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5年(H→A未来)


心にぽっかり穴が開くとは上手い喩えだと思う。
おもむろに自らの胸部に左手を宛がうと、微かに、どく、どく、と振動しているのが分かった。

どくん、どくん、どくん。

深く重く、心臓が脈を打つ。

ホテルの最上階から見渡すきらびやかな夜景。チカチカと目につくそれから背を向けて、俺はベッドに倒れ込んだ。



【5年】



あれから、5年以上経った。
ここでいうあれ、とは俺達の高校卒業を指す。
5年という月日は色んなもの、事を過去から変えてしまって、原型を留めない程変わってしまったもの、はたまた全く変わらないものを残していった。
例えば着るものなんていうのはその年毎に変わっていって、かと思えば何の気なく変えないでいるマグカップは未だ毎朝を共にしていたりする。



ベッドで寝返りをうって、仰向けの形になる。
疲労の為かとろとろと瞼が落ちてくる。先程シャワーも済ませた事だから、このまま眠ってしまおうかと思った。
心地好い脱力感に包まれながら、心臓に当たる部分へ手をやる。
最近、重い。心臓が日毎に沈むかのように、ずしりと重く感じる。
それは多分疲れとかストレスとかそんなものではなくて、何か言い知れない虚無感から来るもののように思えた。
胸の皮膚に穴が開いて、心臓に直接空気が流れ込んでいる感覚だ。息苦しくて、もどかしい。

着ているシャツを握り締めて、呼吸を整える。
こんな感覚になる事自体馬鹿馬鹿しいと思っていた5年前、俺の傍には当たり前のように彼がいて、また、当たり前のように馬鹿で愚かな俺がいた。




「どうでもいい事なんですけど、元希さんはすごいと思いますよ」

相変わらず余計な皮肉を前文に置いてから、彼は話し始めた。

「子供の頃からの夢を叶えられる人間って、この世界中に一体、何パーセントくらいいるんでしょうね」

野球少年が将来の夢として抱きがちな「プロ野球選手になる」。
口頭でなら誰にでも宣言可能なその夢は、実現するとしたら酷く狭き門を潜り続けなければならない事となる。

才能、努力、運。全てを兼ね揃えてこそ叶う夢だと、俺は考える。
プロ野球、しかもその上部を目指すのなら尚の事。
そしてその夢を果たした自分に、多少の自負があるのも否めない。

俺は所属する球団のエースピッチャーとしてそこそこの成績を納め、順風満帆な野球人生を歩んでいる。
自分が何故こうも野球と密接な関係の下生きて来たのかは、正直よく分からない。
これが持って生まれた運命という奴だろうか。



彼の話はまだ続いていた。

「アンタはすごいよ。なんで俺がアンタみたいな人と出会えたんだろうって、不思議なくらい」

同年代の人間に、そう過剰かつストレートに褒められた経験はあまりなかったので、俺は反応に困って適当に思い付いた言葉を彼に向けた。
自分が言葉にした内容は覚えていない。ただそこには彼の言葉があって、俺の心の染みとなり穴となり、決して消す事の出来ないものとなっていた。

「だから、俺はアンタを選ばないし、アンタの後を追ったりしない」

彼の意図は知り得ない。何故ならそこが、俺達の会話の最後となるのだから。



「だってアンタは、俺じゃなくても良いでしょ」





もしかしたら俺達の会話はその後もまだ少し続いたのかもしれない。
でも俺の彼への記憶がそこで途絶えているのは、つまり、それ程までにその言葉が俺にとって印象深かったという証拠だろう。

それを聞いた直後の俺が、何を感じ、何を返したのかは分からない。
ただ知り得るのは、きっとどうであれ、ろくな反応は出来なかったであろうという事実。

何故ならそれが5年前だから。
今の俺なら、ある程度ましな言葉を使って文章を作り、返答が出来たはずだ。
反論が、出来たはずだ。



5年経ったんだ。
もう、直接会話なんてする機会はないし、彼のメールアドレスだって、とうに俺の知らないものへと変えられているのだろう。
彼の実家への地図は、まだしぶとく俺の記憶の片隅に焼き付けられているが、そこへ行って何が変わるというわけでもない。

彼が俺に対して、自分の存在意義が見出せなかったのと同じく、今の俺にも、身に付いた文章能力はあれど、彼にとっての存在意義なんて、あの時点で消滅してしまっていたんだ。



違うんだよ、お前じゃなきゃ駄目なんじゃなくて、俺はお前が良いんだよ、って、あの頃の俺は思ったのだろう。
でもそれを言葉に出せなかったのは、絶対的であった俺の自信が、その瞬間今までの自分に対する不信感と自己嫌悪に変わってしまったからだ。



先日、実家に帰って部屋の掃除をした。
一人暮らしを始めた今も、家族は実家に俺の部屋をそのまま残してくれていて、いつでも帰って来られるようにしている。
何故か本棚に入ったまま処分されていない5年前の教科書を整理していた時だ。
あまり持って行っていない為にそう使用感のない一冊の教科書に、写真が挟まっていた。

青空をバックに、俺と彼が笑っていた。
当時の俺にしては珍しい無邪気な笑顔は、隣に寄り添う彼と同じものだった。

実は俺と彼が笑っているツーショットはその一枚限りで、今の俺には貴重なものだった。
しかし当時の俺は全くそんな風に思っていなかったのだろう。
それはこの写真の管理の悪さから悠に伺える。



今、彼はどうしているだろう。
どこに住み、だれと共に、どんな表情で日々を過ごしているのだろう。
思考を巡らせるだけでは、果てしない。
それ程、見当もつかない。

彼は今頃、俺ではないだれか素晴らしい上司に出会っているのかもしれない。
もしくはとんでもない上司に毎日口煩く言われているのかもしれない。
それにせよ、アイツよりはましか、なんて思われていたりするのだろうか。
そんな自分の想像にしか過ぎない事に、心が沈むような感覚になってしまう。



ベッドに寝転がったまま、左手を天井につき出す。俺の全てと言っても過言ではない、左手。

高く高く、もがく。
掴めない何かを求めて。



「隆也…」


沈んだままの胸中で呟いた。
虚しい。苦しい。
気づけば数年口にしていない、5年前まで「口癖」と笑われたその名前。



「隆也」


今度は声に出した。
はっきりと、耳に届く。
そしてそのまま、消えた。



隆也は今頃、俺の事など忘れているだろうか。
少なくとも、こんな事はしていないと思う。

俺もじきそうなるのだろうか。
5年で、色々な事が変わったのと同じように。
次第に、薄れていくものなのだろうか。



「隆、也…」




弱々しい声。何も掴めない指先。力が抜けて、みるみる天井から遠ざかってしまう。



霞んだ瞳に彼の姿を見た。
都合の良い事に、その彼は俺に向かって、優しく微笑みかけているのだった。





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