冷徹な目をした医師は小さく咳払いをしてペンの動きを止めた。
膝の神経を貫く様な痛みと共に降ってきた言葉。
医師に掴み掛かりそうになって立ち上がった俺は、己の膝の激痛によりその場に崩れ落ちた。
【全ての終わり、そして始まり】
キィン、キィンとバットがボールを弾く音が止めどなく聞こえる。
ボールをミットが受け止める音がグラウンド全体に響き渡る。
全て、
こんなに耳障りな音だったっけ?と死んだ目でそれらを見つめ、片方だけ異常に膨らんだ膝の上に顔を埋めた。
ここ最近練習は見学のみ、自主練は膝に負担がかかるからと止められた。
片膝を庇って少しずつ慎重に進む様は実に滑稽で愚鈍。
単なる階段の上り下りに顔を顰めもどかしさに机に拳を振り下ろす。
皆嫌いだ、死んでしまえ
(如何にも他人事といった風に淡々と怪我の説明をする禿げ面の医師、黙って車を運転しバックミラー越しにさえも視線を逸らす親、掛ける言葉を探し何度も吃りながら慰めと偽った愚弄を繰り返す学校の奴、そして、素知らぬ顔で普段通りの練習を俺抜きで行う監督)
でも本当は気付いてた
(誰よりも死んでしまえ、俺)
「榛名」
皆より遅れて、相変わらずビッコを引きながら更衣室へと入った俺は、未だユニフォーム姿のままで入口にいる俺の方を向いているチームメイト達に目を見開いた。
数名が泣いている。
「俺もう見てらんねーよ…今のお前。そんな荒んだ目してさ」
最前列に立つファーストが涙を拭う。
「今はキツいかもしんないけど、お前はそんなんじゃダメだ!前みたいに、楽しんで野球やろうぜ…」
その隣りに立つショートがキャップと顔面をくしゃくしゃにして泣く。
「お前野球好きだろ!ピッチャーだって、プロになりたいとか語る位好きじゃん!だから、そんな顔して…俺らの野球睨み付けてんじゃねーよ…」
俺の正面に立つ4番がしゃくり上げながら叫ぶ。
俺はゆっくりと傍の窓ガラスに顔を向けた。
そこに映った鋭い眼光と視線が合う。
チームメイトの話がよく理解出来ない。
前の俺の顔って、どんなだっけ?
どんな顔して、野球やってたんだっけ?
俺にとって、野球って…
「榛名」
後ろにいて見えなかったチームの主将が進み出て、俺の肩を掴んだ。
強い握力と眼差しが俺を捕らえる。
更衣室は啜り泣きの音で充満していた。
「お前はこんな所で終わっちゃダメだよ。ここはいいから、戸田北シニアに行って来い」
「野球、辞めんな」
主将の潤んだ瞳が印象的だった。一生忘れられない眼だと思った。
本当は誰かにすがりついて泣き喚いて、恐いって知って欲しかったんだ。
野球が出来なくなるのが堪らなく恐いんだって、もう今までの様に投げられなくなるんじゃないかって、誰かに打ち明けたかったんだ。
「分かった」
「榛名…」
「でも分かんねーよ、俺もう、前どんな風に野球やってたのか忘れたし。戸田北には…俺の球捕れる奴、いないかもしんねーし」
「でも、辞めねーから。野球。ありがとな」
そこで俺の野球人生は一度終止符を打った。
軋む扉の音。
俺はそこで確かに、俺の全てを捨てたんだ。
あれから、既に4か月程が経った。
残照の照らすマウンドは雨上がりの為ぐちゃぐちゃで、いくつもでっかい水溜まりが出来ていた。
雨、もう上がりましたよって空を見上げる後輩の小さな背中。吹き抜ける冷たい風。
「隆也!」
呼んでやると奴は振り向いた。
駆け寄って肩を組んでやると、そいつは照れて赤く染まった顔を背ける。
「鬱陶しー…」
「んだよ!」
薄灰の空、雲の隙間から覗く水色。
零れる光の粒子が水溜まりに反射する。
隆也の柔らかい髪の毛を掻き上げて、俺は笑った。
「じゃ帰るか!隆也チャリで送ってってやるよ」
「恥ずかしーから遠慮しときます」
俺の人生が再び始まったのは、きっとお前のお陰だよ。
(今はまだ照れ臭くて言えねーけど、マジ、ありがとな)