで、多分榛名の顔は実際より二割増しくらいで無愛想だ。でもミットに残るあの感覚だけは、既に三橋の球で慣れた左手でも、ハッキリ鮮明に覚えている。
こびりついたように、いつでも思い出せる感覚。それがまだ奴から抜け出せていない証明になるかのようで、それを思い知らされるのが、少し悔しい。
「水」
いつの間にか考え込んで、暫く沈黙が流れていた事に気付き、俺は慌てて言葉を発した。
自分のその声で、現実に引き戻された気がした。
栄口は俺の言葉を待っていたようで、突然俺が上ずった声を出したのにちょっとだけビクッとした。
「水は毎回注いでやってた。あとタオルを渡してやって、調子を聞く。様子変だったら体温測ってやったりとか、昨日の出来事聞いたりとか、あと晩ご飯朝ご飯聞いたりとか」
「す…すごいね」
「ふつーだ、ふつー!夫婦っぽい事なんて、一つもねぇよ!」
「じゃ、じゃあ…」
栄口が迷ったように視線を右往左往させてから、口を開いて息を吸った。
「試合中ベンチで榛名サンに肩貸してたって、ホント?」
「………」
「………」
「あぁ、榛名が仮眠取る時な。あいつが言ってきたんだからしゃーねぇだろ」
どひゃーと栄口が顔に手を当て、その行動を俺は訝しげに眺めた。
なんだよこいつさっきから。だからなんだってんだ。
「阿部、お前すげぇよ」
「あ゛?」
「すげぇ…なんつーか、良妻」
「ハアァ!?」
身を乗り出して栄口に向かって拳を構えると、再び栄口はどうどうと手を前に突き出した。
「違うよ、からかってるんじゃなくてさ。なんつーか…キャッチャーって本当に妻みたいだなって。だから良妻ってのは、良いキャッチャーって意味だよ」
「なんだよ、それ…」
ストレートに褒められた事によって、俺の怒りは呆気なくしゅるしゅると萎んでいってしまった。
栄口はいつもの屈託のない笑顔を浮かべて、優しい目をして俺を見た。
何か全てを見透かされているような気分になって、思わず顔を背ける。
「阿部が良いキャッチャーであった事は」
そこで監督が休み時間終了と叫ぶ声が聞こえてきた。
俺は急いで残りの弁当を掻き込む。栄口は俺が食べ終わるのを待って、優しく、はっきりとした声で言った。
「榛名さんが一番、分かってたんじゃないかな」
一気に食べ物を胃に押し込んだせいか、腹の中がずんと重くなる感じがした。
栄口は俺を見てる。きっと答えを待っているんだ。
皆がグラウンドに駆け出す音、声、活気が通り過ぎていく。
俺は返事に迷って、でも結局は、いつもの嫌味たらしい言葉を吐いてしまった。
「だったら俺はアイツの事、こんなにも嫌いにはならなかったよ」
「…そうかな」
「そうだよ」
栄口があと一言何か言い出す前に、俺はキャップを被って立ち上がった。
再び聞こえた監督の声に、大きな声で返事をする。
そして俺達は、同じユニフォームを着た8人に向かって、二人一緒に走り出した。