新聞受けに突っ込まれた朝刊を開いて、俺はしばらくその一面から目が離せなくなった。
一塵の迷いもなく決意の籠った瞳は、俺が今見つめる前方とは違う場所を、ただ強く見据えていた。
榛名元希プロ入り、の黄色い文字が、脳内を駆け巡る。
俺の携帯が机の上で震動したのは、その直後だった。
【いってらっしゃい】
『今からいつもの公園』
とだけ表示された、まるで文章を作り終える途中で送信してしまったかの様な不自然なメールを、俺はしばらく見つめていた。
送り主の名前は確かに先程新聞で見せつけられた名前と同姓同名であって、もちろん、送ってきた奴自身テレビの中の奴と紛れもなく同一人物であった。
変わらないなぁ、とそのメール本文に少し苦笑して、俺は携帯だけを握り締め指示された場所へと向かった。
朝一番のテレビ番組にて目にした奴は、意外にもテレビ映りが良い。
フラッシュを止めどなく浴びせられる中一瞬たりとも顔を顰めたりしない奴を観て、やはり大人になったのだなと沁々思う。
距離感を感じずには、いられなかった。
「隆也!遅かったなー」
キャップを目深に被り俺を出迎えた奴は、ベンチに座っているだけでもよく目立った。
アンタもう有名人なんだからサングラス位掛けて来いと言ってやりたかったが、運良く(早朝なせいもあるが)人影は見当たらなかったので、口には出さずにいた。
相変わらず警戒心というか、自覚っつーもんがない奴だ。
ひとまず、奴の隣りに一人分程の間を空けて座る。
すると何故かそいつはわざわざ体をずらし、俺にぴったりくっついて来た。
「………何」
「何?」
ニィと笑う奴、に溜め息を返してやる俺。
俺はやっぱりこいつには弱いな、なんてとっくに自覚している。
「テレビ観た?」
「はい」
「いよいよ、って感じだろ」
「はい」
「俺が今日なんでお前をいきなり誘ったか分かるか?」
「いいえ」
「俺引っ越すんだ」
「 、」
俺達のその会話に、視線の交差はない。
二人共ベンチに腰掛けたまま、前方のブランコもしくは霞んだ空もしくは地面に転がった空き缶を見ていた。
いきなりすぎた台詞の返事を探しては、頭の中で、そっか何処に住むんですか?遠くですか?アンタ生活力皆無だから心配、なんて一方的な会話を繰り広げる。
だけどそのどれもが言葉として口から吐き出される事はなく、浮かんでは喉の奥へと消えていった。
俺は隣りにいる奴の目も見れずに無言を貫く。
奴の話は続く。
「今日出発な。テレビの取材があるらしーからもうそろそろ迎えの車が来る」
「これからもうしばらく会えなくなるから、最後隆也に会っとこうと思ってな」
「荷物も多分届いてんだぜ。あんま持ってってねーけど」
そう、奴の一方的な会話はちゃんと外に吐き出されていた。
だけど俺はその言葉一つ一つについていく事が出来ず、話に置いてきぼりにされたまま押し黙っている。
今の俺には、呆然、という表現が一番似合うのだろう。
「聞いてんのか隆也!?」
「…………」
「た、」
「き、いて…、…す」
馬鹿野郎と大声で罵ってやりたい。
漸く話をきちんと飲み込む事が出来た俺は、必死に声を振り絞った。
こいつといる時の俺は、本当に情けない。
俺はアンタと居る時の自分が、一番嫌いだ。
「……、」
「え?」
「…ッ、く…」
「………隆也…泣いてんの?」
「お前、マジうぜぇ。ろくにキャッチも出来ねーんだからさっさと消えろ。目障りなんだよ!」
怒鳴られたって突き放されたって、なんでずっと傍にいたんだろう。
泣く時は一人女々しく泣いて、顔を付き合わせれば強がりばかり言う。
何度も何度も身体で球受けて痣だらけになって、それでも奴から逃げる事をしなかった。
理由ははっきりとは分からなかったけど…
勿論、あの速球を捕ってみせたかったというのもあった。
けど本当は、奴が野球を楽しんでいる様に見えなくて、いつもボールを睨み付けているその凍て付いた目が気になっていたから、(だったのかもしれない。)
「バカ、榛名先輩とか余所余所しーんだよ!俺だって隆也って呼んでやってんだから、下で呼べ…下で」
奴に認められたのが最高に嬉しくて、笑った奴の顔をやっと見る事が出来て、振り下ろしたガッツポーズ。
あの時の喜びは、きっとずっと忘れない。
俺の大嫌いだった奴に、俺が憧れを抱いていたんだと自覚したのも、丁度その頃。
奴が好きなのだと気付いたのも、そのすぐ後。
「あ?なんか言ったか隆也?小さくて聞こえねーんだよ!…いって!っんで叩くんだー!」
別に告白しようとか、そういう気はなかった。
性別もそりゃ問題であったし、それに言ってどうこうなるとかそんなの、どうでも良かったから。
その頃俺は奴との関係に不満なんてなかったし、「俺は奴が好き」、その事実だけで、十分だったから。
俺の顔を覗き込んで来る奴を見ない様、必死に拳で両目を隠す。
何か声を出さなきゃ、と焦るけど、噛み締めた唇を解いてしまえばたちまちしゃくりあげてしまいそうで。
「あーだから嫌だったんだよ隆也にこういう話すんの!お前の泣き虫は変っわんねーな!」
「隆也ー寒いー手寒いー暖めろー」「はいはい、マフラーどうぞ」「バカちげーよ!こっち!お前の手いっつもあったけーから」「なっ、やめ…離せ!」「やっぱ隆也の手気持ち〜つかちっせ〜」「うっさい!」
拭いても拭いても濡れる手の甲。
反響する奴の声。
朝方の公園は寒気がする程の静けさで、烏の鳴く声だけが遠くで聞こえる。
風もない曇り空、景色は何一つ揺るがない。
(こんなん、なってる場合じゃないのに)
俺に掛ける言葉を見失い静かになった奴は、手の甲で隠された俺の視界に入らない。
何一つ景色は変化しないのに、時計の針は進む。
焦る、のに、それと比例して量を増す涙。
必死に声を出そうとするけど、喉が熱くて熱くて痛みから覚めない。
馬鹿、馬鹿、時間がない。
あと少し、あと少しなんだよ。
こいつが俺の隣りに居るのも、あと少し なんだよ。
「もと、…さ…」
「…隆也?」
「っ、…、俺…かっこわる…」
「………んなこと…」
「……………うっ!やだ…もときさッ、…………嫌だ!こ、ここに…い…!」
「…泣くなって、隆也」
ついに声を上げて泣き出した俺の身体を、奴の大きな身体が包む。
暖かさと胸の鼓動が伝わって、更に肩を優しく叩かれると安心感が湧く。
俺がちゃんと話せるようにって奴は強く俺を抱き締めて、髪に頬を寄せて来た。
かつてない程の至近距離。
今朝握り締めて顔を近付けた新聞紙よりずっとずっと近い、本物の、
「元希さん」「んー」「俺さ………ッじゃない!何でもない!」「んーだーよぉー」「うわ引っ付くな!あぁほら行った行った、アンタはもうこのチームのメンバーじゃねぇ!」「うわヒデェ!今日一杯はまだチームメイトだろ!」「もう卒団の挨拶は終わったじゃないですか!だからサヨナラ!」「待…隆也ぁ!」
「俺なぁーまだいっぱいお前と話したい事あるんだけど」
「………俺も」
「携帯のバイブ音聞こえっか?多分コレ車の運転手からだぜー」
「じゃあ早く行って下さい。今日も取材、あるんでしょ」
「つれねーなー。んじゃ、これだけ言わせろ」
「じゃあ、それだけ聞いてあげますよ」
抱き締められたまま淡々と進む会話。
冷静を装った言葉とは裏腹に、真っ赤に腫れた俺の両目。
ダッサイ、格好ワリィ。
まぁ、顔は見られてないからいいけど。
「 」
奴の吐く息が耳にかかった。
無音の世界、俺だけが聞き取れた小さな言葉。
離れた奴の身体と熱い位の温もり。
見送った大きな背中、一歩一歩離れゆく榛名元希。
「あ、あの!」
奴は俺の一声に振り返った。
奴が一番言いたかった事、聞いてやった代わりに俺からも伝えよう。
そう思えたら、自分の表情が自然と笑顔になっていくのが分かった。
「ずっと、好きでした!元希さん」
一瞬奴は目を丸くして、それから珍しくも、柔らかくはにかんで笑った。
そんな奴に大きく手を振る。ありがとう。
いってらっしゃい。
俺もずっとずっと、そう思ってる。
「お前に出会えて、良かった」