丁度中間テスト一週間前、部活が休みになる日だった。
あぁ今日から明るい内に家に帰れるんだなんて内心ほっとしながら帰宅の準備をする。
掃除時間の終了を告げるチャイムの音に紛れて、ズボンのポケットに収まる携帯が微かに震動した。
こんな時に誰だなんてこっそり画面を見て、俺は一気に青褪めた。
【忠犬の性分】
「阿部〜今日一緒に帰…」
「ワリ、栄口!俺急用」
自転車置き場で声を掛けられるも、それを遮る様に俺はチャリのスタンドを蹴った。
栄口は首を傾げながらも、理由を聞かずに手を振った。実に気が利く奴だ。
びゅんびゅんと風を切りながらいつもの三倍のペースで自転車を漕ぐ。
すれ違う人々が振り返ってこちらを見るが、気にせず無我夢中で進んで行く。
そしてかなり時間を短縮させ、息も切れ切れで、俺は自宅とは違う家の前に辿り着いた。
「あの…だい!じょうぶ…っですか、元希さん…!!」
家のインターホンも押さずに俺は玄関の扉を勢い良く開いた。
叫ぼうとしたが息切れのせいでまともな声が出ない。
しんとして反応がない家宅。
早鐘を打つ心臓と額に浮かぶ汗。
今思えば実に無駄な努力である。
「ふぇーい」
飛び付かんばかりの勢いで身を乗り出した俺は、出て来たその家の持ち主を見て、ガクリとうなだれた。
通学鞄がどさりと音を立てて落ち、玄関の靴を乱す。
「早かったな隆也ぁー。まぁ上がれ」
まだ制服姿のそいつは、実に呑気に俺を手招いた。
沸々と沸き上がって来る怒りと反比例する急激な安堵感。
その場に倒れ込みそうになるのをぐっと持ち直してから、俺は前方の榛名に向かって怒声を浴びせた。
「ふっざけんな!アンタの為にどんだけ急いだと思ってんだ!!!」
「んぁ?あーそりゃどーも」
「俺は怒ってんだよ!」
まるで分かっていない榛名に携帯を見せつける。
そこに写る、まさに榛名本人からのメール本文を。
「…え、で、何?」
「何?じゃねえッ!なーにが『緊急 すぐうち来い』だよ馬鹿野郎!!何事かと思ったじゃねーか!その惚けた顔に一発ブチくらすぞ阿呆!!!」
掴み掛からんばかりの勢いで吐き出してから、大きく肩で呼吸をする。ぐらぐらと頭の血が沸く感触がマジでしてくる錯覚。
ぽかんと口を開けて俺を見つめて来るそいつは無垢なる瞳で
「俺ふつーに頼んだだけじゃん。お前心配症も程々にな!」
と言い放った。
こうさせたのは一体誰だと。
しかしここは俺の方がぐっと堪えて話を進める事にする。
なんて大人な俺。見習え一コ上。
「…で、緊急って?」
「あーそれな。なんか今日から家族がほーじで地元帰るって。結構長居するらしーからさ、自主連とテストある俺は留守番」
「……………あっそう俺は帰る」
待て待て待て!と榛名は背を向けた俺の腕を掴んだ。
ふざけんな留守番出来ない小学生じゃあるまいしそんな都合で俺の貴重な休みを奪うんじゃねえそしてそれなら他校で後輩の俺を呼ぶなお前どんだけ友達いないんだ人間関係も盛大にノーコントロールかオメー。
「…めし」
「メシ?」
「カップラーメンじゃ栄養のバランス崩れんだよ。でも俺料理出来ねぇ」
…そうかい。
どうせ左手包丁で切ったらとかまたギャーギャー騒ぎ出すんだろおま…究極の困ったちゃんかよ。むしろ糞だろう。
「俺は家政婦ではありません、ただの他人です」
「元夫婦だろ!」
「うわキモッ!キッモ!夫婦とか言ったよキモ!バッテリーだろ!夫婦とかキッモ!」
「テメ!リアルに引いてんじゃねぇよ!」
「だって夫婦はないでしょー」
「え?言わねぇ?夫婦とか言わねぇ?俺ずれてる?」
「俺アンタの事嫌いだから」
「え、なんでそんな改めて言ってんの傷付く」
玄関先で如何程やりとりを繰り広げているのだという感じだが、榛名が引き下がらないので上がろうにも上がれないむしろ帰りたい。
だが榛名が纏わる様に俺の腕を引く為前に進むかこの場に止どまるかの選択しか俺にはなかっった。
帰りたい。
「てことでな、隆也、うちの親が帰って来るまでこの家に榛名隆也として滞在しろ!」
「嫌ですよ字面が悪い」
「俺は突っ込まねぇぞ。………イヤらしい意味ではなく」
「うわキモッ!その明らかに不必要な補足説明キモッ!」
「るせぇ!とにかく、要るもん家から持って来るか俺の借りるかして、今日から隆也はうちに泊まってうちから西浦に通うんだ良いな!」
榛名元希は知った頃から大概自己中だと知ってはいたがここまで来るとオレ様とかいうキャラ付けで許される範囲じゃないだろう。普通にムカツクだろう。
俺はこんな勝手の悪い場所で日常生活、ましてやテスト期間を過ごす事なんて出来るはずもない。
榛名がいるって時点で既に公害とお隣りさんみたいな感じだし。つーかこいつ夜鼾かきそうで嫌なんだもん。
そもそもこいつはいつも他人の気持ちや都合を考えなさ過ぎるんだよ。
シニアの頃、ほんの一時期でも、その…本気で惚れかけたけど、………いや、その話はここでは置いといて。
「元希さん、俺、テストちゃんと頑張って一定の水準より上回っときゃいけないんですよ。…分かりますか?」
「………ん」
「一人で不安なのも分かりますけど。そこはなんとか頑張って下さい。もう子供じゃないんだし」
まるで泣きじゃくる子供を宥めるみたいに、俺は低い姿勢で榛名に向かった。
榛名は少し肩を落としてから、小さく頷く。
お前…むしろここで怒るべきだろうと思うのは俺だけか。
何いきなり可愛い感じ装ってんだその寂しそうな顔!腹立つ。
「ごめんな隆也」
「……はい?」
「俺さ、あんまそういうの…考えてなかったから。ただ、その…机に大量のカップラーメンと、魚肉ソーセージととろけるチーズくらいしかそのまま食えそうな食いもんが入ってない冷蔵庫見て、どうすりゃいいか分かんなくなってさ…。ごめんな」
「………」
「俺もお前に頼ってばっかじゃいけねぇよな。後で冷凍庫も漁ってみっから。…今日はサンキュ」
榛名はそう言って、ずっと掴んでいた俺の腕を離した。
掛けられた力を失った右腕がぶらんと落ちる。
榛名は目尻を下げて、
「じゃ、またな」
と笑って、俺の頭を撫でた。
その晩俺が携帯で親に連絡を取り、榛名の夕飯を作るハメになったのは、言うまでもないかもしれない。