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5年(↓続き/HA未来)


あれから、5年が経った。
彼が俺の傍からいなくなってから、もう5年も経ったんだ。

最後の会話で俺が彼に言った言葉を、今でも時折思い出す。
フラッシュバックにも似たそれは、いつでも唐突に現れては、俺の心臓を踏み潰すように締め付けた。



【5年】



向かい合う相手のグラスの中の氷が涼しげな音を鳴らした。
そいつはストローで氷を浮き沈みさせたり、ストローの屈曲する部分を無意味に弄んだりしている。
こいつは昔から落ち着きというものがない。出会って7年経つというのに、相変わらずだ。

爽やかな水色のシャツを着たそいつは、俺達の間に流れていた沈黙を裂いた。

「阿部君は、仕事場…どう?」

出会って7年経つというのに、相変わらずの君付け呼びはなんだかむず痒かった。
大学を卒業した俺は無事に社会人の仲間入りを果たし、家から通える距離のそこそこ大きな会社に通勤している。
一人立ちも考えていたが、その必要も特にないのでまだ家族と一緒に暮らしていた。

「別に。三橋は?」

そう呼んでやったそいつは目を瞬かせて「俺も、普通だよ」と笑った。

三橋は出会った当初から会話というものが苦手だったが、流石に成人を果たせば然程違和感を感じない喋りになった。
ゆっくりと指でたどるような話し方に、以前多分に付着していた吃音はない。こいつも成長した証拠だ。

「それで?お前から誘うなんて、珍しいよな」

傍らのコーヒーカップの取っ手を手前に持ってきて、俺は三橋の目を見た。
三橋が積極的に人を誘うのは未だに珍しい事で、昨日メールを貰った俺も少し驚いた。
明日会わないかという内容は急だとも思ったが、都合よく仕事も予定もない日だったので二つ返事で了解した。折角の三橋の誘いを、無下には出来ない。

「話が、あって」

「うん」

「…阿部くんは、まだ榛名さんと仲直りしてないんだよね」

コーヒーカップに伸ばしかけていた手を、ぴたりと止める。
予想外の名前が出てきた、と思ったがよく考えてみれば何故か三橋は俺と会う度に榛名という男を気にかける。
5年前の最後の会話の内容も、三橋には話した。

「してないよ。あれ以来会ってないんだから、当たり前だろ」

突き放すような口調でそう告げる。そしてコーヒーカップを手に取り、温くなったそれを渇いた口内に含んだ。

「俺、このままじゃだめな気がするんだ」

「なんで?つか、三橋が気にする事でもねーだろ」

「だめだよ…阿部くんと、榛名さんは…」

三橋は喉から込み上げる言葉を押さえ込むように喋る。
高校の時から榛名元希という人物に特別な、尊敬と名付けるべき感情を抱いていた三橋は、榛名元希に付属していた俺との関係を修復させたいと願っているのだろう。

「もういいんだよ」

「よくない…」

「頑固になんなって。俺はさ、あの人にひどい事言ったんだから…もう見放されてんだよ」



5年前、俺は彼に言った。
今でも鮮明に覚えている。


「だってアンタは、俺じゃなくてもいいでしょ」


怒らせただろうか。
悲しませただろうか。
そう思いつつも、その後なんの謝罪も出来なかった。
何故なら俺が言った言葉は真実で、俺がシニアの頃から抱き続けていた感情だったからだ。


彼は言った。彼が高校を卒業したすぐ後だった。

「お前もプロ野球来ないのかよ。俺、またお前とバッテリー組みてぇんだけど」

真剣な眼差しだった。だから、余計腹が立った。
アンタは一度俺を捨てたのに。
そしてその後、俺とは違うキャッチャーとのバッテリーで、プロに登り詰めるまでの成績を納めたのに。
なんで今更俺なんだ、調子の良い事ばかり言うんだ。

沸々と込み上げてきた怒りに任せて自分の気持ちを言葉にした。それから後悔した。でも、謝る程器用じゃなかった。



「もう5年経ったんだよ。今までもこれからも、同じだ」

残り半分のコーヒーに映る自分の顔を見た。
三橋は黙っている。グラスの水滴がテーブルの上に落ちた。
店内の洋楽がふと耳に入って、そこから周りの客の話し声も聞き取れるようになる。
あぁ、ここにはたくさん人がいたなとその時点で自覚した。

「俺が今日阿部くんを呼んだのは」

三橋がぽつりと口を開いた。
顔を見上げる。
三橋は意外にも、真っ直ぐに俺の眼を捕らえていた。

「俺が昨日榛名さんに会ったから、だよ」



その名前に反応するように、どくん、と喉を震わす鼓動を感じた。
ずっとテレビ画面越しにしか目にしていない彼が、昨日、目の前の三橋の前に、いた。

「な、んでだよ」

予想外に素直な言葉が出て、俺は自分に驚いた。
それでも三橋は真剣な眼差しで俺を見据えている。捕らえて、離さない。
マウンドに立つ三橋が、ミットを見つめるのと同じ眼。

「偶然、だよ」

そこで漸く、三橋の目は柔らかく笑った。
何かを確かめ終わったかのような、安堵した目。

「少し、話もしたんだ。一ヶ月前も来てたみたいなんだけど、その時の忘れ物を取りにって、こっちに戻ってきたんだって」

ゆっくりと三橋は話す。
俺は何故か緊張していて、服の上からでも心臓が勢いよく跳ねているのが分かった。

「明日の朝、電車で帰るって。次はいつ来れるか分かんないけど、多分ずっと忙しいだろうって言ってた」



「榛名さんは待ってるよ、阿部くんの事」






家に戻って、ベッドに倒れ込んだ。
天井の電気を見つめて、目を細める。

ずっと三橋の言葉を反芻していた。あの後三橋とは歯切れの悪い別れ方をしたから、後からメールを送っておこうと携帯を握り締めたままだった。
ぼうっと天井を見つめる。視界が白く濁る。

「榛名さんは待ってるよ」

意味はそのままの言葉なのに、うまく飲み込めない。
一番に願っている事なのに、否定の言葉しか浮かんでこない。

…ちがう、ちがう。
あの人は待ってなんかいないよ。
どんなに三橋が信じようと、
俺が願おうと。



瞳を閉じて暗闇の奥、彼を見た。
彼はどんな風に笑っていただろう。
眠気に吸い込まれながら、そんな事を思った。






暗闇から目覚めた時、俺は今の時間を考えた。
外はまだ薄暗い。手を伸ばした先の目覚まし時計を掴む。
長針がまもなく5時を指す。いつもは再び眠りにつくが、そんな気にもなれず顔を枕に埋めていた。
頭が覚醒していくにつれ昨日の出来事を思い出す。

しばらく帰って来ないかもしれない、という言葉に何も感じなかったわけじゃない。
でも今までだって会う以前に連絡すら取っていないのだから、何も変わりはしないんだ。
彼に合わせる顔がない。話していい内容も分からない。

ベッドから起き出して顔を洗おうと思った。
ぺたぺたと廊下を歩きながら想像する。
彼の笑った顔、俺に見せた優しい目。
どうして思い出せないんだろう。いつも、何度も、貰ったものなのに。

洗面所の扉を開けて水を流した。
冷たい水を顔に浴びせると、ぼんやりとしていた頭が覚醒してきた。




彼の笑顔を思い出そうとすると、必ず5年前の彼を思い出す。
俺だけを見つめる綺麗な瞳。
悲しみと困惑を織り交ぜた、胸を締め付ける表情。
咄嗟に、今のはいけない、と思ったのに。
なんで否定出来なかったんだろう。あの日ほんの少しの妥協で、簡単に修復出来たものを。



タオルで顔を拭いて、自室に戻った。
見慣れた殺風景な部屋。

彼がこの街を去る前に、彼を思い返そうと思った。
机の引き出しにあったはずのクリアファイルを探す。
中学、高校の頃の写真がそれには入っていた。
壁に貼ったりするのは気恥ずかしいし、かと言って自分用のアルバムも持っていないのでこんな扱いだが、高校を卒業してほとんど見ていない。
冊子の多い引き出しを丹念に調べて、漸くそのファイルが見つかった。



意外にも入っているのは5枚程度で、一枚は高校の卒業式、クラスの奴らと撮ったもの。
あとは大会のものが1枚、野球部の集合写真、三橋と撮られた写真。
そして、彼と俺の二人が笑って写っている写真だった。

青空をバックに似たような笑顔を見せている俺達は、同じユニフォームを着ていた。
そうだ、この笑顔だ、と思う。
この顔で、隆也、隆也と犬のように吠えた。

彼に裏切られたと思った。
散々傷つけられて、けど最終的に俺が一番傷つけた。
この中の俺達に、今、5年後の未来は予測もつかなかっただろう。
他人に戻ったような、遠い、薄い、繋がり。
思い出なんて俺の記憶とこの写真くらいしか残っていない、俺達の、当時は深かった絆。



ねぇ元希さん。
未だにプロとして野球を続けているアンタは、少しでも俺を思い出してくれてるかな。
この写真を、未だに持ってくれているのかな。
あの時俺に言ってくれた言葉は冗談だった?
それとももしかして、本気だった?
俺の言った言葉は、どれだけ酷いものだった?

ねぇ元希さん。
俺は自分勝手で我儘で、本当はずっとあんたと話をしたかったんだ。
テレビで声を聞きながら、全国民と同じ台詞を聞かされるのが、悔しくて嫌で仕方なかったんだ。

全部自分のせいなのに、馬鹿だろう。
でももしかして、あんたが少しでも俺に会いたいと思ってくれるなら、そんなの都合のいい戯言だけど。



会いたい。
会いたいよ。





時刻は6時を過ぎていて、日の光が地を包んでいた。
きっとまだ間に合うと自分に言い聞かせて走り出す。彼の家まで、走れば15分もかからない。
彼に会おうと決めた。



着替えだけを済ませて、俺は家を飛び出た。

早く、早く。
急く気持ちと進む身体に息を切らしながら、俺は走った。



見知った家の前で止まり時計を確認すると、7時前だった。
チャイムを鳴らす事に気が引けたので、とりあえずドアをノックしてみた。
思いの外すぐに中から声がして、人が出てきた。
女性だった。

「あら、隆也くんじゃない。久しぶり」

彼に目許のよく似た彼の母親はそう言った。
早くにすみません、と用件に触れない話題ですぐ、彼女は申し訳なさそうに言った。

「もしかして元希に会いに来てくれたのかしら。ごめんなさいね、少し前にもう駅へ向かったのよ」

え、と声が漏れる。
こんな朝早くに、なんて自分が甘かった。相手はプロ野球選手で、少しの時間も貴重なんだ。そんな悠長に休暇を過ごしてはいられない。

それでも。まだそう時間は経っていないと言う。
彼女から向かった駅を確認して、俺はまた走った。
こんな事なら車に乗ってくれば良かったと後悔したけど、取りに行くと遠回りになってしまう。

早く、早く。
加速し、高揚する気持ちが先立って走る。
会って、謝って、それから先はどうでもいい。考えておく必要もない。
会って、謝って、それから考えれば良いんだ。





最寄り駅はこの辺では比較的小さく、来る途中から線路の横を走る事になった。
駅が見えてくる。幸い入場券を買う程度の金額はポケットに入っていた。


ホームが見えた。と同時に、今隣を走っている反対車線から電車が来ているのが見えた。
彼がまだ電車に乗っていなければ。階段を駆け上がって改札を通り、ホームに出なければならない。
間に合うだろうか、難しい。

それでも走る。ホームにいる人を見渡す。
人数は疎らだ。見つからない。電車が減速する。



耳をつんざくような金属音と共に、電車は停車した。
その時、遠目からでも体格の良さが伺える長身の男の後ろ姿が見えた。
走りながら、線路と歩道を隔てる緑のフェンス越しにその男性を見つめる。


忘れない、ずっと追い続けてきた後ろ姿だった。



「元希さん!」



フェンスを思い切り掴んで、身を寄せる。
力いっぱい、声を張り上げて叫ぶ。

「元希さん!元希さん!」

気づかない。開く扉から出てくる人々の雑多音で俺の声は掻き消される。

「元希さん!元希さん…!」

人々が過ぎ去って、彼は扉へと一歩踏み出す。
今は僅か数十メートルの距離なのに、あの扉が閉まってしまえば、届かない所まで行ってしまうんだ。


枯れそうになる声で叫ぶ。
届け、届け。



「元希さん!」



その直後、彼の身体が動いた。
手繰り寄せられるような動きで、彼が振り返る。

久しぶりに見た彼の目は、俺の記憶より少し、柔らかく穏やかだった。



「元希さん…」


聞こえない程の声で呟く。
そして、彼の唇が動いた。



「隆也」



確かに、そう呼んだ。








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