「なぁ隆也、これどの段ボールだっけ」
「あぁ、それならここが良いかも」
「おぅ、サンキュ」
俺の真後ろにあった段ボールを手前に引き寄せて、榛名はその箱の中に持っていたジャージを入れ込んだ。
部屋中に散乱した彼の私物を、俺は丁寧に段ボールの中に入れていく。
彼の荷物は、引っ越し業者を呼ぶまでもなく少なかった。
【引っ越し】
榛名から連絡があったのは、丁度一週間前だった。
「俺引っ越しするから。手伝って」
そんな短いメールに一々返事をしたりするから、俺は今こんな目に遭っている。
榛名のプロ入りが決定したのは知っていたから、引っ越しをする事について大して驚きはしなかった。
「にしても、大丈夫なんですかこんなに荷物少なくて」
「寮だから大概のもんはあるんだよ。後はあっちで買い換えるし」
「そう…すか」
「なんだよ、俺がいなくなるのが寂しい?」
榛名が意地の悪い笑みを浮かべながら俺の顔を覗き込んで来たので、持っていた奴のタンクトップで思い切りはたいてやった。
榛名は顔を押さえながら、いってー!かわいくねー!とか言って、また作業に戻った。
そんな訳ねーだろ、寧ろせいせいするんだよって自分に言い聞かせるように思って、俺は手に持った大きなタンクトップを畳み直した。
榛名とは、今でこそこうやって普通に会話してるけど、ちょっと前までは本当に酷い仲だった。
俺は榛名なんて大ッ嫌いで(今もだけど)顔を見るのも嫌だった。
自分でもしつこいと思うくらいに恨んで、妬んで、それはもう酷かった。奴は全然気づいてないみたいだけど。
いつの間にかそれがこうやって、シニアの時のような関係に戻っている。
憎まれ口を叩き合って、ふざけるアイツをあしらったりして、なんだか不思議な気分だ。
「いやでもさ、いざってなるとあんま実感湧かねーもんだよな。次いつ帰って来れんだろーとか」
「…はぁ」
「もうあんま会えなくなるなーって。色んな奴に。なんか微妙に寂しーよな」
しんみりと言うより、明るく話す榛名を見て、よくわかんねー奴だなと思った。
シニアの時、こいつは性格的にも野球のセンス的にも抜きん出ていて、というか浮いてて、1年近く組んでいた俺にも、結局こいつの事は最後までよく分からない仕舞いだった。
高校の話を聞くと、熱い奴なのかなって思うけど、隣りにいてこいつから熱さが伝わって来た事なんて一度もなかった。
確かに、高校でこいつは変わったと思う。でも人って、そんないきなり真逆のタイプに生まれ変われるわけじゃないし。
自分で思う自分と、他人が思うそいつとでは違うとか、そういう感じだと思う。
「元希さんは…」
「ん?」
「高校、好きですよね」
整理し終えた棚の引き出しを戻しながら、ぽつりと言った。
「そっか?」
「自覚ないですか?元希さん、高校の事楽しそうに、よく話すから…」
「まぁ、高校生だからな」
榛名のきょとんとした顔を見てはっとした。
何言ってんだろ、自分。
なんと返して欲しいのか、自分でも分からないような問いかけをしてしまって、俺は俯いた。
とりあえず話題を変えたくて考えたけど、それより早く元希さんが会話を続けた。
「…なんつーか…高校は、特別。先輩とか、すげーお世話になったし」
俯いたまま、聞きたくない話が始まっている事に気がついた。
心臓が縛り付けられたように苦しくなって、拳を力強く握った。
「色々思い入れあんだよな。思い出もいっぱいあるしさ…高校野球って、きっとそうだろ。隆也も」
一言一言が肩に重くのしかかってくるようだった。
聞きたくない。
自分もそう思うのに、でもアンタはそうじゃなかっただろって、得体の知れない疑心が身体の中で蠢いた。
「…隆也?」
肩に触れられて、思わずびくっとしてしまった。
どうかしたかって聞かれて、なんでもなかったように段ボールに封をする作業を続けた。
何か手を動かしていれば、視線と意識の集中先が定まって楽だった。
暫く無言のまま、作業はもうほとんど残っていなかった。
同じ大きさの段ボールが、部屋の隅に重ねて置かれていた。
「えと…あとやってないの、あります?」
「あぁーいや、これで良いや。あともーちょいあるけど、俺やるから」
「そうですか…」
さっきから気まずい雰囲気のままで、沈黙が更に居心地を悪くさせた。
やる事もなく片付いた部屋を見回していると、榛名が思い出したように時計を見上げた。
「うわ、もう1時じゃん!腹減ったと思ったぜ。隆也、メシ食ってけよ」
「え…いいですよ」
「いーからいーから。一応お礼な。ちょっと台所行ってくるわ」
引き止める前に、榛名は足早に部屋を出て行った。
取り残されたけど、かえって気が楽かもしれない。
俺は改めて、綺麗に片付いたと言うか何もなくなった部屋を見回した。
するとふと、榛名のベッドが目についた。
そこだけ手が加えられずに、起きたままの状態で、シーツや布団がぐちゃぐちゃになっていた。
榛名はさっき、引っ越しの準備がまだ完全に終わっていない事を口にした。
俺が整理をしていないのは、残す所ここだけだ。
そうなると、自ずと隠されているものの検討はつく。
これは奴に恥をかかせるチャンスかもと思い、俺は悪戯心からベッドの下を覗いてみた。
案の定、ベッドの下は埃を被っていて、それから一つの段ボールが隠してあった。
榛名が来ていないのを確認してから手を伸ばし、段ボールを引き出してみる。埃が宙を舞った。
少しドキドキしながら、年期の入ってそうな段ボールを開けてみる。
段ボールの中身はビニール袋で、何枚も重ねてあるのか何が入っているのかよく分からなかった。
どうやら予想していたものではないようで、俺はそのビニール袋をそろそろと取り出し、そして息を呑んだ。
ビニール袋の中からは、更にビニール袋に丁寧に梱包されたシューズやグローブが出てきた。
どれもボロボロで、それでいて見覚えがある。
そして一番下に寝かされた、洗濯して綺麗にアイロンがけされているユニフォームを見て、俺は確信した。
同時に色んな思いが、どっと込み上げて来る。
目頭が熱くなる。
俺も当時のユニフォームくらいは押し入れのどこかにしまってあるが、シューズなんかは使い物にならないし、卒団後すぐに処分してしまった。
ビニール袋からユニフォームを取り出して、先程のタンクトップよりずっと小さいそれを抱き寄せた。
「おー待たした…ってあれ、タカ」
大きなお盆に山盛りの焼きそば2人分を乗せて帰ってきた榛名は、部屋に一歩踏み入れたところでピタリと止まった。
みるみる内に顔が赤くなり、口をぱくぱくさせている。
「たっ隆也、何見てんだよ…!!」
慌ててお盆を足元に置いて、榛名が駆け寄ってきた。
段ボールから出たシューズやグローブをかき集めて、段ボールに詰め込んでいく。
すぐさま俺が固く握り締めたままのユニフォームを取り返そうとした榛名は、俺の顔を見てがくっと頭垂れた。
「あ〜もう…恥ずかしーなー…」
「そう…ですか?」
「いや…なんか女々しーじゃん。あー隆也にだけは見られたくなかった…」
赤い顔を手で隠しながら榛名は段ボールの中を覗き込んだ。
これ久しぶりに開けたなーなんてしみじみ言って、それっきり動かなかった。
手にしたユニフォームをもう一度見る。
この人は、俺が思っている榛名とは、少し違うのかもしれない。
そう思った。
「元希さんは」
「ん?」
「本当は…そういう感じなんですか」
あの春の試合から榛名がシニアを出るまで、俺は出来るだけ榛名との関わりを最小限に納めてきた。
無表情で接するか怒るか、ほとんどそんな顔しか見せないまま、ひたすら榛名がいなくなるのを待っていた。
卒団してこれを段ボールに詰め込む時、榛名は何を思っていたのだろう。
何を思い出しながら、こんなにも丁寧に思い出を封じ込めて、大切に取っておいたんだろう。
思えば思う程、胸が締め付けられるようだった。
「元希さん…は」
嫌われていたと思っていた。
見下され、避けられていたのは自分だと思っていた。
こんなにも大切に思ってくれていたなんて、今までずっと知らないでいた。
「損です。そんなだから俺…知らずに…」
「はぁ?何の事だよ」
どんどん小さな声になっていく俺に対し、榛名は首をかしげた。
「………馬鹿って話ですよ」
はぁ!?って身を乗り出されて、俺はユニフォームを畳んで段ボールの中に戻した。
「でも…どうして引っ越す前にこういうとこ見せるんですかね」
「え?」
「なんでもないです。…寮でも、元気に頑張って下さい」
「………は?」
恥を偲んでそんな言葉を吐いたのに、榛名は何故か眉間に皺を寄せて訝しげな顔をした。
「頑張ってってなんだよ。お前も頑張るんだよ」
「え…」
「お前も一年後来いよ。今度こそ絶対だからな!高校は裏切りやがって」
「な…え、あの…」
「俺が高校でどんッだけ苦労したと思ってんだ!何も言わずに違う学校行きやがって…大体お前はさァ」
「ちょ、ちょっと待って下さい!!何勝手に…」
「んだよ!プロになるんだろ!お前も」
ベラベラとまくし立てられて、今度は俺があんぐりする番だった。
榛名は当然の如くふんぞり返っている。
数秒間の凍結時間が過ぎた後、いつの間にかトントン拍子で話が変わっていたのに気がついて、俺はくつくつと笑い始めた。
「もっ…元希さんは、相変わらず…ですね」
「ア゛ァッ!?笑ってんじゃねぇよ!!」
「はは…もう…おかし…」
笑いながら、食べられないまま放置された焼きそばを思い出して、俺はそれを手に取って元希さんに渡した。
まだ何事か言いたげな顔をして元希さんは口を開いたが、そのまま無言で焼きそばを受け取った。
段ボールの積み重なった部屋の隅を見つめる。
そこでじんわりと実感が湧いてきて、ちょっとだけ寂しいと思えた。
「隆也」
「はい」
「今度こそ来いよ。また俺、期待しただけ虚しくなるし」
「勝手に期待してるだけじゃないですか」
軽く笑って、窓から差し込む日光に目を細めた。
暖かい季節が、もうすぐ来るのだと思った。