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溶ける傷口(HA)


車輪のカラカラと乾いた音が後方から聞こえた。
コンクリートのざらついた感触を、指で確かめる。
ぼんやり覚醒しきっていない頭と、右手に走る痛み。
地面に叩きつけられた俺は、あぁ、右手で良かった、なんて悠長に考えていた。



【溶ける傷口】



「隆也ー、隆也いる?」


グラウンドへの門を潜るなり、俺は声を上げた。
大抵俺より先に練習に出ていて、そのちっこい体でトンボを扱っている阿部隆也。
しかし今日、未だ奴の姿は見当たらない。

まだ更衣室でもたもたしてんのかな、と予想しつつ「隆也ァ隆也ァ」なんて呼んでいると、既にユニフォームに着替えたチームメイトが苦笑を交えて挨拶をしてくる。
俺は隆也を呼ぶ声の合間にそいつへも挨拶を返した。

「隆也は?」

「ん、まだ来てないみたいだけど」

「っち、何のんびりしてんだアイツは」

こういう日に限って俺より遅れてきやがる。全く、走って来なけりゃ一発くらすぞ、馬鹿隆也。
あーもうヒリヒリしてきた。風が染みてきて、超痛いんだよどうしてくれんだ。

「てかさ、元希…どうしたんだよそれ」

は?と振り返ると、話し掛けたチームメイトは俺の右頬を指差した。
頬っつーか、顎に近い部分だけど。
赤く腫れてじわじわ痛みを放つその傷は、俺の機嫌を損ねさせるには充分な不快さを運んできていた。

「あーこれは…」

面倒ながらも説明してやろうと口を開くと、鋭い痛みがそこから広がった。
そのせいで更に面倒臭くなったので、声は出さず口を開けたり閉じたりする。
瘡蓋のなりかけな薄い膜が、その開閉のせいで皮膚から離れる感覚がした。
チームメイトが俺の不可解な行動に首を傾げた、その時。



「元希さん、敦さん、今日和」

後ろからまだ声変わりしきってない奴の挨拶が響いた。
補足だが、敦とは俺の前にいるチームメイトでライト7番の林敦の事である。通称あっちゃん。俺は苗字で呼んでるけど。

「おー隆也、珍しくちょっと遅かったな」

「すいません、すぐ着替えて来ます…て、元希さん」

隆也の丸い目がキッと俺を見上げる。
かと思えば、じろじろと探られるように見つめられた。

「どうしたんです、その傷」やけに低い声だった。

「…こけた。自転車で」

そう正直に言った後、隆也と林敦の顔があんぐりと口を開けた。間抜け面が2つ並ぶ。
それらを交互に見て変な顔2つに吹き出すと、隆也はいきなり俺の右手首を引っ付かんで駆け出した。

「なんだよ!?」



走る走る、走る。
先程より更に驚いた顔になった林敦の横を過ぎ、元来た道を逆走。
直接は触れてないけど、手首の捕まれた感覚が手のひらの傷を痺れさせる。

痛かったけど、次第に汗ばんでいく隆也の右手を振りほどく事は出来なかった。




「他には」

水道のジャアアアという断続的な音と共に、隆也が低く呟く。
何か悪い事をしてしまったような気がして黙って右手を差し出すと、手首を再び掴まれて滝の如く流れる水に突っ込まれた。
傷口から腕に向かって駆け上がってくる痛みに思わず顔をしかめる。
冬場のため水道水は氷水並の冷たさで、感覚が麻痺し熱いようにも感じた。
傷口がどすの効いた赤から、鮮やかな赤に変わる。
そしたら隆也が漸く蛇口を捻って水を止めてくれた。

それから隆也は持っていたエナメルバックを漁り、新品同然なタオルを取り出した。
それで躊躇なく右手の水を拭き取ると、そのまま水道水でタオルを濡らして丁寧に頬を拭いてくれた。



「全く…もう」

小さく隆也が呟く。
心配と呆れの混じった瞳を見ると、また何故か悪い気がしてきた。

「どうして自転車でこけるなんてドジ踏んだんですか」

「…考え事」

「そんな似合わない事してないで、安全運転して下さい。こんくらいの掠り傷だったから良かったものの」

後で監督に救急箱貸してもらわなきゃと独り言を付け加えて、隆也はついでに溜め息もおまけした。

「今日投球練習やめとくかな」

俺も独り言を言うと、隆也から「練習自体休むかと思ってた」と吐き捨てられた。

そうだな、でも今日は何となく練習出てぇと答えると、隆也は眉を垂らして笑った。



「ちなみに考え事ってなんですか」

「内緒」





傷口に貼られたガーゼが、日の光を反射して白さを増していた。
隆也の事を考えながら自転車漕いでたらハンドル操作誤ってこけた、なんて洒落にならない程格好悪い。

自分が怪我するのは何より大嫌いだけど、でもなんか、この手当ては良いなと思った。
人の温かさが詰まってるみたいで、明日にでも治ってそうな。


そんなむず痒い喜びを感じるのは久しぶりで、俺はその日何度かこっそり自分の手のひらを太陽に翳してみては、無意識に笑ったりしていたのである。





耳に残る車輪の回る音と、俺の手当てをする隆也の小さく温かい手の感触。

中学の、俺の中で何かが変わり始めていた頃の、話だ。







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